サイババの御言葉

日付:1970年7月18日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
グルプールニマー祭連続講話@

対象物ではなく目的


行く道をすでに踏破し、その山や谷を知っており、案内し、先導することのできるグル〔導師〕が必要とされています。ランプと芯と灯油があったとしても、誰かが火をつけなくてはなりません。黒板に丸く曲がった線を引いたとしても、それが「G」や「O」や「D」という文字だと知っている人が、子どもにそれらを「ジー」、「オー」、「ディー」と識別するよう教えなくてはなりません。それだけでは十分ではありません。それは「ジーオーディー」ではなく、「ゴッド」〔神〕と読まれなければならないこと、「ゴッド」という発音は宇宙に内在する神聖原理が具象化されたものを表していること、それは露を滴らせ、蓮を開花させ、蝶をひらひら飛ばせ、太陽を昇らせ、現在、過去、未来を通じて常に存在しているあらゆる力、あらゆる英知、あらゆる愛、あらゆる奇跡であることを、誰かが教えなければなりません。

自然とその法則、物とその所有権、力とその影響について教える人々は、解放ではなく束縛を教えています。それは重荷であって至福ではありません。それが与えるものは、悲嘆という波と歓喜という波頭のある大海を渡らせるための石の舟です。その舟は、あなたをずっと浮かばせておくことはできず、必ず沈みます。大海を渡るために必要なものは、バクティ〔信愛〕という、恩寵の確約という、神の意志への全託という、小さな帆船です。あらゆる重荷を投げ捨てて、身軽になりなさい。そうすれば、一つの波頭から次の波頭へと一飛びで移動することができます。神が渡らせてくれるでしょう。悩む必要はまったくありません。神が一切を行うのであれば、誰が何を心配するというのでしょうか?

愛だけが不安を軽くできる

あなたの中にある愛の火花は、神に到達することができるよう、大切に養われ、油を注がれなければなりません。そうすれば、すべての存在は神になり、すべての行為は神聖になり、外界からあなたが得るすべての反応は、プレーマ〔愛〕に満たされ、その甘露によって甘くなることでしょう。あなたがあらゆる存在の中にいる神を愛するとき、あらゆる存在にいる神は愛を込めて応えます。神を愛しなさい、たとえ苦難があなたの運命であったとしても。神を愛しなさい、たとえ拒絶され、叱責(しっせき)されたとしても。なぜなら、厳しい試練という坩堝(るつぼ)の中でのみ、金属は純化され、汚れは取り除かれるからです。神への崇敬は一つの御名と御姿を通してなされねばなりません。しかし、だからといって、あなたの忠誠心がその特定の範囲のみに限定されるべきではありません。

神の領地に境界線はありません。それは宇宙を包み込み、宇宙を越えてさえいます。ですから、礼拝やプージャー〔供養〕があなたに目隠しをすることを許してはなりません。同一の超越的宇宙神、すなわちプルショーッタマの他の御名や御姿を憎んではなりません。というのは、憎しみは恐れを生むからであり、また、憎しみは心配、醜聞、虚偽の温床だからです。憎しみはあなたの心の平安を枯渇させます。あなたは、灯油がなくても光を、煙がなくても火を、うちわで扇(あお)いでくれる人がいなくてもそよ風を、うだるような暑い夏の室内でも冷涼な空気を得ることができるかもしれません。しかし、あなたとあなたの周囲の人々が平安でなければ、あなたの脈拍は速くなり、あなたの血液は怒りと恨みの中を流れるでしょう。不安を軽減し、恐れを鎮めることができるのは愛だけです。

自然は神の衣です。不死なる存在が死の衣をまとっているのです。新生児の中にも老齢は潜んでいます。暗闇は光の母胎の中に眠っており、光は夜の中に隠れています。真実が基盤です。それは認識されていない基盤であり、一切の現象の魅惑ときらびやかさの基盤です。純粋性という大海は、攪拌(かくはん)されて不死の甘露を生じさせましたが、猛毒のハラーハラも吐き出し、その毒は三界を破壊の脅威に陥(おとしい)れました。

価値観の正当な感覚を育てなさい

平衡感覚、当然備えているべき価値観を育てなさい。この世の物事はそれぞれに見合った愛をもって愛し、それ以上に愛してはなりません。

最も純粋で最も賢い聖者であったシュカは、賢明な帝王ジャーナカを含む大勢の弟子たちを教えていました。ある日、シュカは講義を始めるのを遅らせました。というのは、ジャーナカ王が来ていなかったからです。他の弟子たちは、シュカがジャーナカに特別な愛着を持ったことを不快に思いました。弟子たちはそれを、ジャーナカが国の帝王だからだと考え、自分たちのグルは不幸にも世俗的な配慮によって心を動かされたのだと感じました。シュカには、弟子たちの想像がどのようにして嘘と偏見を作り出しているかがわかりました。そこで、シュカは弟子たちからその妬みを追い払うことにしました。

ジャーナカがやって来てしばらく講義を続けた後、シュカは秘法を使い、遠く地平線に近い帝国の首都ミティラーに火がついて、大火事になって崩壊している様子を弟子たちに見せました。弟子たちはアートマボーダ、すなわちアートマ〔真我〕だけが真実であり、それ以外はすべて妄想と無知の霧によってアートマに押し付けられた見せかけにすぎない、という教えを聴聞していたところでした。弟子たちは全員、迫り来る炎が自分の衣服や本を焼くのではないかと恐れ、授業と教師を残してそれぞれ自分の独居へ逃げ込んでいきました。ところが、ジャーナカは、自国の首都が灰に帰しようとしているというのに、じっと座ったままでした。なぜなら、ジャーナカには火で焼かれているものは実体ではなく、ただの見かけにすぎないことがわかっていたからです。シュカはジャーナカに、行って被害を見極め、火事から救出できるものを救出するようにと言いました。しかし、ジャーナカは、自分の宝は師から教わっているグニャーナ〔英知〕であって、知識という外的な手段で近づくことのできる外界には関心が無い、と答えました。このときシュカは、火事はシュカが創り出した架空のものであり、ジャーナカが身につけた真の学識の深さは他の弟子たちのうわべだけの学びとは大違いであることを教えたかったのだ、と明かしました。

これが、古代インドで高く規範として評価されたグル〔師〕の類型、シシヤ〔弟子〕の類型でした。

プレーマより貴いものはない

今、皆さんは、なぜインドが愛に飢えた人類の教師として、過去にそれほどの栄光を手に入れたのかがわかりました。その役割は、古代の教訓は決して時代遅れではないということを、再びインドとその息子たちが実例を示して証明する準備をしなければならないところへきています! アートマは万人の中核に存在していると信じるなら、アートマはあなたの内に共鳴的な振動を生み出します。それゆえ、他人が幸せであればあなたも幸せになり、他人が悲嘆の中にあればあなたも同じくらい悲しく感じるのです。それがプレーマ、すなわち最も気高く、最も誠実な愛なのです。

プレーマは、育てれば、怒りと悪意という雑草を取り除いてくれるでしょう。プレーマは平安と平穏へと成長します。私の教えはプレーマであり、私のメッセージはプレーマであり、私の活動はプレーマであり、私の生き方はプレーマです。人間が手にできるものの中で、愛より貴いものはありません。

愛を込めて語られた言葉は、疲れた足にとっての鎮痛薬です。皆さんは車や汽車やバスでプラシャーンティ ニラヤムへ来ます。へとへとに疲れ果てながら、広場に足を踏み入れて、切に願います。私はベランダから、

「おや、いつ到着したのですか?」と尋ねます。

人々は疑問に思うかもしれません。なぜババはこんな質問をするのか? ババは知らないのだろうか? 間違いなく、ババはその人や私たちのことをすべて知っているはずなのに、なぜこのような質問をするのか?

けれども、質問を投げかけられた人は、

「中に入るやいなや、ババは私に話しかけてくれた!」と大喜びするでしょう。

私はあなた方に喜びを授けたいのです。それゆえ、私は知っていながら質問をするのです。もし私が何も尋ねず、すっと黙っていたら、あなた方は見捨てられたと感じて欲求不満に陥ります。そうではありませんか?

私は、すでにわかっている答えのためではなく、私の言葉があなた方にもたらす満足のために、尋ねているのです。ですから、私は、

「元気ですか?」とも尋ねます。

たとえ私が、あなたは元気だからこそ来ることができたということを、あるいは、体調が悪いからこそ私の元へ連れてこられたのだということをよく知っていたとしても、です! これはマーヤーシャクティ〔幻力〕、つまり人を魅惑する神霊です。それが話しかけたり、目を向けたり、何かしたりすれば、人はそこから喜びを引き出すのです! それはヨーガマーヤーであり、私があなたに近寄ったり、あなたに話しかけたり、あなたに何かをすると、あなたを幸せにするのです。

神の命令に気づくよう努めなさい

プラシャーンティ ニラヤムや、その往復の途中で出会った他の人々の、カースト〔階級〕、信条、習慣、信念についてあれこれと尋ねて、巻き込まれてはなりません。それは有益な習慣ではありません。自分の目的と進歩に目を向けなさい。それ以外のことには関わらないでいなさい。人にはそれぞれ各自の願望成就を求めさせ、人の進路を正すことは私に任せておきなさい。他人や外界の対象物の中に、平安や喜び、満足や英知を探し求めるのはやめにしなさい。

外側の視力ではなく、内なる目を育てなさい。神の命令に気づくよう努めなさい。それはあなたの足を静寂と着実なサーダナ〔霊性修行〕の道へと向かわせることでしょう。信仰を育てなさい。それはあなたをどんな突風によっても持ち上げられることのない鉄の玉にするでしょう。また、それほど堅く信仰を定めるなら、悲嘆の風や苦痛の一吹きがあなたを揺り動かしたり、あなたに神から手を離させたりするはずはありません。

大きな喜びを持って私の写真を礼拝する人々もいます。ところが、一日に二リットルの牛乳を出していた水牛が一リットルしか出さなくなると、それを写真とプージャー〔供養〕のせいだと考えて、壁の写真を裏返し、家にその写真を持ってこなければよかったと悔やむのです! 十年も十五年も前から私のところに来ていながら、いまだに自分のハートの中に深い信愛を注ぎ込んでいない人々もいます。そのような人は不信という発作を起こしがちです! この世にレンズを向けてシャッターを押して、どうして私の写真が撮れるでしょう? ハートの焦点を正しく合わせ、知性のスイッチを押しなさい。それが、あなたのハートに焼き付けられた私の明瞭な写真を手に入れる方法です。

単なる形式的礼拝で神を喜ばせることはできない

カンナダ〔カルナータカ州〕の聖者バサーヴァンナは、神はナーダ(美しい旋律)によってもヴェーダ(知識)によっても得られず、バクティ(信愛、献身)によってのみ得られると歌いました。信者は、信愛によって清められたハートに神を安置するために、神のまとう姿を決めます。ただ形式的に礼拝をしても、賛歌をぼそぼそ歌っても、機械的に日課の儀式を行っても、神をハートに住む気にさせることはできません。そのようなハートは、取るに足りないことや厄介ごと、蜘蛛の巣や障害物でいっぱいです。他人に自らの深さを印象付けようと誇示したがる信愛に、私が心を奪われることはありません! 私はアーダムバラ バクティ(信愛の仰々しいひけらかし)〔太鼓の信愛の意〕を評価しません。私はアーナンダ バクティ(言葉で表すにはあまりに深く、世間の評判を望むには熱烈すぎる信愛)〔至福の信愛の意〕を高く評価します。

判読しにくい文字で走り書きされた、他愛のないちょっとした情報を伝えるメモの手紙でも、正しい切手が貼られていれば、大切にされて宛名の住所へきちんと配達されます。優雅な飾り文字が施された華やかで高価な便箋に書かれた、黄金ほどに価値のある重要なメッセージを伝える手紙でも、郵便法規に定められた切手を貼っていなければ、放置され、廃棄処分となります! 祈りを目的地である神に届けるのはバクティという切手であり、装飾の花綱でも、ファンファーレ〔鳴り物〕でも、山ほどの花でも、祝祭のご馳走でもありません。純朴で誠実なハートこそが切手であり、その切手は祈りを早く伝えさせるのです。

他人の名声に泥を塗ってはいけない

「私は神を愛しているのに、神は私に報いてくださらない」と言って嘆いてはいけません。神は反響し、反応し、反映します。神は、あなたが神に捧げた愛を十倍にして返します。求めなさい、捧げなさい、全託しなさい。着実にやり続けなさい。今日は二歩前進し、明日は二歩後退する、といった具合ではいけません。蟻のような貧弱でちっぽけな生き物でさえ、ただ目標だけを意識して、行く手を阻む障害物を乗り越えながら、一列で途切れることのない流れとなって移動します。

嘲(あざけ)りや侮辱は、喜びに満ちた無関心をもって迎えなければなりません。アヴァター〔神の化身〕でさえ、狭量な人々によるそういった愚かな策略を免(まぬが)れませんでした。

クリシュナは、森で狩りをしていたサトラージットを殺して身につけていたスヤマンタカという宝石を盗んだ泥棒だ、と非難中傷されました! クリシュナは、その中傷は間違っているということを証明しようと決めました! クリシュナは、サトラージットはライオンに殺されたこと、宝石は熊(熊王ジャームバヴァン)の穴にあり、宝石が光るのを見て赤ちゃん小熊が遊ぶことができるよう、揺りかごの上に括り付けてあることを突き止めました! 他者の名声に泥を塗りたいという誘惑に屈してはなりません。それは、災難を伴う、憎むべき道楽です。あなたの舌を甘美に保ち、誹謗中傷など知らぬ人でありなさい。

私はまた、学歴や、ギーターを百回読んだとか、バーガヴァタを何度も読んだとかいう自慢話に心を奪われることもありません。進歩するには、日々一節の詩句の教えを守ることのほうがはるかに重要です。二、三パイサで床屋に頭髪を剃(そ)り落としてもらうこともできますし、黄土色の袈裟(けさ)を調達して身に付けることも簡単です。サハッスラナーマ アルチャナやラクシヤ アルチャナと呼ばれるものに夢中になって、神の御名を1008回、あるいは十万回も唱えて私を崇めている者もいます! 一度心から真剣に神の御名を呼ぶだけで、恩寵を勝ち得るには十分です。ニラヤム〔ババの住居〕の前で、ドスンという大きな音を立ててココナッツを割って静寂を乱している人々を見かけます! 昼食用のチャトニを作るのに使う以外、いったい彼らがそのココナッツからどんな恩恵を得ているのか、私にはわかりません!

ダルマを育て、養い、向上させなさい

私は「ダルマサムスターパナールターヤ」、すなわち、ダルマの復興のために来ました。人々と国々の平和を確かなものにし、地球を維持する正義のために。行いと思いと言葉においてダルマを生き、ダルマを奨励しなさい。それが私の高く評価するプージャー〔供養〕です。なぜなら、それは私が自らの目の前に据えた任務に対し、敬意を払うことになるからです。ダルマを育て、ダルマを養い、ダルマを向上させ、ダルマを奨励しなさい。それが私の仕事であり、私が喜ぶことです。

互いに会ったら、「ハロー!」と言って大声を出してなりません。また、「バイバイ」だとか、無駄な言葉を口にしてはなりません。「ラーム、ラーム」、あるいは「オーム」、あるいは「ハリ オーム」、または「サイ ラーム」と言って神を思い出し、出会った瞬間を神聖化しなさい。あなたが「エチケット」〔礼儀〕と呼んでいるものは、粗野な振る舞いへの「チケット」〔切符〕にすぎません。皆さんは「グッドバイ」(さようなら)を、テルグ語の「グッディ アッバイ」(盲目の少年)のように発音しています! 単なる無駄な言葉にすぎないものに、どうしてあなたの求める至福をもたらすことができるでしょう? 蜃気楼(しんきろう)に人の渇きを癒すことができますか? 蜃気楼の水は、どんな山にも湧き出ず、どんな海にも流れ込むことはありません!

私には皆さんを矯正し、正しい道へ導く責任があるため、皆さんが「目の悪」から身を守るように忠告します。醜悪で、低俗な、自らを卑しめる、品位を下げるようなものを見て楽しんではなりません。あらゆる街角に貼り出されている忌まわしい映画のポスターといったものは、あなたを悪徳と犯罪行為に引き寄せます。また、スキャンダル〔醜聞〕や神への冒涜、憎悪や貪欲の報道、神を否定する邪悪な人々や、ハートに愛がなく、行いに兄弟愛のない人々が語る話を聞きたがる「耳の悪」も避けなくてはなりません。

瞑想に成功するために一切の悪を遠ざけなさい

「舌の悪」、「心の悪」、「手の悪」を避けなさい。つまり、他人の名声を傷つけること、他人の利益を害すること、苦痛を引き起こすことをやめなさい。邪(よこしま)な感情や激情を断ちなさい。悪い行いから離れていなさい。これらの諸悪が存在しなくなったとき、初めてあなたの理想のディヤーナ〔瞑想〕が成功可能になります。こういった悪がわずかでもあれば、心を曇らせ、混乱と動揺を作り出すでしょう。

あらゆる行為を神への捧げものとして行いなさい。これは「私の仕事」、これは「神の仕事」と区別してはなりません。すべての仕事は神のものです。神がインスピレーションを与え、神が助け、神が実行し、神が楽しみ、神が喜び、神が刈り取り、神が種を蒔きます。存在しているのは神だけです。なぜなら、この多種多様なる一切は、自然という鏡に映って見える神にほかならないからです! 一切は、至高神に到達するという高次の目的に役立てるためにあるのです。何事もそれ自体のために、それ自体として使われるべきものは一つもありません。サイ バクタ〔サイの信者〕にとっては、これが唯一の正しい生き方です。パダールタ(利己的な対象物)は存在しません。一切はパラールタ(利己心の無い目的)です。そして、その目的とは、実在、すなわち、アートマ、神を実現させることです!

翻訳:サティア・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C14

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