サイババの御言葉

日付:1974年4月1日・場所:ハイデラバード
スンダラムでの御講話より

愛の詩歌


農夫は、これまでの自分の経験と先祖たちの経験に基づいて、いつもの時期にその年の雨が降るのを予想して鋤と鍬で農地を耕します。それから、雨期がやって来て耕地を潤したら種を蒔きます。そうすれば、種は芽を出して土から伸びていくことができるからです。もし農夫が時期に遅れたり作業をしなかったりしたら、どうやって収穫が望めるでしょう? あるいは、もし穀物が鎌で刈られるべき状態にあっても、農夫がそれを刈って束ねて家に運ばなかったら、どうやって蔵は食糧でいっぱいになれるでしょう?

雨は神の贈り物です。人にできるのは、ただそれを祈り、正しい行いをすることによって神の機嫌をとることだけです。耕作、種蒔き、草むしり、刈り取りは、人が神の恩寵を得るに値するようになるため、そして、その贈り物を神に感謝する力を得るために取り組まなければならない霊性修行です。

神がいなければ、人生は先生のいない学校、電流が流れていない電線、魂のない体のようなものです。神は、私たちの中に、私たちの周りに、私たちの上にいます。風や空気を動かすものがなければ空気を知覚できないのと同じように、神も、人や動物、植物や鳥、私たちの周りの物や生き物の姿をとっていなければ、知ることはできません。電流の謎を知っている人はまだ誰もいません。なぜ電流はそう動くのか、その起源と流れの性質は厳密にはどういうものなのかを知っている人はいません。しかし、それでも電流は、非常に多くの器具や道具を通じて、非常に多くのことに使われています。

神はすべてのものの中に存在する実在である

それと同じように、神はどこにでも存在していますが、私たちが理解できるのは自分の知覚の前に現れる神の部分だけです。普通の人は、大地はまったく動いていないと断言するでしょう。大地は不動の象徴として詩歌に詠われています。けれども、地球は2つの動きを有しており、それはどちらも信じられないほど速いのです! 地球は地軸を中心に時速1,600キロを超える速度で回転しています。そのように回転している間にも、地球は驚異的な速度で太陽の周りを回っています! しかし、それが起こっている間、私たちはそのことを実感していますか?

神も実在であり、私たちの中にいつも存在しています。しかし、人は地球の動きを見逃しているのと同じように、神のことも見逃しています。私たちは、空や季節や昼夜が規則正しく進んでいくのを見ることによって、地球や月や星の動きを推測します。それと同じように、神の摂理、神の恵み、神の威厳、神の栄光を、証拠や印を通して推測しなければなりません。

この世で学んだ語彙で神を記述することはできません。私たちは、自分の存在の核としての神を顕現させる至福を体験しなければなりません。人間には畏敬の念が授けられており、それが自らをカルマ ヨーギかグニャーナ ヨーギかバクティ ヨーギのいずれかにさせます。畏敬の念を抑圧したり無視したり避けたりするならば、人は物質世界と物質的必要と物質の追求に巻き込まれるようになります。そして、財貨を崇拝しはじめ、善と正義と美から離れてしまいます。人は、至福の杯をゴミの杯と交換してしまうのです。

詩人はまず神を発見すべし

今日は私たちの前で自作の詩を詠んでいる少数の詩人がいるので、私は彼らの芸術について語ろうという気になりました。現代の詩人は、神を邪魔ものや厄介ものとまではいかなくとも死んだものや装飾的なものと見なしている人々の筆頭にいます! 現代の詩人は、流行り文句と人の気を引く言い回しでコーティングしたお菓子を自分のファンたちに提供しています。現代の詩人は、人生の高等な価値や、生きる上での永遠の理想をまったく気にかけていません。彼らの詩は、外界の物事、五感にかき立てられた感情、取るに足りない表面的な飾りを扱っています。すべてにおいて非常に浅く、不毛です。

本物の詩歌は、内なる神の呼び声から生まれ、崇高な語彙で表現されます。それは詩人にも読者にも永続する喜びを与えます。それは世界とその創造主の評価を下げません。それは、読者がその詩に引かれて何度もその詩を読みたいと思い、その詩を見て読み返すたびに心の目の前に新しい意味を持つ景色が現れる、というものでなければなりません。そうであって初めて、詩はすべての時とすべての人のために存在することができるのです。

詩人はまず神を発見し、それから、その至福を渇望している人々に自らの法悦を広めなければなりません。なのに、その渇きをまだ心の奥深くに抱いていないというのは、どういう人なのでしょう? 誰もが追放者であり、神の内に存在する自分の家を恋しがっているのです。神へと向かう巡礼は、正しい類の詩人たちによって、滑らかに、速く、安全なものになることができます。目の不自由な人や足の不自由な人は、川を浅瀬づたいに渡ることができません。足の不自由な人は、盲人の肩に乗って、盲人を安全に対岸へと導いていくことができます。なぜなら、彼には目があり、盲人には意志と強さがあるからです。詩人は経験豊富な目を持っています。詩人は道を知っていて、落とし穴を避けることができます。そして、人にも自分と同じように落とし穴を避けさせることで、人を助けることができます。詩人には、励ますこと、熱中させることもできます。

同様に、人は、自力でグニャーナ(霊的英知)を得ることや、自力で自分に内在するアートマを悟る道を見つけることはできません。詩人は、それらを求める熱心なサーダカ(霊性の求道者)のグル(導師)です。詩人は、古代の聖仙たちがそれを自覚していたように、その高尚な役割を自覚しなければなりません。詩人は、その高い地位に見合うよう自分を訓練しなければなりません。私は、あなた方に話をするとき、私があなた方の文法の規則に従って話をしているどうかを確認するために話を中断するようなことはしません。私の言葉は愛でいっぱいのハートから流れ出てきます。愛でいっぱいのハートはすべての言葉を甘く柔らかなものにします。甘い言葉と甘い態度は、甘い行動と甘い反応へとつながります。

愛よりも効力のある力はない

ハートを愛でいっぱいにしなさい。そうすれば、ハートから出てくる言葉は活力と力でいっぱいになるでしょう。愛よりも効力のあるシャクティ(力)はありません。愛の文法は、言葉を聞き手のハートに入り込ませ、それを聞き手に受け入れさせ、正しく理解させ、行動させます。

子供の片言の話には文法などありませんが、母親の愛を勝ち得ます。ラーマクリシュナ パラマハンサは、「ペンション」(恩給)という言葉を知らず、「ペンス」と言ったことがありました。スワミ ヴィヴェーカーナンダが口をはさんで正しい単語を言うと、パラマハンサは、言葉は問題ではなく、意味が伝われば十分だと述べました。バーヴァ(伝えることを意図とした本意)こそが重要なものであり、バーシャ(それに着せる言語)は表面的な関心事であるだけです。私は、あなた方がバーヴァを吸収することを望みます。私は、詩人たちが巧みなバーシャではなく純粋なバーヴァを語ることを望みます。もし私が伝えているバーヴァを理解すれば、あなた方は真の信者や霊性修行者となって、神我顕現の道を歩むことができます。

今、信者は何百万人もいます! その数は毎日増えています。それから、気づいているかもしれませんが、サイ ババの数もとても増えています! さらには、私とつながりがあると主張する人たちが、私は他の人たちよりもその人たちを祝福している、私は彼らに信者の間を歩き回って資金や寄付を集めて地位を得ることを正式に許可している、などと主張しています!

本当の信者は、決してそのような馬鹿げた主張をしたり、他人の主張に耳を傾けたりはしません。真の信者は、この世の運命の浮き沈みがいかようなものであれ、信心が揺らぐことはありません。真の信者は、パダ アルタ(物質的なものや世俗的な願望の実現)のためではなく、パラ アルタ(世俗的なものより上の幸福)を求めて主に祈ります。パーンダヴァ兄弟はそのような信者だったので、クリシュナ神は、自分は五兄弟全員と彼らの妃ドラウパディーのハートの中に住んでいる、と明言しました。このカリユガ〔末世〕において、五兄弟は人類のための五人の手本です。私は、愛を育てることをすべての人に力説します。なぜなら、私は愛であり、あなたが愛を示すとき、あなたが表現しているのはほかでもないあなたのハートの中に住む私だからです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C33

<<SSOJ Topページへ <<サイババの御言葉メニューへ