サイババの御言葉:母たちへ

日付:1974年7月10日・場所:バンガロール
女性に向けた御講話より

母たちへ


あなた方の多くは、瞑想に座ってしばらくすると、

「ああ、どうして私は集中できないのでしょう? バガヴァン、助けてください! 私の心があなたから離れないようにしてください!」

と訴えはじめます。短気を起こしたり、悲しんだりしてはなりません。それよりも、心(マインド)を純粋に、清らかにして、神にあなたの心を所有したいと思わせるようにしなければいけません。神はハートを盗む泥棒(チョーラ)です。泥棒は家に入ると価値のあるものを物色し、薪や炭の入った袋には目もくれません! 神も同じです。神が泥棒役になって入ってくると、最も価値のあるもの、神が最も価値を置くもの、あなたが最も苦労して育てたものを探します。神が持ち去っていくものは、純粋な思い、同情と慈悲の甘さに満ちた行い、見返りを求めない愛情です。神は普通の泥棒ではありません!

神という泥棒は、盗むことによって人々をより豊かにさせます! 幸福感、心の安らぎ、自尊心を、より豊かにするのです。神という泥棒は、盗めば盗むほど愛されます! 神という泥棒は、眠っている人を目覚めさせ、その家の住人がその泥棒のために取っておいたものを盗みます。人は、神という泥棒がやって来てその目的のために自分が取っておいたものを持っていってくれるかもしれないと思い、何度も眠ったふりをします。神という泥棒は、

「タスマート ジャーグラタ、ジャーグラタ!――それゆえに、目覚めなさい、目覚めなさい!」

と声を掛けます。それから、自分が探し出した宝を持ち去ります。

教えられたことをハートに刻むべし

あなた方は自分の中に宝を持っています。けれども、あなた方はそれを知りません。そのために、その宝を神という泥棒のために取っておくことをしていません。あなた方は、自分は何も神という泥棒に渡せるものはない、自分は貧しい、虐げられている存在だと、思っています。ひとたびあなたのハートを神に差し出すなら、もはや嘆き悲しむことも何かを求めることもなくなります。

あなた方の中で裕福ではない人たちは、結婚式のごちそうを作るとき、誰か近所か知り合いのお金持ちから鍋をいくつか借りてこなければなりません。あるいは、どこか炊き出しのための大きな鍋を所有している団体にお金を払ってレンタルすることもできるでしょう。借りたにせよレンタルしたにせよ、返す前に鍋をきれいに洗って持ち主のところから持ってきた時と同じ状態で返さなければならないというのは、決まりごとです。鍋でごちそうを作ったら、貸してくれた人のところに戻す前に洗って元通りにします。

死にゆく者たち、この役割、すなわち「地上での生涯」を果たすというこの冒険を割り当てられた者たちは、言うなれば、神からハートを借りているのです! 至高の与え手である神から、きれいな状態で借りたのです。あなたが最終的にそれを返す時、ハートを神が与えてくれた時と同じ、きれいで純粋なものであるようにすること――これが決まりごとであり、そうでなければ、神はそのハートを受け取らないでしょう!

経験豊富な教師でさえ、昨今では、自分の受け持っている子供たちの脳みそに、ただ教科書の内容を詰め込んで喜んでいます! なぜなら、彼らは子供たちを試験に合格させることだけに努力を払っていて、試験に出そうな問題を予想して、それに答えられるようになることにのみ注意を傾けて勉強させているだけだからです! 少年少女たちは、詰めこまれたものを、ひとたび頭から出して紙に書くと、空っぽの頭になって家に戻ります。しかし、あなた方が教えることは、脳みそに詰め込まれるのではなく、ハートに刻まれなければいけません。それこそが、少年少女たちの人格を形づくり、その子自身にとっても、社会にとっても、役立つ子供にさせるのです。

ドゥルヴァの例をあげましょう。ドゥルヴァの継母は、

「おまえが父王の愛情を得るには、苦行をして神の恩寵を手にするしかない」

とドゥルヴァに言いました! そのため、5歳の少年だったドゥルヴァは、森に入って歴史のどこにも類を見ないような苦行を積みました! その結果、ドゥルヴァの願望は昇華して、遂にはこう宣言しました。

「僕にはもう、王の愛情はどうでもいい。この世の王位のことも! 僕は神の王国に到達する。僕は神の膝の上に座るのだ!」

このようにして、ドゥルヴァは人間の君主の地位を拒み、神の子となること、神と共にいることの喜びのほうを、好むようになりました。

子供の持っている大きな潜在力に気づきなさい

子供たちの幼い柔らかなハートには信愛(バクティ)が潜在しています。そして、高い理想と目標への忠誠心が潜在しています。それを引き出して育てることができるのは、あなた方です。「子供は何も知らない」、「自分の思い通りにどんなふうにも子供を変えることができる」と思ったら大間違いです。子供の持っている大きな潜在力を認識し、子供本人が示唆したり、示してきた場合には、その方法を採り入れなさい。子供が神性に到達するよう、子供が自らの高尚な運命を自覚するよう、助けてやりなさい。子供は人として下等であるとか、高みには到達できないなどと思っていてはいけません。

今の親たちは、子供を指導する能力に欠け、子供を溺愛し、どうやって子供を正していいかわからず、非難に値する習慣や生活を送っています。親たちは、煙草を吸い、ゲームをし、ギャンブルをし、酒を飲み、家で喧嘩をし、子供の前で嘘をつき、陰口を言い、自慢話をし、人の悪口を言っています。それでどうして自分の子供を正しい道に導くことができますか? あなた方は、そのような親たちの敵になったり、邪魔をするのではなく、心を改めるよう説得し、さらには、相手を感化させるような模範とならなければいけません。

しかし、他の親たちにアドバイスする前に、あなた自身に人から後ろ指をさされるような欠点がないようにしなさい! この使命に乗り出す前に、アドバイスすべき正義を学びなさい。まず、あなた自身の家庭を正しなさい。家庭の空気に、憎しみ、慢心、悪口、貪欲が漂っていないようにしなさい。愛が家庭のはずみ車になっているようにしなさい。神への信心が家族の一員同士のつながりの基盤となっているようにしなさい。

インドは人類の教師として先頭に立つ

インドの伝統とインドの生活様式は、今、大変な勢いで捨て去られています。無礼な服装、話し方、外見がそれに取って代わっています。子供たちは、それらは反感を持って見るべきであるということを教えられるべきであり、それらは道を外れた下品なものであるということを知るべきです! 今、映画館沿いの道には、ファンを引き込もうというもくろみで卑猥なポスターがずらりと貼られています。それらは、きわめて巧妙に、こっそりと人の人格を汚染していきます。子供たちは、そうした品位をおとしめるような有害なポスターを公共の目にさらすことを許している大人たちに、恥を知らせなければいけません! 子供たちは、人間的価値を低下させていることに対して、大人たちの羞恥心を呼び覚まさなければいけません。私たちがこれらの理想を子供たちに植え付けなければ、インドはどん底まで落ちてしまうでしょう。

あなた方は、そういった卑猥な写真、ポルノ映画の宣伝ポスター、いかがわしい服装、厚かましい態度と風采を、どうして許容できるのですか? これらの悪を根こそぎにするために、できることはすべて行いなさい。バーラタ マータ(母なるインド)の顔に付いたそれらの汚点を取り除くようにと、子供と若者をしつけなさい。

インドは人類の教師として先頭に立ち、過去と現在の女性たちの徳性、忍耐力、道徳的な力に感謝しています。あなた方はこれらの性質を保持し、育まなければいけません。そうすれば、インドは世界の国々の中で抜きん出ることができるでしょう。

子供たちは国という木の根っこ

家庭での母親の地位を確立しなさい。それは霊的な理想を掲げる者としての地位です。つまり、家庭における子供たちのグル〔導師〕という地位です。どの子供の中にも隠れて存在している神意識を拡大してしっかりと顕現させるための努力を、どの母親も、皆と分かち合わなければいけません。

子供たちは畑で育っている作物であり、それを収穫するためには国がそれを援助する必要があります。子供は柱であり、その上に国の未来の土台が建てられます。子供は国という木の根っこであり、その根は、仕事、礼拝、英知という果実を次世代に与えなければなりません。

サティヤ・サイ・バーラ・ヴィカーサ〔子供の開花教室。「バーラ」は「子供」、「ヴィカーサ」(ヴィカス)は「開花」の意。1966年に開始。日本での通称はバルヴィカス〕は、その根に養分を与え、柱を強化し、成長する作物に肥料を施すために、発展してきました。子供たちは、今、堕落と不安と虚栄で汚れた空気の中で育っています。それは、主に西洋から輸入してきた薄っぺらな物質文化に人々が心を奪われているからです。親、教師、さらには、国のリーダーたちも、バーラタ文化の基本原理を称賛すること、崇敬すること、理解すること、実践することに欠けています。子供たちは、当然自分たちに与えられるべき貴重な遺産を拒み、外国人の理想と考えと習慣のほうへ誘導されています。子供たちは、外国の子守唄を歌えば褒められて、母国の唄には無関心です! 教育を受けた子供たちは、村の子供や学校に行っていない子供たちがいると逃げ出す始末です。

年齢が上の人たちは、船を降りるまで残りわずかしか旅する距離がありません。一方、子供たちには、まだこの先何千キロもあり、しかも、国を背負って、地獄へ落ちるか、前に進むかしなければなりません! 古代の聖仙たちは、私たちの文化の価値、深い平安、そして、私たちの文化の遺産が混乱と争いの時代に与えることのできるものを、知っていました。そして、老若を問わず万人に3つの原則を定めました。

マートゥル デーヴォーバヴァ
ピトゥル デーヴォー バヴァ
アーチャールヤ デーヴォー バヴァ

母を神として崇めよ
父を神として崇めよ
霊性の師を神として崇めよ


古代の聖仙たちは、こう明言しました。この3つの気高い理想を携えて国が成長する限り、国は決して根を引き抜かれて枯れてしまうことはありません。なぜなら、母親を神として崇敬すること、父親を神として崇敬すること、師を神として崇敬することは、成長期にある世代にその遺産を大切にするようにさせ、それは彼らによって、そして、彼らを通して、後世に伝えられるようになるからです。そうなれば、世代間の隔たりは、橋を架けられないほどの溝ではなくなるでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C43

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