サイババの御言葉:より良い半身(伴侶)ではなく、同等の半身

日付:1966年4月18日・場所:アナンタプル市
女子児童と女子生徒に向けた公立女子基礎訓練学校での御講話より

より良い半身(伴侶)ではなく、同等の半身


学校というところは、国の様々な世代の運命を形作って創造するという神聖な務めが実行に移されている、本当に神聖な場所です。ここの子供たちは技能や特別な才能を身に付けます。それらは子供たち一人ひとりを幸福という目的地へ連れて行き、さらには、子供の家族と社会を平安と繁栄へと連れて行ってくれるものです。子供たちはここで矯正され、訓練されます。子供たちは、この国の古代の賢者や聖者が発見して伝えた偉大な文化の手ほどきを受けます。

ですから、ここは神聖な場所であり、私はここに来てこの子たちに会えたことを嬉しく思います。私は、子供の両親が、特に母親が、招待されて式に参列していることを嬉しく思います。というのも、親たちは、自分と責任を分かち合ってくれている人々に感謝を寄せることができるよう、我が子が通う学校と我が子を教えてくれる教師を知っておくべきだからです。

何にもまして、子供たちの人格を、強く、純粋なものとしなければなりません。善良で、正直で、己を信頼する子供になるために必要な自信と勇気を与えなさい。生計を立てる術を身に付けたとしても、それだけでは十分ではありません。生活水準よりも生活態度のほうが重要です。さらに、子供たちは、自分の宗教、文化、教育から得たものに対して、そして、母国に対して、敬意を持たなければいけません。母国語をよく勉強しなければいけません。そうすれば、この国の賢者たちが綴った詩や叙事詩を正しく理解できるようになります。それらは来たるべき嵐のような日々に貴重な指針を与えてくれるでしょう。さらに、子供たちは母国への敬意も深めなければいけません。なぜなら、バーラタ〔インド〕は最も古い国であり、かつ、人間にとって最も賢い教師であり、ここに生まれた子供は皆、バーラタの非常に普遍的で非常に意味深い教えを知り、尊敬し、実践する偉大な責任があるからです。

ハートに妬みが入り込む隙を作ってはならない

人のハートは、幼い時にはとても柔らかで、仲間の悲しみや苦しみに反応します。ところが、年長者たちの見本、両親から受けた教え、加わった仲間、学校や社会で受けた教育が、柔らかなハートを石にしてしまうのです。ハートを柔らかなままに保ちなさい。悲しみや喜びを他の人と分かち合うことを身に付けなさい。他の人があなたよりも幸せな時や、他の人が賞をもらったり、試験でよい成績を取ったりした時に、妬んではいけません。その人たちの努力を見習い、自分に今より高い知性、あるいは、高い記憶力が授かりますようにと祈りなさい。そして、あなたのハートに妬みや意地悪な気持ちが入り込む隙を作ってはいけません。妬みは致命的な毒です。その毒は、人格を汚し、健康を害し、あなたの平安を奪います。嫉妬心のない人(アナスーヤ)になりなさい。そうすれば、あなたは、創造の神、守護の神、破壊の神を支配することができるでしょう。妬みは、穀物を育たなくさせる害虫のように、こっそりと入り込んできて、あっという間に広がります。ですから、ほんの些細なことに対しても、絶対に妬みの餌食にならないように油断しないことです。

親は、子供に聞こえるところで人の欠点を言ったり、子供の繊細な心を前にして憎しみや妬みを見せてはなりません。シュリーシャイラムの女神はブラマラアンバ(蜂の母)〔ブラマラは蜂、アンバは母の意〕と呼ばれています。それは、シヴァ神の栄光の芳香に引き付けられて、いつもシヴァ神の御足を飛び回っている蜂です。なぜなら、シヴァ神はマッリカアルジュナ、すなわち、白いジャスミンと呼ばれているからです。子供たちのハートは純粋で、容易に、そして自然に、主なる神の御足に引き寄せられていきます。なぜなら、子供は神の栄光の芳香を吸い込むのを妨げるヴィシャヤ ヴァーサナー(感覚器官が追い求めるものへの執着)を持っていないからです。そのような子供たちの顔から放たれている至福は、生まれつきの純真さと愛らしさの証拠です。

親を尊敬して敬意を払うことを身に付けよ

ここにいる子供たちの親は祝われなければいけません。なぜなら、ここにいる親たちは我が子への学校教育の大切さを認識し、経済的、社会的な様々な困難にもかかわらず、我が子をここに入学させたからです。我が子が教育の恩恵を受けられるようにと、この中の何人の親が毎日十分な食事をとらずに済ませているかを、私は知っています。子供たちは、これら一切に、そして、両親が抱いている我が子への愛に、感謝しなければいけません。両親は毎日あなた方の健康を祈っています。両親はあなた方に悪いことが降りかからないようにと祈っています。両親はあなた方が学校で良い評判を得るようにと祈っています。私はそのすべてを知っています。なぜなら、両親は私に祈っているからです。あなた方はそのお返しに、どうしたら両親を幸せにすることができるかを学び、その通りに振る舞わなければいけません。お嫁に行くまでは両親の世話になり、お嫁に行ってからは嫁ぎ先の家に名声と評判をもたらさなければいけません。それはあなた方の義務であり、その義務を果たしたときにのみ、あなた方は神に祝福されるのです。

両親はあなた方に体を与え、体の中に入れられている愛と知性を育ててくれました。ですから、両親は感謝を受けて当然なのです。もし人の姿をした創造者である両親を敬わないなら、どうやって神の姿をした創造者を敬うことを身に付けることができますか? その上さらに、両親は神の栄光を明らかにし、神を崇拝する方法をあなたに見せてくれています。両親はあなた方が最初に出会う権威の代表者です。それは愛と思いやりによって和らげられた権威です。その権威の前に頭(こうべ)を垂れることを学びなさい。そうすれば、主なる神への服従の仕方を学ぶことができるでしょう。枝が曲がれば木も傾きます。

学校教育は、単に食べ物(アーハーラ)を得るため、喜び(アーラーダ)を得るため、生活費を稼ぐため、余暇を楽しむためのものではありません。学校教育は、神聖な資質である理知的な識別力(ヴィヴェーカ)、無執着(ヴァイラーギャ)、明晰さ(ヴィチャクシャナ)を活性化させるため、そして、愛(プレーマ)を花開かせることによって個々の中に平安(シャーンティ)とサティヤとダルマという美徳を確立していくためにあります。

信仰心は力と平安を与えることができる

先ほど掲揚された旗は、勝利の旗です。インドが勝ち得た自由を示す旗です。この旗を学校の中庭に掲げる時、それは、生徒たちをインドの古代の文化にふさわしい国民に、インドの貴重な遺産である霊的な富にふさわしい国民に育て上げることができたという、学校の勝利を示すものでなければいけません。根は教育であり、果実は美徳です。そうでなければ、学校教育の一切は時間とお金の無駄遣いになってしまいます。ここはサラスワティー女神の寺院です。サラスワティー女神は、究極の真理を理解する英知、無知を永久に一掃する知識を獲得する英知を授けてくれます。それはシャンカラーチャーリヤが聖地カーシーで女神アンナプールナー〔豊穣の女神〕に乞(こ)い求めた施しであって、体の餓えを満たすための一握りの米の施しではありません。

ドラウパディーが不死身になったのは美徳のおかげです。インドには、何世紀にもわたって激賞される美徳と英知を備えた偉大な女性がたくさんいます。シーター、サーヴィトリー、ガールギー、アナスーヤー、ダマヤンティーといった女性たちは、何千万という人から崇拝され、その人たちのハートに祀られています。苦難や危機に直面した時、その人たちは彼女たちからひらめきを引き出します。彼女たちは苦しむ人たちすべてへの穢れなき愛でいっぱいでした。いつでも貧しい人や苦悩している人に奉仕する用意ができていました。神への信仰心がとても固かったので、喜んで神の意志に服従し、最も悲惨な窮状に耐えることができました。信仰心は、それほどの強さと平安をあなた方に与えることができるのです。

皆さんは、先生方を愛し、敬わなければいけません。それは高潔な人格をもたらしてくれる修養の第一歩です。先生方は皆さんの進歩を教師としての仕事の活性剤としています。先生方は、皆さんの過ちに耐えるという、おおいなる寛容さを持ち合わせています。先生方は、皆さんの手を取って、世界と世界の創造主についての知識のワンダーランドへと優しく導いてくれます。もし先生方を軽視するなら、先生方がぜひとも皆さんに教えたいと思っていることを吸収することができるでしょうか? 学び(シクシャナ)がなければ、守護(ラクシャナ)はありません。教育だけが安全を確かなものにするのです。教育を受けていれば、虚を言うこと、人の財産を着服すること、他人を嫌悪すること、他人の弱さや無知を利用することをそそのかすこの世の誘惑から、逃れることができるでしょう。

インド人の結婚の理想

ですから、あなた方の教育を任されているこの年長者たちから、最高のものを得なさい。この人たちは、その目的のために特別に研修を受けた先生であり、優秀ゆえに選ばれた先生です。もしあなた方が先生の努力に応えるならば、先生方の熱意は燃え続けるでしょう。古代においては、師の言うことが一番でした。皇帝でさえ、師が我が息子を教える自由、罰を与える自由を、邪魔することはできませんでした。息子は師のもとに預けられ、師は、息子を指導して上達させるために、あらゆる努力を傾けて支援しました。師に反抗する息子の肩を持つことなど、決してしませんでした。ところが、今は子供のほうが主人です。単語の書き取りで悪い点を取れば、親は不運な教師に戦線布告をします。教師たちは、ほんのわずかな罰さえ教え子に与えることができずにいます。今、教育水準と学習水準が低くなっているのは、そのせいです。

女性の理想は「サティー」、すなわち、「忠実な妻」、「愛に満ちた母」の地位にあることです。そのダルマはとても賞賛に値するものです。インド人の結婚の理想は、一つの体の右半身が夫、左半身が妻であるというものです。夫(パティ)と妻(サティー)は互いを補い合う同士であり、一つの体の半身です。シャンカラーチャーリヤが儀式に造詣の深い著名な学者マンダナミシュラに智慧比べを挑んだ時に、その議論と反論を聞いてどちらが勝ちかを決める審判は、智慧比べをする当人であるマンダナミシュラの妻であったウダヤバーラティーその人でした。対戦相手もそれに同意したのです! 考えてもごらんなさい。ウダヤバーラティーの知性の高さのみならず、また、それ以上に、ウダヤバーラティーの公正さと正直さを、二人がどれだけ信頼していたことか!

真のヒンドゥーの主婦のあかし

シャンカラーチャーリヤとマンダナミシュラが長時間にわたって智慧を戦わせていた間、ウダヤバーラティーは家庭の義務をおろそかにしていたと思いますか? いいえ、ウダヤバーラティーはしっかり家事をこなしていました。これぞ、真のヒンドゥーの主婦のあかしです。ウダヤバーラティーは傑出した学者でしたが、それでも台所で夫と客人のために料理をし、理想のグリハラクシュミー(家庭の女神)のごとく家庭を切り盛りしていたのです。ウダヤバーラティーは、二人の対戦者の首に花輪を掛けてから、その場を離れて家事をしに戻ったと言われています。ウダヤバーラティーは、どちらが勝者かはすぐにわかったと言いました。なぜなら、勝者の首にかかっていた花輪は依然として香しく新鮮であったのに対して、敗者の花輪は萎れていたからです。

その判決によって最終的に夫が智慧比べに敗れたとき、ウダヤバーラティーは前に進み出て、さらに競争を続けるために等しい半身(伴侶ではなく左半身)としての自らの権利を主張しました。

「私を打ち負かすまでは、あなたは勝利の栄誉を主張できません。なぜなら、私は夫の半身であり、私はまだ敗れていないのですから」

このバーラティー〔バラタの末裔である女性〕は、皆さんにとって、なんと偉大なインスピレーションを与えてくれる存在であることでしょう! 私たちのプラーナ(神話)、シャーストラ、ウパニシャッド、ヴェーダ、この国の聖者や賢者たちの人生には、あなた方の道を照らし出す指針として役立つこうした出来事が何百も含まれています。それらを学び、役立つものを得なさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C12

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