サイババの御言葉

日付:1969年2月15日午後・場所:プラシャーンティ ニラヤム
マハーシヴァラートリのババの御講話Aより

マハーシヴァラートリ


シャーストラ〔論書や法典群の総称〕には、マハーシヴァラートリ祭の起源と意味を説明するための物語が数多く語られています。古代から用いられてきたこの国〔インド〕の名前である「バーラタ」の意味は、「“バ”(光すなわちバガヴァン)への“ラティ”(愛)を持っている人々の国」というものです。ですから、この国の国民にとっては、すべての日が神聖であり、一瞬一瞬が貴重なのです。

ガンジス川は源流から海に至るまで神聖ですが、河岸には聖仙たちにまつわる場所や寺院、支流の合流点、歴史的な出来事に関連した場所がいくつかあり、あらゆる世代に崇められています。ハリドワール、ヴァーラーナシー、プラヤーグ、リシケシといった場所がそれに当たります。それと同じように、この移りゆくショーの一切の背後に存在する、源流にして海である実在と接触するために、求道者が一年のうち特に努力を傾ける日がいくつかあり、それらはより神聖な日として祝われているのです。いくつかの瞬間、たとえばアヴァターラ(神の化身)〔の体内から〕からリンガ(卵形の石の姿をとったシヴァ神/リンガム)が現れる瞬間――は、それを目撃している個々人にとって、そして、それによって祝福されるこの世界にとって、特に重要であると考えられています。

人々の中には、今日はシヴァ神の誕生日だから神聖なのだと、まるでシヴァが普通の人間のように生まれ、死んだかのように言う人がいます。また、今日は、獲物をしとめるためにビルヴァの木の上に座って目を光らせていた猟師が、その木の下に置かれていたリンガの上にたまたまビルヴァの葉っぱを落としたために、そのリンガを礼拝しようとしたわけでもないのに救いを得た、という出来事を記念する日なのだという人もいますが、この話は今日がどうして特に神聖なのかということを明らかにしてはいません。他にも、今日はシヴァ神が本来の恍惚状態でターンダヴァ(宇宙の踊り)を踊り、すべての神々と聖仙たちがその神業を目撃して分かち合った日だ、という話をする人もいます。また、乳海攪拌で生じ、全世界の滅亡の脅威となったハーラハラの毒をシヴァ神が飲み干した時、その毒気の熱はシヴァにとっても耐え難いほどのものだったので、シヴァのもつれた頭髪の上からガンジス河が途切れることなく流れ落ちて水を浴びせたが、それはシヴァの苦痛を部分的に和らげただけだった。そこで、月がシヴァの額に置かれ、それは大いに助けとなったので、シヴァはすべての神々と聖仙たちと一緒にターンダヴァを踊った。この一切が一日のうちに起こったので、シヴァラートリはそれを記念して催されるのだ、と言う人もいます。

すべてのサーダナの目的は、心を無にすること

私たちには、年に一度のマハーシヴァラートリだけではなく、シヴァ神への礼拝に捧げる毎月のシヴァラートリもあります。なぜラートリ(夜)はそれほど重要なのでしょうか? 夜は月に支配されます。月には16のカラー(神の栄光の断片/相)があり、黒半月〔満月から新月まで〕の二週間の毎日、正確には毎夜、その断片が1つずつ減っていき、新月の夜、月はすっかり消滅します。それから今度は、毎晩、断片が増えていき、月は満月の夜に完全な円になります。チャンドラ(月)は心を司る神です。心も月のように満ちたり欠けたりします。

チャンドラマー マナソー ジャータハ
プルシャ(最高の存在)のマナス(心)から月が生まれた

〔「プルシャ スークタム」より〕

すべてのサーダーナ(霊性修行)の主な目的は、心を無にし、アマナスカ(無心)になることです。そうして初めて、マーヤー(幻)をずたずたに引き裂いて、実在を明らかにすることができるのです。黒半月の二週間には、毎日、心の一部を除去するためのサーダナをしなければなりません。なぜなら、毎日、月の断片も知覚から消えていくからです。チャトゥルダシー、すなわち14日目、シヴァの夜〔シヴァラートリ〕には、1つの断片しか残っていません。もしその夜に、プージャー(供養礼拝)や、ジャパ(神の御名や短いマントラを繰り返し唱えること)や、ディヤーナ(瞑想/座禅)のような、より集中力と注意力を傾けるサーダナを通じて特別な努力がなされるならば、成功は保証されます。その夜は、心を眠りや食べ物の方へと脱線させることなく、シヴァだけを念じなければなりません。これは毎月行う必要があります。そして、年に一度、マハーシヴァラートリには、特に力を入れて霊性修行をすることが勧められています。そうすれば、内に宿る神をそのようにして絶えず意識し続けることによって、シャヴァム(死体)〔となるもの/人間〕もシヴァム(神)になることができるのです。

リンガは神を象徴する形

今日は、あなた方一人ひとりの中にいるシヴァ神に捧げる日です。北はヒマラヤ山脈から南はカンニャークマーリー岬に至るまで、今日は全国に「シヴォーハム、シヴォーハム」〔私はシヴァである〕という真正の宣言や、「オーム ナマッ シヴァーヤ」〔シヴァ神に帰依します〕という崇敬が響き渡っています。ここでは数千人が、よその場所では数百万人、数千万人が、私からリンガが現れて、そのリンゴードバヴァ(リンガの出現)によって世界に広がる至福を得ることができるようにと祈っています。

リンガの現出は私の性質の一部です。ここにいるパンディト(霊性の学者/学僧)たちは、リンガの現れを、シヴァ神がリンガの形をとり、その高さと奥行きを測るようブラフマー神とヴィシュヌ神に挑んだ、という昔の類まれな出来事を思い起こさせるものであると説明しています。二神はそれを測ることができず、敗北を受け入れるほかありませんでした。しかし、リンガは祈りと恩寵の結果として現れるものです。あなた方はこの祭事で、ちらりと垣間見える神性を、すなわち、限りない恩寵の印を、認識する必要があります。オームが神を象徴する音であるように、リンガは神を象徴する形であり、目に見えるシンボルであり、最も意味深く、最も属性という付属物の少ない、シンプルな立ち姿です。リンガ(リンガム)とは、このジャガト(変化の世界)がラヤ(帰融/解体)に達すること、すなわち、リーヤテー〔溶け込むこと〕を意味します。形あるものはすべて、最終的に形なきものに帰融します。シヴァは、すべての名前と姿形の壊滅の原理、すべての存在と個人の壊滅の原理です。ですから、リンガは出現と帰融の最もシンプルな印なのです。

絶えずシヴァの御前で生きていなさい

シャーストラや経典に描かれているあらゆる姿形には深い意味があります。シヴァ神は人間の言葉で雄牛と呼ばれている動物に乗っているのではありません。あの雄牛は、サティヤ(真理/真実)、ダルマ、シャーンティ(平安/平和)、プレーマ(愛)という4つの足で立っている、という安定性のシンボルです。シヴァは3つの目を持っているといわれています。それは、過去を見る目、現在を見る目、未来を見る目です。シヴァの衣は象の皮でできていますが、それはシヴァの恩寵が破壊する原始的な獣性の象徴です。実際、シヴァは獣性を八つ裂きにして皮を剥ぐので、獣性は完全に力を失います。シヴァの4つの顔は、シャーンタム(平静)、ルッドラム(恐怖)、マンガラム(恩寵)、ウトサーハム(向上させるエネルギー)の象徴です。今日というリンゴードバヴァの日にリンガムを拝んでいる間、あなた方はリンガが象徴しているこうしたシヴァ神の真実を黙想しなければいけません。

シヴァを思って過ごすべきなのは今夜だけではありません。あなた方は生涯、絶えず主の御前で生きていなければなりません。努力――これが肝心です。努力は、すべての人間にとって、逃れることのできない仕上げです。神を否定する者でさえ、巡礼の道を踏みしめて、苦労の涙でハートを溶かすことになります。もしあなたが、自分の解脱の道を進むために最小の努力をするならば、主はその百倍あなたを助けます。これは、マハーシヴァラートリがあなた方に伝えている希望です。

人は、マナナを行う技量があるために、人と呼ばれているのです。マナナとは、自分が聞いたことの意味や意義を瞑想することを意味します。しかし、あなた方はまだシュラヴァナム(聞くこと)の段階から出ていません! あなた方が切望しているあらゆる喜びは、あなた方の中にあります。しかし、鉄の金庫の中に莫大な富を持っていながら、その金庫の鍵がどこにあるのかわからない男のように、あなた方は苦しんでいます。指示を正しく聞いて、瞑想の沈黙の中でそれに浸り、その中で明らかになったことを実行しなさい。そうすれば、あなたは鍵を手に入れて、扉を開き、豊かな喜びを享受することができます。

シヴァを万物に内在する力として見なさい

あなた方は、シヴァラートリが要求するささいなサーダナ〔霊性修行〕さえあきらめています。昔は、この日、人々は水一滴さえ口にしませんでした。今では、その厳格さはなくなっています。昔の人は、夜通し起きていて、一晩中、一睡もせずに、「オーム マナッ シヴァーヤ」と繰り返し唱えました。今では、誰の口にもシヴァという御名はありません。ですが、神を否定する人たちは、自分自身と自分の栄光を否定しているだけです。誰も皆、自分への愛、何かの姿形への愛、誰かに対する愛、あるいは、自分の仕事や目標に対する愛を持っています。その愛は神であり、その人の中に存在する神の火花です。たとえどんなに小さくても、たとえ一時のものでも、人々にはアーナンダ(至福)があります。それは神のもう一つの火花です。人々は内なる平安、無執着、識別心、思いやり、奉仕の精神を持っています。これらは人々の心の鏡に映った神です。

今日、この聖なるシヴァラートリに、シヴァ サイのいる前で、シヴァを万物に内在する内なる力として見ることを決意しなさい。息をするたびに、あなた方は今この瞬間も、「ソーハム」、すなわち「私は神だ」と断言しています。あなた方だけでなく、呼吸をしているすべての存在、生きているすべての存在、存在しているすべてのものが、そう断言しています。実に、これはあなた方が長い間無視してきた事実です。今、この瞬間から、このことを信じなさい。あなたが呼吸を見つめて、その壮大な真理を瞑想すると、ゆっくりと、私(アハム)と神(ソー)は、近くに、そばに、引き寄せられます。それは分離感が消えてなくなるまで続きます。そして、「ソーハム」は、オーム、すなわちプラナヴァ、原初の音、神を表す根源的な語、へと変わります。オームは、スワルーパ〔化身〕――この世という「相対的な現実」の背後に存在する絶対実在、です。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.9 C3

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