サイババの御言葉:死 ― 歓ばしい旅

日付:1968年2月23日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
第一回アーンドラ プラデーシュ州
サティヤ サイオーガニゼーション役員大会におけるババの御講話A

死 ― 歓ばしい旅


他の州ではこれと似かよった大会がボンベイやマドラスといった州都で行われていますが、このアーンドラ プラデーシュ州のサティヤ サイ オーガニゼーション役員大会は州都での開催ではありません。プラシャーンティ ニラヤムで大会を行うということ自体が、あなた方の名誉です。あなた方は、自分のハートをプラシャーンティ ニラヤムに変容させた後、自分の村をプラシャーンティ ニラヤムに変容させる、という任務を担っているということを思い出さなければいけません。

これは一切の霊的な努力が導く目的地であり、サナータナ ダルマ〔古来永遠の法〕のメッセージです。インドの賢人たちは、表面的な華やかさや一時の安心の道を手放して、内面の平安と永続する歓喜を得ようとしました。そして、それを得ることができるのは、アートマ(魂)と呼ばれる自己の内なる実在の根を通して生命の活力を引き出すことによってのみである、ということを発見しました。神によって明かされたこの教訓は、過去何世紀にもわたって数多くの学者や詩人や弁論者によって繰り返され、入念に練られ、広められてきましたが、それを人生の基盤として取り入れる人はわずかです。

この国の全土で何億という人々が神の御名を唱えていますが、確固たる信仰を持っている人はほとんどいません。アートマの内に存在する神の栄光を黙想することによってもたらされるアーナンダ(至福)を探求する人は、ほとんどいません。人々はそれを、ただの習慣として、あるいは社会への適合のため、あるいは宗教的な名声を得るために行っています。そのため、そのジャパ(唱名を繰り返すこと)は、痛みや悲しみや貪欲を癒してはくれないのです。

人は死を意識していないが、死はいつもそばにいる

アートマヴィッディヤー(自己の科学)が含まれている古代の聖典を学んだ学僧(パンディト)たちは、自分が何度も繰り返し語っていることを実践しておらず、ヴェーダに述べられていることを信じていません。疑いという癌腫がヴェーダに対する敬虔な姿勢を蝕んでいます。息子にヴェーダを伝授することによってヴェーダの学習を確実に存続させる、ということもしていません。彼らはヴェーダの価値をルピーを稼ぐための道具にまでおとしめ、ヴェーダでお金が得られないと、失望します。彼らは、宗教的でない職業に就いている人をうらやんでいます。しかし、信仰心を持ちさえすれば、ヴェーダそれ自体が彼らを養い、幸せで満足のいく人生を保証してくれるでしょう。

羽のある虫は跳びかかってきた蛙の舌に捕まり、蛙は知らぬ間に蛇の顎に捕まります。蛇は孔雀に殺され、孔雀は猟師に殺されます。一つの生き物は別の生き物の食べ物であり、死は昼夜を問わず、あらゆる瞬間に待ち構えています。死は刻一刻と人に忍び寄っています。死はいつ獲物に飛びかかるやもしれません。人は、このいつもそばにいる存在を意識していません。人は自分がいかにして死に出会うか、そして、自分の功績の果実を死がいかにして奪っていくかを、学んでいません。アートマは死にません。死ぬのは肉体だけです。このことがわかれば、死は毒を失い、恐れるものではなくなり、よく知っている港へと向かう歓ばしい航海の旅となります。

ダシャラタ王は、若いカイケーイー妃に夢中になり、いつでも望みの時に願い事を2つ何でもかなえようと約束しました! それは愚かなことでした。カイケーイー妃が、いつ、何を求めるかなど、誰が言えたでしょう? それはダシャラタ王をカイケーイー妃の思いつきの言いなりにさせました。カイケーイー妃の思いつきは末恐ろしいものでした! ラーマが摂政皇太子の座に着こうとしたまさにその時、カイケーイー妃は2つの要求を掲げました。それは、「ラーマを森へ14年間追放することと、代わりにカイケーイー妃の息子バラタが摂政皇太子の座に着くこと」でした。ダシャラタ王はそれを承諾しなければなりませんでした。ラーマが去った時、最愛の息子との別離の悲しみが王を殺しました。

外界のものや他者から得る幸福に没頭すること――それがダシャラタ王の死を招きました。すべての人がダシャラタ王です。人々は、自分の外にあるものから得る幸福に夢中になり、肉感的、物質的なものを追い求めることに没頭し、悲しみと死という報いを受けます。

奉仕はいかなる見返りも求めるべきではない

私の名を冠したオーガニゼーションは、私の名前を広めることや、私への崇拝を軸とする新たなカルトを作ることに使われるべきではありません。オーガニゼーションは、ジャパ(神の御名を繰り返し唱えること)とディヤーナ(瞑想)とサーダナ(霊性修行)への関心を広めようと努めなければなりません。これらは人を神のもとへと導きます。オーガニゼーションは、バジャン(グループで歌う神への讃歌)やナーマスマラナ(神の御名を憶念すること)から得られる喜び、サットサング(良い仲間)から得られるシャーンティ(平安)を身をもって示さなければなりません。

オーガニゼーションは、助けがなければ生きていけない人、病人、悩み苦しんでいる人、無学な人、貧しい人に、セヴァ(無私の奉仕)をしなければなりません。オーガニゼーションのセヴァは見せびらかしであってはなりません。見返りを求めてはなりません。受け手の感謝や謝辞ですらもです。セヴァはサーダナ(霊性修行)であり、お金持ちや恵まれた人の暇つぶしではありません。一人ひとりが自分自身の真実を悟らなければいけません。それが、私の行うすべての教え、すべての癒し、すべての指導、すべての組織、すべての助言の目的です。

血液は体内のどの部分でも同じです。しかし、目は目にしかできない機能を有しています。耳もしかりです。塩は、舌には歓ばれますが、目に入れれば目を痛めます。これはヴァルナアーシュラマ〔色層〕組織の基盤です。生まれ持った技能や才能に応じて適した義務や責務を的確に割り当てるのと同時に、年齢や霊的な成長の度合い(アーシュラマ)に応じた義務や責務(ヴァルナ)の指示を与えるのです。行動を規定して、感情や激情が限度を超えないようにし、満足と平安を保証するために、そうした制度が必要なのです。しかし、そこには愛と互いへの敬意が浸透していなければいけません。愛を育て、愛を振りまき、愛を収穫しなさい。これよりも偉大な宗教はありません。これが最も高貴なセヴァです。

正直で、礼儀正しく、信念を強く持っていなさい

誰かを喜ばせるため、あるいは、人に強いられてサティヤ サイ オーガニゼーションを始めてはなりません。5月にあるボンベイでの世界大会に招かれるのは役員だけなので、大会に出席することができるよう、新しいユニットを発足して自分を役員にするような人が出ないよう、今は誰もどんなユニットも始めてはなりません。ユニットは、人々の間に痛切な必要性、切なる望みが生じた時にだけ、始めるものです。バジャナマンダリー〔バジャンを行うユニット〕を結成しておきながら、自分はバジャンに参加しないで、嘲笑の的になってはなりません。もし、あらゆる活動の中でバジャンがとりわけ有益だと純粋に感じているのであれば、マンダリー(帰依者の小さな集まり)を始めなさい。そうでないなら、手を出さずにおきなさい。

皆さんと私は今、共にあります。自分の地元の村から来た帰依者たちといっしょに、私のためにサーダナ〔霊性修行〕という一つの花輪を作りなさい。私は誰に対しても、特別な執着も、どんな嫌悪感も持ちません。私はここにある扇風機のようなものです。スイッチを入れれば涼風が得られ、スイッチを切れば涼風は得られません。扇風機は執着も嫌悪感も持ちません。人前ではあることを言い、その人たちがいないと別のことを言うのはいけません。それは世話役として悪いことです。公正であり、正直であり、礼儀正しくあり、信念を強く持ちなさい。その時、あなたが着手するすべてのことに私の祝福が注がれます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8. C6

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