サイババの御言葉

日付:1968年3月26日・場所:ネッルール市
プラシャーンティ ヴィドワン マハーサバーにおけるの御講話より

上へ下へと引っぱる力


〔1968年3月24日、スワミはヴェーンカタギリの藩王の主催によるネッルール市でのアティ ルッドラ ヤグニャの開会式を行い、その後、26日から28日まで開催されたプラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバー(ヴェーダを復興するためのヴェーダ学者の会)のヴェーンカタギリ支部の会合を祝福なさいました。〕



ジョティール リンガ(シヴァ神の霊妙な輝く姿)〔中に炎が入っているリンガ〕は、上の磁石の引力と下の磁石の引力の間で宙に浮かんでいる象徴です。このリンガは明らかに鉄を含む形成物質です。人間も鉄を含むリンガのようなものであり、解脱、すなわちパラマートマとの融合を切望することによって上に引っぱられ、五感を満足させること、獲得すること、周囲の自然界の物を所有することを切望することによって下に引っぱられます。今、上に引っぱる力が弱くなっています。霊的な機関、寺社、聖地、年長者、聖典への敬意が、急速に衰えています。物質的な富に関する思い上がり、富を獲得しようとする競争が、急速に増大しています。これは現代の悲劇です。

人間は、物質的な喜びを探し求めた結果として多くのことを成し遂げたと思い込んでいます。人間は電気を発見し、光を生じさせるために電気を使います。しかし、これは何と貧しい栄光でしょう! 太陽が昇ると、最も明るい電球でさえ無意味なものとなります。人間は扇風機を発明し、電気を使って涼風を作り出すことを可能にしています。しかし、自然界で嵐が起こると、最も頑丈な木でも根こそぎ引き抜かれ、人間が煉瓦やモルタルで作った家屋は崩れ落ち、屋根は空中に飛ばされます!人間は何を根拠に思い上がることができるのでしょう?

人は自分の内にある神の火の粉に気付くべし

太陽は宇宙にある無数の星の一つにすぎません。地球は太陽の周りを回る小さな粒にすぎません。個々人が属する国家はその粒の一部にすぎません。村はその一部の中の顕微鏡でしか見えないくらいの点であり、村人はその点に住む何千人か何万人かの一人にすぎません。ところが、まったく愚かにも、驕り昂ぶって、まるで自分が君主か支配者であるかのように、何度も目をぱちぱちさせしながら、ふんぞり返って歩いているのです。

しかし、人の本当の位は歓喜すべきものであり、その程度のものではありません。人は不滅なる者の子であり、相続人なのです。人は神性の宝庫であり、さまざまな道を通じて神の状態に到ることができるのです! 動力のない機械は使えません。それと同じく、神の火の粉がなければ、人の体は役立ちません。神の火の粉がなければ、人は果実の実らない木であり、乳を出さない牛です。人はその火の粉に気付き、いかにして自分をその火の粉で輝かせ、その光輝で覆い尽くすか、その方法を知らなければなりません。

あなた方は今、無知の暗闇の中で生活しています。あなたは神の火の粉であるという知識は鞘の中に入っています。その鞘は、至福の鞘、理智の鞘、感情の鞘、感覚の鞘、有機体の鞘です。光とは、そのことを知っているということです。あなた自身のランプを灯さなければいけません。他人のランプの光で歩くことはできません。他人の財布のお金で生きていくことはできません。自分のお金を持ちなさい。その時にだけ、あなたは自由です。あなた自身に関する知識を得なさい。それを知っているだけでは十分ではありません。あなたはそれを経験しなければなりません。井戸には水があります。しかし、それだけでは十分ではありません。桶で水を汲み上げて、洗濯や、喉の渇きを癒すのに使わなければいけません。

心(マインド)は、正しいもの、清らかなものに向かってのみ、自発的に動きます。ところが、感覚器官と外の世界が、心を悪いもの、清らかでないもののほうへ引っぱります。白い布は汚れますが、汚れを取れば白さを取り戻します。プラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバー〔ヴェーダを復興するためのヴェーダ学者の会〕は、そのプロセスの基本原理を人々に伝える、という任務を与えられています。それは生きる道であり、堅実に上へと向かう旅です。

あなたの心の中にいる6匹のコブラの毒牙を引き抜きなさい

個人の努力と神の恩寵の両方が必要不可欠です。シャンカラは言いました。「主の恩寵によってのみ、人は、天地万物の不二一元を求める願望、唯一無二なる者を求める願望を得ることができる」(イーシュワラ アヌグラハート エーヴァ プムサーム アドワイタ ヴァーサナ)。一なる者を見ることが、グニャーナ(霊性の英知)です。そして、グニャーナだけが解脱(カイヴァッリャム)を授けてくれるのです。

あなたがこれまで求めて泣いてきた、すべてのものを書き出しなさい。あなたは、いかに自分が、くだらないもの、はかない栄誉、つかの間の名声だけを求めてきたかがわかるでしょう。神を求めてのみ泣くべきです。あなた自身の浄化と成就を求めてのみ泣くべきです。あなたの心に潜んで毒液で心を害している6匹のコブラがいることを嘆き悲しんで泣くべきです。その毒液とは、肉欲、怒り、貪欲、執着、高慢、悪意です。蛇使いがするように、心を支配することのできる笛でコブラを静めなさい。コブラを飼いならすことのできる音楽とは、神の御名の高唱です。そして、コブラがあまりにも興奮していて、動かすことも痛めつけることもできない時には、蛇使いがするように首根っこをつかんで毒牙を引き抜いてしまいなさい。その後は、コブラはあなたのおもちゃとなって、どうにでもあなたの好きなように扱うことができます。

コブラが倒された時、あなたは平等観を得ます。賞賛と非難、利益と損失、喜びと悲しみに影響されなくなります。ラーマは、父がラーマに王位を継がせようと言った時、得意になりませんでした。そして、戴冠式を目前に、追放の身となって14年間森で暮らすようにと父から言われた時も、落胆しませんでした! パラシュラーマが挑んできた闘いでシヴァの弓を曲げて壊した時も、パラシュラーマを倒してシーターを手に入れた時も、ラーマは冷静でした。

ダルマは人の激情に制限を設ける

ドラウパディー〔マハーバーラタに登場する貞女〕は、夫たち〔パーンダヴァ兄弟〕の災難を自分に分けてほしいと望みました。

シーター〔ラーマーヤナに登場する貞女〕は、ラーマが森へ行く時、都に残ることを拒みました。シーターは言いました。「私の両親は妻としての正しき道を私に教えてくださいました。その道とは夫の足跡をたどることであるということを私は知っております。あなたはラーマチャンドラという月です。私は月の光です。私たちは離れられません。私たちはいっしょにいなければなりません。」

ラーマの弟ラクシュマナ(自らラーマに伴って追放の身となった)の妻、ウールミラーは言いました。「私は都に留まりましょう。なぜなら、もし私がいっしょに行ったなら、あなたは主であるラーマ様への奉仕に集中できなくなってしまうでしょう。」このことによって、ウールミラーがどれほど偉大であるかが明らかになりました。

ラーマの母カウサリヤー妃は、戴冠式の前に息子は母の祝福を受けに来るだろうと思っていたので、ラーマが奥の間に入ってきた時、喜びでいっぱいでした。ところが、ラーマは森で幸せに過ごせるようにという祝福を求めたので、カウサリヤー妃はショックを受けました! ラーマは、「私が森で過ごす14年間、母上が喜びに満ちていることを約束してください」と懇願しました。カウサリヤー妃は言いました。「私はあなたといっしょに行きます。私は名ばかりの女王にすぎません。私の人生は涙の連続でした。ヴィシュワーミトラ仙が私たちからあなたを連れ去り、あなたがヴィシュワーミトラ仙と共に羅刹と戦っていた時、私はとても心配しながら日々を送りました。それから、パラシュラーマがあなたの前に現れて戦いを挑んできた時、私は本当に悲しみに呑まれました。あなたと離れていたら、私は決して幸せではいられません。」 しかし、ラーマは、カウサリヤー妃の居場所は、夫であり君主であり、悲嘆にくれるラーマの父であるダシャラタ王のもとであるといって、カウサリヤー妃を説得することができました。カウサリヤー妃は、「あなたが畏敬し、体現する、ダルマの御加護が、つねにありますように」と言って、ラーマを祝福しました。

ダルマは境界線であり、人の激情、感情、衝動を理性が抑えるための制限です。ダルマの重要性と日常生活でのダルマの実践について説明することは、私がプラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバーの一員である学僧たちに委ねた任務です。マーナヴァ(人間)は「マナ(程度や限度)を守る者」を意味します。人間は、粗暴になったり、好き放題にしたりせずに、率先して、制御、規制、規律を守るものなのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C13

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