サイババの御言葉:愛という奇跡

日付:1967年10月5日・場所:プラシャーンティ・ニラヤム
病院の日のサティヤ・サイ総合病院十一周年祭における御講話より

愛という奇跡


今日の「病院の日」を統括している医者のことを、私は何十年も知っています。彼はシルディにやって来たのですが、その初めの日以来ずっと、とても私に執心しています。シルディの体とこの体は違っても、体に宿っている者は同じです。そして、それゆえ私はどちらの場所に来た人のこともわかり、その人たちに果報を与えるのです。

私たちがここに病院を持ってから11年になります。入院患者のための12の病床、そして、その治療のための医者、看護師、医療機器、医薬品があり、それから、莫大な数の外来患者がいます。この病院があるのは、私のところに来た人たちを治すために、私が医者と薬の助けを必要としているからだなどと思ってはなりません。人々のなかには、病院で医者の治療を受けることを強く望んでいる人がいます。その人たちは、それこそが自分が治るための方法だと思っています。医者に注射をしてもらうことを強く望んでいる人もいます。その人たちは注射をされないと自分は大切にされていないと感じます。ですから、私は医者たちに、注射を一本打ってやりなさい、あるいは、何本でも繰り返し打ってやりなさい、と言っています! 丸薬と注射針以外は何も信用しない人も多くいます。この病院にやって来て、病院の中にいる間、彼らはプラシャーンティ・ニラヤムの静けさに耳を傾け、そこから漂ってくる至福を感じます。彼らはバジャンに反応し、バジャンに参加している人々がどれだけ幸せであるかを目にします。この健康の館(病院)にいるとき、彼らは至福の館(プラシャーンティ・ニラヤムの礼拝堂)に引き寄せられます。そうして徐々に信仰心を身にまとい、それが彼らを病気から守るようになります。

今、病気がすべての家庭をとらえている

〔この病院があるのには〕もう一つ理由があります。進行性の病気にかかっている人たちも大勢ここに運ばれてきます。彼らをシェッド〔アシュラムの簡易宿泊所〕で他の人々といっしょに泊まらせるわけにはきません。そうした病人には、きめ細やかな注意、愛のこもった世話、食事療法、特別な設備が必要であり、それらは病院でしか提供できません。ですから、その人たちはこの病院に入って、私のダルシャンと私の援助を待ってよいのです。大勢の帰依者の集まりの中にいるよりも、病院にいるほうが面倒を見てもらえます。

二人の人が顔を合わせたら、相手の健康のことを尋ねるのが礼儀とされています。これは東洋人にも西洋人にも当てはまります。皆さんは互いに「お元気ですか?」と尋ねます。二人とも刻一刻と死に近づきつつあるという事実とは関係なく、そう尋ねます。実際の話、二人とも少しずつ衰えつつあり、健康を確保しているわけではありません! 呼吸で一息吐くごとに、寿命の一部が逃げていきます。ですから、宇宙に内在し、自分に内在する神を顕現させるために有効な現在を活用するよう、互いに警告し合い、思い出させ合い、教え合わなければなりません。

体は良い状態に保たれていなければなりません。というのも、人間の体という仮の住まいの中にいるときにだけ、人間は神を顕現させることができるからです。体は、食べ物とレクリエーション(休養や娯楽)と両親の習慣しだいで、強くも弱くも、有能な道具にも無能な道具にもなります。大人がこれらに注意を払わないために、子供の健康が損なわれています。今、どの通りにも病院や診療所や診察所があるのは、病気がすべての家庭、すべての家をとらえているからです。小さな子供でさえ眼鏡をかけ、若者が白髪を染め、多くの人が義歯をしています。その理由は、現代の家庭の空気が、人工的なもの、不安、妬み、不満、中味のない自慢話、虚飾、浪費、嘘、偽善で満ちているからです。このような、人を腐食させる空気の中で育つ者が、どうやって病気から逃れることなどできますか? もし家庭が満足と平安という清らかな芳香で満ちていたら、その家に住む者は皆、幸せで健康になるでしょう。したがって、大人たちには、これからの世代に対する大きな責任があるのです。

心に怒りが生じたら抑えなさい

怒りも健康を害する大きな原因です。さらに、他の理由からも怒りは危険です。怒りは同調者に長い爪痕を残し、その一つひとつが最終的な崩壊の一因となります。ですから、心に怒りが生じたら、神は遍在であるということ、万人に内在して動機を与えているのは神であるということ、人生という劇の監督は神であるということを思い出し、その激情を抑えなければなりません。あなたに怒りを起こさせた出来事以外のことを考える、ナーマスマラナ(唱名)をする、ベッドに横になる、長い距離を歩く、冷たい水を飲む――これらを試みて、あなたが勝つまで自分と戦いなさい。他人と争ってはなりません。自分自身の衝動と戦いなさい。中国軍が侵攻してきたとき〔1962年に勃発した中印国境紛争時〕、皆さんはペヌコンダ〔プッタパルティの南西37キロの町〕ではなくヒマラヤで戦いませんでしたか? ペヌコンダにはヒマラヤよりも容易に行くことができますが、侵攻は国境でなされたのですから、戦いは国境でしなければなりません! 敵を戸口で止めなさい。怒りを心の戸口で止めなさい。そうすれば、体の安全は確保されます。

私がサイ ババであることを明らかにしている印を知りなさい

健康が害されるのを防ぐ最良の予防薬は、心配しないことから生まれる至福です。私を見てみなさい。私はこの体を伴ってやって来ましたが、この体と他の人間の体には何の違いもありません。けれども、病気がこの体を襲ったことは一度もありません。いついかなる時も、それは不可能です。たとえ私が病気を歓迎したとしても、病気が私に近づくことはできません。また、私は病気に対して何の予防策も講じていません。私はあらゆる種類の食事を、あらゆる場所で、あらゆる家でとります。洗濯屋の部屋には各種様々な衣類が置いてありませんか? 私の食卓にはそれと同じくらい様々な料理が並べられます。帰依者たちが世界中からこのニラヤムに持ってくるのです。決まった献立はまったくありません。私は一つのものにこだわりません。私は、太陽が照りつけようと雨が降ろうと、夏であろうと冬であろうと、谷間であろうと高原であろうと、あらゆる天候の中を動き回ります。私は、今日はある井戸の水を飲み、翌日には別の井戸の水を飲みます。しかし、私はいかなる時も至福の権化であり、それゆえ、私は決して病気にかかりません。私は人から称賛されようが、けなされようが、少しも心を乱されません。愚弄して話されようと、崇敬して話されようと、私の至福は同じです。道端の木に甘い果汁が詰まった実がたくさん生っていると、それを見て感心する人もいますが、ほとんどの人々は〔実を落とすために〕その木に石をぶつけたくなります。頭のおかしい人や、ぼけた老人でさえ、その木に石を投げようとするでしょう。その木は、自らの豊かな恵みに対して罰を受けながらも、お腹を空かせた人や喉が渇いている人の幸せに貢献し、幸せを感じるのです。

こうした愛(プレーマ)こそが私を明確に区別できる印であり、意志だけで物や健康や幸せを創り出すことがその印なのではありません。あなた方は自分たちが「奇跡」と呼ぶものが神性の直接的な印だと考えているかもしれませんが、あなた方全員を歓迎し、全員を祝福し、遠く離れた土地であろうと、どこであろうと、苦しんでいる人、悲しんでいる人のいるところへと私を急がせる愛こそが、本当の印なのです! それが、私はサイ ババであるということを明らかにしているものなのです。

私にとっては毎日が祝日です。というのは、私の愛は毎日注がれているからです! けれども、皆さんが暦に注意を払い、今日のような聖日を特別に祝うので、私もここで祝祭を催すのです。医者たちがやって来て、私に「病院の日」を祝う許可を求めたので、私は「イエス」と言いました。なぜなら、それは、肉体という道具を健康で活動的に保つために必要とされる規律を私から知るチャンスを、皆さんに与えるからです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.7 C32

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