サイババの御言葉:規律は欠くことのできない義務

日付:1976年9月10日・場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学家政学部開設式の翌日の御講話より

規律は欠くことのできない義務



スワミ


あなた方はここで何か無理強いされていますか?


学生たち


いいえ、スワミ!


スワミ


あなた方はどんな目的でこの大学に入ったのですか?


学生たち


スワミのためです。


スワミ


それでは、スワミが重要なのですか? それとも大学ですか?


学生たち


スワミが重要です。


スワミ


もしスワミが重要ならば、なぜ大学に在籍しなければならないのですか?あなた方はプラシャーンティ ニラヤムを訪問することもできますよ。しかし、なぜ、あなた方はこの大学に入って、寮に滞在しなければいけないのですか?


学生たち


私たちにはスワミが必要ですし、教育も必要だからです。


スワミ


2頭の馬に乗るのは危険です。「学問だけでなく、スワミも必要です」と言うのであれば、それは、あなた方はそれよってスワミを得ることのできる、そのサポートを頼りにしなければいけないということを意味します。この大学が創立された目的は何ですか? それは皆さんのためです。というのは、この国で規律と善行が衰退しつつあるからです。皆さんがかなりの程度まで霊的な考えを吸収してくれることが想定されています。さらに、霊的に成長することはもとより、倫理的にも、気質においても、正義においても、成長することが目的とされています。この大学によって、皆さんは人生において高い地位に到達することが可能になります。けれども、万が一、大学の規律や寄宿寮の規律を侮るなら、それはスワミの規律を侮ることになります。

大学の規律に従いなさい

スワミに関連する規律は、大学の規律、および、寮の規律と異なるものではありません。この3つは三位一体をなしています。つまり、一致しているということです。手の3本の指は、バラバラではどんな仕事を成し遂げることもできません。人は、肉体的な力、精神的な力、霊的な才能の力が結びついてこそ、高い地位に到達することができます。これらは、アーディバウティカム〔物質に関連するもの〕、アーディダイヴィカム〔神性に関連するもの〕、アーディヤートミカム〔アートマに関連するもの〕と呼ばれています。これらはまた、粗大な原理、微細な原理、原因となる原理、としても知られています。それらは、様々なものとなって現れます。私たちはこれら3相を一つに結び付けなければなりません。

たとえば、「stri」("ストリー"、女性)という言葉です。「stri」は3つの特質が結び付いた形であり、"サ"〔s〕と"タ"〔t〕と"ラ"〔r〕(の組み合わせです。最初に"サ"〔s〕が来て、次に"タ"〔t〕、そして"ラ"〔r〕が来ます。それらが一緒になって、「stri」("ストリー"、女性)を形成しています。この一体化は、弱いという概念を打ち払い、神聖な力の様相を示唆しています。

"ストリー"(女性、stri)は、サットワ〔浄性〕とラジャス〔激性〕とタマス〔鈍性〕が結び付いた力です。したがって、最初にこれらの側面に関する訓練を始める必要があります。今の時期には、それは難しく、厄介なことに思えるかもしれません。しかし、将来それは皆さんに神聖で輝かしい人生を授けてくれるでしょう。皆さんは欲求不満の状態に陥って、いくつかの規律を破りがちです。もちろん、信愛〔バクティ〕は不可欠です! 皆さんは全員、信愛を抱いています。しかし、信愛にも限度があります。すべてのもの、いかなるものにも限度はあります。体温にも限度があります。私たちは約36度9分を平熱と呼んでいます。37度2分まで上がれば、健康に何らかの害があることを意味します。同じように、心臓は脈拍数が75か76であれば健康であると見なされます。もし脈拍数が上がるか下がるかすれば、それは心臓に何らかの障害があることを示しています。呼吸する空気、口にする食べ物などにも限度があります。バクティ(信愛)にさえ限度は設けられるべきであり、そうでなければ、ある種の病気を生み出します。

あなた方は全員、疑いなく信愛を抱いています。けれども、いくつかの面で限度を超える傾向にあります。皆さんはスワミに来てくださいと祈る権利を持っています。皆さんは、やりたいだけ、どれほどでも長くバジャンを歌ったり、祈ったりしてもかまいませんが、それは大学や寮の時間割以外でのことです。もし大学を休んでバジャンに没頭するなら、注意(remark)を受けることになるでしょう。そうであれば、スワミでさえ点数(mark)をあげることはできません。寮においても、バジャンやボージャン(食事)等の時間はきちんと厳守しなければいけません。時間を守らないことと信愛とを混同してはいけません。自分の好きなように、好きな時間に行うべきではありません。バジャンはつねに、心の安定を招く、静かで平安に満ちた雰囲気の中で行われるべきです。そのような条件の下で数分間バジャンをするだけで、それは一直線に神へと届きます。好き勝手にバジャンをしても何にもなりません。そのようなバジャンはレコードをかけているようなものです。好き勝手に行われるバジャンは、聞き手にとっても、歌い手にとっても苦痛です。ですから、寮の規律はある面で少し厳しいのです。私はそれを承知しています。

バイオリンやヴィーナの場合を例に取ってみましょう。弦は適切な度合いに張られていなければいけません。張り方が緩すぎたり、きつすぎたりすれば、不快な音を出します。女子学生には、この最適な規律というものが必要不可欠です。なぜなら、女子学生は将来のバーラタ〔インド、神を愛する者の意〕のリーダーとなる子供たちを育てることになるからです。寮での善い行動規範を実践してこそ、皆さんは、理想的な道の上で友人や下級生を鼓舞する権限を持つのです。女子が通りをぶらつくのは安全ではありません。男子の場合は容認されるかもしれません。男子4人が肩を組んで歩き回っていても、誰も気に留めません。しかし、たとえ女子2人でも、大声で笑いながら歩いていれば、注目を集めます。私たちの大学の学生は一定の規則を守らなければいけません。たとえそれがいくらか厳しさを伴うものであっても、規律を守っていれば、将来、自分の夫や嫁ぎ先の家の人たちに善い評判と幸福をもたらすことができるでしょう。時に学長や寮長の先生が厳しい言い方をしたとしても、気分を害してはいけません。先生方はおそらく細心の注意を払っているのであって、誰に対しても何の悪意も持っていません。先生方もスワミのためにここへ来ているのです。先生方もスワミの理想を吸収しようとしているのです! 先生方にも信愛があるのです。先生方もスワミのダルシャンに与ることを熱望しているのです。それゆえ、皆さんはこの点に関していかなる意見の相違もあるべきではありません。

報告されていないことは他にもたくさんありますが、スワミはすべてを知っています。先生方はスワミの好む規律のために時として罰という手段に訴えます。他の誰のためでもなく、スワミのために規律を守らなければいけません。青年期に一生懸命努力した者だけが、将来の人生で安楽を楽しむことができます。

幼い時に性格を直しなさい

ここで、短い話をしましょう。昔、魚売りをしていた貧しい女性がいました。その女性は、幼い息子を自分の膝の上に座らせて、魚の入った籠を頭に載せて売っていました。そこへ、頭にマンゴーの籠を載せた別の行商の女性が通りかかりました。そのとき、その幼い少年は、その籠からマンゴーを一個かすめ取って食べはじめました。それを見て、母親は息子を褒めました。そのため、少年は、盗みというものは褒められる行為なのだと思いました。それ以来、少年は盗みの技を磨き、長い年月を経て悪名高い殺人者となりました。そして、ついに捕らえられ、絞首台へ送られることになりました。処刑される前に、その息子は母親に面会することを願い出ました。母親は泣きながらやって来ました。息子は母親にもっと近くに来るよう頼みました。母親が息子に近づくと、息子は母親の頬に大きな平手打ちを食らわし、驚いている母親に言いました。「俺の一生が台無しになった原因は母さんだ。俺が初めてマンゴーを盗んだとき、母さんは盗みを嫌うどころか、俺を褒めて、けしかけたからだ」。その母親は、悪いことをしはじめた最初の段階で息子をけしかけました。それは、感じやすい未熟なハートに、有害な嘆かわしい習慣という大木に成長する悪い種を蒔いていたようなものです。

ですから、皆さんは善い規律からはずれてはなりません。朝早く起きて、スップラバータム(朝の祈り)、瞑想、バジャン、その他、時間割に組まれているその日のプログラムに参加しなければいけません。さらに、規則正しい入浴といったような、清潔にする習慣も守らなければいけません。これは健康と朗らかな性格を確保してくれるでしょう。

皆さんは、まだ小さな烏瓜(カラスウリ)の実の底に、村人たちが石をくくりつけているのを見たことがあるでしょう。あれは、烏瓜が曲がらないで真っ直ぐに育つようにさせるためのものです。烏瓜が大きくなるにつれて石も重くしていけば、その烏瓜はよい作物になります。これと同じように、皆さんの規律のレベルも、皆さんが高い学位を取得していくにつれて高くならなければいけません。実際、規律は人生において大いなる保護をしてくれるものです。ですから、皆さんは規律という側面を、軽く受け取ったり、いい加減に受け止めるべきではありません。今は、怒り、心配、嫉妬、見栄、怠慢といった性質を、断ち切り、取り除き、避けることを学ばなければいけない段階です。今の段階は、皆さんの人生において、きわめて神聖な時期であるということを忘れてはなりません。もし、今の段階で自分の善い性質を伸ばすことができなければ、どうして年老いてから善良であることを望めますか? 死神の手下(ヤマキンカラ)があなたの命を縄で縛ってしょっぴいて行こうとしはじめた時、親類縁者があなたの体を床から運び出して外へ持っていこうと急ぐ時、配偶者や子供たちが泣きはじめたその最期の時に、ナーマスマラナ(神の御名を繰り返し唱えること)ができる人など、果たしているでしょうか? もちろん、そんなことは不可能です。また、その段階で五感を制御することなど考えられません。実際、その時、五感は精神的な打撃を受けており、あなたの支援に駆けつけることなど、力なく拒むことでしょう。五感を説得することは、全世界を説得するようなものです。優れた身体的能力と精神的能力を持っていても、神という支えを得られなければ無意味です。人は、神のサポートとダルマのサポートを得るために、欲望を抑え、正しい規律を養わなければいけません。規律を欠いていれば、その2つのサポートを手に入れることは不可能です。

両親への奉仕は最優先事項

皆さんの誰もが、プンダリカの物語を知っていることと思います。プンダリカは、両親への奉仕を完璧に行っていました。ある日、プンダリカは、年老いた父親がよく眠れるようにと、一所懸命に父親の足を揉んでいました。ちょうどそこへ、パーンドゥランガ神がやって来ました。けれども、プンダリカは手を止めてパーンドランガ神に挨拶しようとはしませんでした。そこで、パーンドゥランガ神はプンダリカにこう話しかけました。

「愛する者よ! 私はそなたにダルシャンを授けにやって来た。しかし、そなたは私にきちんと注意を向けず、自分の親に奉仕し続けている」

すると、プンダリカは言いました。

「僕が生まれてから18年になりますが、その間、あなたは一度でも私を訪ねてくださいましたか? それにひきかえ、私の両親は、困窮している時も私を育て続けてくれました。そのような両親を差し置いて、一瞬だけのダルシャンを授けに来られたあなたに注意を向けることはできません」

すると、パーンドゥランガ神はとても喜んで言いました。

「愛する者よ! そなたは、"マートゥル デーヴォーバヴァ、ピトゥル デーヴォー バヴァ―― 母を神として崇めよ、父を神として崇めよ"、という格言を実践した。私はそなたの父母の中にも存在している。それゆえ、まず両親に仕えるがよい。私は、そなたが両親の世話を終えるまでここで待っていよう」

プンダリカは、家の外に置いてあった1つの煉瓦を指差して、パーンドゥランガ神に自分が来るまでその煉瓦の上でくつろいでいてくださいと頼みました。パーンドゥランガ神は、プンダリカが両親への奉仕を終えて自分のもとに来るまで、その煉瓦の上に立っていました。

同じように、皆さんは正しい規律を守ることによって、大学と寮に最大の敬意を払わなければいけません。寮で注意(remark)受けておきながら、大学で点(mark)を取ったとしても、何にもなりません。皆さんは、状況にふさわしく身を処することを学ばなければいけません。

昔むかし、世捨て人(サンニャースィン)の着衣を身に付けた芸術家が、その国の王を訪ねました。その芸術家は、様々な霊的事柄について聴衆を教え導いてきました。王は喜んで、その芸術家に一皿分の金貨を与えました。すると、その世捨て人は言いました。

「ああ、善意の王よ、私は金貨のためにここへ参ったのではありません。私は王様のハートが清められれば嬉しく存じます。それが私の報酬です。私は王様から何もいただきたいとは思っておりません」

そう言って、世捨て人は立ち去りました。翌日、その同じ芸術家が、女性の踊り子を装って王の面前で素晴らしい舞踊を披露しました。王は喜び、踊り子に贈り物として絹の着物と宝石類を与えました。すると、踊り子は言いました。

「ああ、偉大な王よ! これだけでは足りません。これらは王様の地位と私の舞踊に相当しません」

その芸術家が、昨日、贈り物を拒んだのは、世捨て人の身なりで王のところへやって来たからでした。しかし、その彼が、踊り子としてやって来ると、自分の演じた役にふさわしい物をと、より多くを要求しました。放棄は世捨て人の性質であり、貪欲は女性の踊り子の性質なのです。

それと同じように、材料が違えば特性も違います。バターは、押しつぶせば簡単に小さな塊に分けることができます。しかし、鉄はそう簡単に変えることはできません。皆さんは、それぞれ自分の役割を理解して、しかるべく振る舞わなければいけません。皆さんには、教養を身に付けた人間としての一定の振る舞いの規範があります。また、帰依者としての一定の責務もあります。しかし、その2つの役割は同じではありません。この種の識別は、人生のあらゆる状況に当てはめなければいけません。皆さんは、世界の騒ぎの大部分は女性にまつわる欲望に端を発していることに気づくでしょう。しかし、この大学の雰囲気は、そのようなものとはまったく違っています。

本校には大学院生もいます。私は、大学院生たちが、無条件に、自慢に思うことなく、いつでも後輩たちを助けられるようにしておくよう助言します。教育を終えた後、皆さんは結婚を申し込まれるでしょう。そのとき、皆さんはどんな持参金にも同意すべきではありません。持参金の要求があった場合、皆さんは勇気を持ってこう伝えるべきです。

「私たちはそのような要求は受け入れません。私たちは、神聖な理想のために、人生を犠牲にして、無私の愛と謙虚さを持って家族に奉仕する覚悟でいます。私たちはサティヤ サイ女子大学の出身です」

皆さんは、バジャンをすること以上に、家族や社会にこの大学の規律と行動規範を広げることができなければいけません。そして、ダイヤモンドのように輝かなければいけません。それこそが、スワミの喜ぶことであり、あなた方に期待していることです。規律は重要です。医者は処方薬を出すときに食事も制限するようにと言います。それはその医者が無慈悲だからではありません。医者は、患者のためになることだからこそ、厳しい態度を取るのです。

母の精神で奉仕しなさい

私は毎月、本校を訪問し続けています。私は皆さんが寮によく順応しているのを知っています。家庭生活においても、この種の友愛と順応を示さなくてはいけません。困難や苦悩は避けられないものであり、人生の一部です。どのような苦難を乗り越えるにも、忍耐と不屈の精神が大変重要です。皆さんにネガティブな考えを吹き込む人々がいるかもしれませんが、決してそのような扇動者に屈服してはなりません。

本当に眠っている人を起こすことはできます。しかし、眠っている振りをしている人を起こすことはできません。これが、近ごろの社会の状況です。知識の豊富な人を説得するのは容易でしょう。また、何の知識も持たない人を説得するのも容易でしょう。しかし、生半可な知識を持った尊大な人を説得するのは不可能です。これが、あらゆる悪事の根本原因です。

皆さんは全員、行為の地(カルマ クシェートラ)に住んでいます。人は誰もが巡礼者です。巡礼は聖地への旅を伴うものです。よく考えてみれば、あなたが旅の目的としている聖地は、あなたのハートであることがわかるでしょう。

私たちの存在のこの中心面を忘れて、人は物質的で世俗的な面のほうへと引かれ、その結果、人間性の夜明けを見失っています。事実、私たちは自分の中にあらゆる種類の力を有しています。人間が自分のハートの中に持っている力よりも神の力のほうが大きいということはありません。このことを知らずに、人は外部の取るに足りない力を切望しています。人格、規律、犠牲――これらは人間にとって大変重要です。これら3つの特質なしに人間性はありません。これら3つの特質は、今の青年期にきちんと養わなくてはいけません。これは、倫理的な生き方、有徳の生き方、霊的な生き方の統合に付随する規律です。

教育の目的は何ですか? 自信〔真我への信頼〕を育て、無知を滅ぼし、至福を体験することです。世界中のあらゆる人が、悲しみを逃れて幸福のほうへ駆け寄るために、苦闘しています。しかし、人はそれを果たすために正しい方向に進んでいますか? バーラタの神聖さを復興し、バーラタを活気で満たそうと決意している人々にとって、従うべき唯一の道は「政治」ではありません。それは、私たちの国の基本構造に深く埋め込まれた、無私の奉仕と自信という2つの特質を育てることによって、初めて可能になります。実際、世界の永続する側面は神性のみです。その他はすべて表面的であり、蜃気楼のようなものです。蜃気楼を追いかけても満足は得られません。ガンジス川の岸辺に座っていても、喉の渇きを癒すことはできません。食べ物の山の上に座っていても、飢えを満たすことはできません。人は自分の内部に魂の神聖な光を持っていながら、暗闇の中を手探りで捜しています。その理由は、人が自覚と識別心と信仰を失ったことにあります。

信仰を呼吸と見なさなければいけません。信仰は、呼吸のようにつねに保ち続けていなくてはいけません。衣服を着替えるように信仰を取り替えるべきではありません。何があろうとも、すべての状況の下で、すべての段階で、不動の信仰を保たなければいけません。学生はこの種の不動心を育てなければいけません。

あなた方は、神を礼拝するように自分の国を礼拝しなくてはいけません。その礼拝は、無私の奉仕という形でなされるべきです。国の繁栄はあなたの繁栄です。国家が存在しなかったら、あなたはどこにいるでしょう? 自分が幸福、安楽、繁栄と見なす一切を他の人々に広げることが、私たちの義務です。自分のために祈ることを、他の人々のために祈らなければいけません。この種の寛大さは、教育によって育成されなければなりません。私たちはこの種の教育を奨励しなければいけません。学生の皆さんは、そのような寛大な思いを伸ばさなくてはいけません。

女性は、家族の向上と、個人が高潔であることの責任を負っています。女性は、浄性、激性、鈍性という3属性すべての具現です。しかし、教養を身に付けた女性は、継続と忍耐の精神で、激性と鈍性を軽減させ、浄性を活性化するよう努力しなければいけません。自分の五感を制御したなら、それは世界を征服したことを意味します。

奴隷の態度を育ててはなりません。これはどういう意味でしょうか? 愛をもって何かをするということがありますが、奴隷の態度はそれとは異なるものです。母親は子供を抱き上げるために身をかがめます。それは子供に降参するという意味ではありません。アヴァターの場合も同様です。アヴァターとは、神が肉体の姿をとって地上に降臨することです。なぜ神は降臨するのでしょうか? 皆さんは、「なぜ飛行機は陸に降りなければならないのだろう?」と不思議に思うかもしれません。飛行機は、ふさわしい旅行者たちを乗せて目的地に連れて行くために着陸します。それと同じように、神は、神聖な人々を自分と共に神聖な目的地へ連れて行くために降臨します。それは、その人々に解脱を授けるためです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C13

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