サイババの御言葉

2010年ババ様御降誕85周年記念サティヤ サイ プレ世界大会用
日付:1977年3月6日・場所:ブリンダーヴァン
「Love All Serve All」(すべてを愛し、すべてに仕えなさい) に関する御講話A

渇きを癒すこと

セヴァダル〔奉仕団体、奉仕団体の一員〕の責務は高い次元のものです。セヴァダルは、個人を「私」という立場から「私たち」という立場へ連れて行くサーダナ(霊性修行)の道に沿って、メンバー〔サイ オーガニゼーションの一員〕を導き、メンバーを通して全人類を導かなければなりません。このことは、セヴァダルに置かれるにふさわしい重要性をセヴァダルに与えています。その意味を深く掘り下げたとき、初めて人はそれを悟ることができます。皆さんはあらゆる仕事を礼拝として昇華させ、人生のすべての瞬間をそうした態度で費やすよう努めなければなりません。そうしてこそ、皆さんはこのオーガニゼーションの一員であることを正当化することができるのです。

人は、行為を通して意識の純粋さを手に入れます。実際、人はこの目的を考慮して、行為を歓迎しなければなりません。では、なぜ純粋な意識を手に入れようと努力するのでしょうか? 汚れた泥水がたまっているために底が見えない井戸を想像してみなさい。同様に、人間のハートの内部、意識の深みには、アートマン(神霊)〔真我、アートマ〕が存在します。けれども、アートマンは、意識が浄化されたときに、初めて認識できるのです。あなたの想像、推論、判断、先入観、熱情、情緒、利己的な欲望は、その意識を濁らせ、不透明にします。では、どうすれば、まさしくその基底にあるアートマンに気づけるようになるのでしょう? エゴをなだめる欲望のない、他者の幸福だけを考えたセヴァ(奉仕)を通じて、意識を浄化し、アートマンを顕現させることができます。

セヴァをすることで人は一番に自分のために奉仕している*

それでは、皆さんは誰のためにセヴァをしているのでしょうか? 自分自身のためにセヴァをしているのです。自分に内在するアートマに気づくようになるため、エゴの誘惑を捨て去るため、自分自身を知り、自分を悩ませる問題、すなわち「私とは誰か?」という質問の答えを得るために、セヴァに従事しているのです。他の人々にではなく、自分自身に奉仕しているのです。世間に奉仕しているのではなく、一番に自分自身のために奉仕しているのです。

あなたは尋ねるかもしれません。どうすればセヴァを通じてエゴを乗り越えることができるのですか? と。愛を染み込ませることによって、仕事は礼拝に変えることができます。仕事を神に捧げるなら、仕事はプージャー(神聖な礼拝)へと聖化されます。これは仕事をエゴのないものにしてくれます。また、成功を得ようとする世俗的な欲望や、失敗への世俗的な恐れもなくなります。できる限り最善を尽くして仕事をやり終えたとき、あなたはプージャーをやり遂げたと感じます。そうすれば、あとはそのプージャーを受け取った神が、あなたにとって最善と見なすものを授けてくれます。こうした態度は、仕事をニシカーマ(執着のないもの)にします。この修行の習慣的な実践は、意識を清らかで純粋なものにさせます。チッタシュッディ(意識の純粋さ)を促進します。この最初の装備がなかったら、いったいどうやって霊的な高みへ登ることを希望できるでしょう? 過去の偉大な聖者たちのほとんどは、人生の若い時期を、純粋な意識を確保するためのサーダナをして過ごしました。あなたの職業がどれほど見込みのあるものであったとしても、快適な生活をするためのお金をあなたがどれほど貯蓄していたとしても、知性を働かせてどれほど権威ある地位に上りつめたとしても、あなたのあらゆる行為が、意識の中に生来備わっている神聖な純粋さで満ちていないなら、あなたが得るものは皆無でしょう。

人は自らの行為のゆえに祝福されたり罰されたりする

この点について説明しましょう。通常の郵便封筒があるとします。その表に、金色のインクを使ってとても芸術的な書体で宛名あてな を書きます。美しい言葉で書かれた、驚くほど情趣にあふれた手紙を中に入れて、封筒を郵便ポストに投函とうかんします。その手紙はどうなるでしょう? 手紙は一寸たりともポストから動くことはありません。

次に、安物で見栄えのしないただの葉書があるとします。特に注意を払わずに宛名を書きます。伝えたい知らせを走り書きします。切手を貼り、同じポストに投函します。どうなるか見てごらんなさい! 芸術的な装飾が施された封筒は動きませんが、一方、非芸術的な安物の葉書は、宛名の人物を目指して何千マイルも旅をします。このように、どれほど類希たぐいまれなものであろうと重要性があろうと、熱狂的であろうと魅力があろうと、純粋なチッタ(思い)を持たずに為されたセヴァは、何の成果をもたらすこともありません。

セヴァをしたいという渇望と、セヴァをしている最中の熱意は、あなたを危害から救っています。神は目撃者です。神には、祝福したいという願望もなければ、処罰したいという気にさせる怒りもありません。皆さんは自分自身の感情と行為の結果として、祝福されたり罰せられたりするのです。ヤット バーヴァム タット バヴァティ――あなたは自分の思いと振る舞いの通りになるのです。

悪い行為は決して善をもたらさない
良い行為は決して悪を生み出さない
ニームの種がマンゴーの実を結ぶことはなく
マンゴーの種がニームの実を結ぶこともない

それゆえ、多くの分野の知識に精通していても、身体的な技能や才芸に秀でていても、内面の清らかさがなければ、その人の頭脳は、不毛の砂漠か、愛や慈悲や徳のかけらもない巨大な石ころです。

儀式が人の意識を浄化することはめったにない

『バクティ スートラ』(信愛に関する格言集)に定められている霊的なサーダナの九段階のうち、ダースヤム、つまり、召し使いの態度でセヴァをすることは、真我顕現へと導くがゆえに、最終目標にかなり近いものです。ダースヤムは八番〔七番〕目の段階です。教典の学習、慈善を施して財産を放棄すること、神の御名の復唱、賛美歌や聖歌の詠唱は、心を神聖にしたり、邪悪な道や身を滅ぼす娯楽に陥るのを避けるためには、良い修行かもしれませんが、それらが人間の意識を浄化させることはめったにありません。それどころか、大抵は、エゴを膨らませ、慢心を吹き込み、人より抜きん出ることを求める競争心を増大させます。あなたはバジャン会場に座って、大声で皆と一緒に歌っているかもしれませんが、あなたの心は外で脱いできたチャッパル(サンダル)のことを心配していることがあります。絶えず心の片隅に、チャッパルがなくなる〔盗まれる〕のではないかという恐れがつきまとっているのです。このことはバジャンを汚し、むなしい見世物にしてしまいます。

苦しむ人に対して為されたセヴァは神に届く

セヴァというサーダナはとても独特です。セヴァにおいては、すべてのエネルギーと注意を目の前にある仕事に捧げます。なぜなら、セヴァは献身的な作業だからです。あなたは体を忘れ、体の要求を無視します。自分の個人性や、個人的な名声や特権もかえりみません。エゴを根こそぎ引き抜いて、投げ捨てます。自分の地位、うぬぼれ、自分の名と姿を捨て、すべてのチッタ(思い)を純粋に保ちます。自分が行っている作業がどのようなものであろうとも、自分の個人性は放棄して、その作業の苦労と困難、成果と恩恵を神と分かち合いなさい。どこか自分の外側から神を連れてくる必要はありません。神はずっとあなたの中にいます。この真理を、あなた自身の発見、あなた自身の宝、あなた自身の力としなければなりません。これがセヴァダルの壮大な目的です。だからこそ、セヴァダルは、サティヤ サイ オーガニゼーションの中で高い地位を割り当てられているのです。

あるとき、とても信心深い人が、カーシー〔ガンジス河の畔にある北インドの聖地〕から、この広大な国のもう一方の先端にあるラーメーシュワラム〔南インドの聖地〕まで旅をしていました。その人は、聖なるガンガー〔ガンジス河〕の水をラーメーシュワラムの海水と混ぜるために持ち運んでいました。それは多くの聖地と多くの聖河を訪れた長く辛い巡礼の旅の完結となるべきものでした。旅路のなかばを過ぎたころ、その巡礼者は道端で末期まつごの苦しみにあえいでいる一頭のロバを見かけました。そのロバは、渇きを癒すために水が湧いている場所に行こうとする力さえなかったのです。その乾いた舌とぎょろついた目は、猛烈な渇きからくる苦悶くもんを示していました。巡礼者はその悲惨な光景にひどく心を動かされ、持っていた貴重なガンジス河の水を、その狼狽ろうばいする動物の喉に注ぎ込んでやりました。しばらくすると、ロバは元気を回復し、死の掌握しょうあくから抜け出す力を得ることができました。これを見て、巡礼者の付添い人は尋ねました。

旦那だんな様! 旦那様がカーシーからお持ちになった聖水は、ラーメーシュワラムで海に捧げるはずでした。なぜ、こんな卑しい動物の口に聖なる水を注ぎ込んで、神聖を冒涜ぼうとくなさったのですか?」〔インドではロバは卑しいものと見なされている〕

巡礼者は答えました。

「しかし、私は海そのものに聖水を注ぎ込んだのだよ、おまえにはわからないのかね?」

苦しんでいるジーヴァ(個々の存在)に対して為されたセヴァはどれも、神ご自身に届きます。それは決して神聖冒涜にはなりません。なぜなら、ジーヴァに対して為されるセヴァは、デーヴァ(神)に対して為されるセヴァだからです。常にこの信念を固く保持していなさい。

シヴァとパールヴァティーによって演じられた芝居

何百万もの人々がカーシーへ巡礼にやって来ます。カーシーを見た者は再び生まれてくることはないと言われています。ある日、カイラーサ山でパールヴァティー女神がシヴァ神に尋ねました。

「主よ、あなたを礼拝するための名高い寺院があるカーシーを訪れる者は、皆カイラーサに到達し、あなたの御前に留まることができると言われているとお聞きしました。大勢の者たちがカーシーへ行きます。でも、ここカイラーサに、その全員を収容できるだけの広さがあるでしょうか?」

シヴァは答えました。

「何百万人もの人間全員がカイラーサに来ることはできない。一つ芝居を打って、その大勢の中で誰がここに来ることができるかを、そなたに明らかにしてやろう。そなたにも一役買ってもらう。私の言う通りにしなさい」

パールヴァティーは八十歳の醜い老婆に、シヴァは九十歳のよぼよぼの老人に姿を変えました。老婆は膝の上に老人を抱きかかえ、シヴァをまつる有名なヴィシュウェーシュワラ寺院の正門で、寺院へ向かう参道を通り過ぎる巡礼たちに哀れみを誘う口調で懇願しました。

「主人はひどく喉が渇いております。渇きのあまり死にそうです。私は主人を残してガンジス河の水を汲みには行けません。どなたか、主人の喉に少しだけ水を注いで、命を助けてやってくれませんか?」

セヴァほど実り豊かな祈りはない

巡礼者たちは、聖河で儀礼の沐浴を済ませ、ガート〔水際の階段〕から上がって来ていました。衣類はまだ濡れており、体にぴったりと張り付いていました。中には、この不憫ふびんな夫婦の姿を見て、平安をかき乱されたことを嘆く者たちもいました。

「せっかく神のダルシャンを受けに来たというのに、何というものを見てしまったのか」

老女の叫びをにべもなく無視して、鼻をツンとすましている者たちもいました。また、

「待ちなさい。お寺で礼拝を済ませてから、後でガンジスの水を持って来るから」と言う者もいました。老いた病人に必要とされる助けを申し出た者は、誰一人いませんでした。

ちょうどその時、すりを働くために寺院へ急いでいた一人の泥棒が、老婆の哀れな声を耳にして、その老夫婦に近づきました。泥棒は尋ねました。

「お母さん、一体どうしたんだい?」

老婆は答えました。

「お若い方、私らはカーシーのヴィシュウェーシュワラ神のダルシャンを受けにここへ来ました。ところが、主人はすっかり疲れ果て、気を失ってしまったのです。もし誰かがほんの少しガンジス河の水を汲んできて、主人の喉を潤してくれたなら、命は助かるかもしれません。私は、主人をここに残して水を汲みには行けません。どうか私を助けて、功徳を積んでくだされ」

泥棒の慈悲の心がかき立てられました。泥棒は空洞の瓢箪ひょうたんの中に入れたガンジス河の水を少し持っていました。泥棒は老婆の膝の上で死にかけている老人のかたわらにひざまずきましたが、老婆は泥棒を制止して言いました。

「ガンジスの水が喉を潤した途端、主人は死ぬかもしれません。この人は末期の状態です。ですから真実の言葉を話して、それから水を飲ませてやってください」

老婆が何を言っているのか泥棒には理解できなかったので、老婆は説明しました。

「主人の耳に聞こえるように、あなたが人生で為した何か良い行いを話すのです。それから、主人の口に水を注いでやってください」

困ったことになりました。泥棒は途方に暮れました。それにはまるで応じることができなかったからです。泥棒は言いました。

「お母さん、実を言うと、おいらは今まで一度も良い行いをしたことがない。今の、この行い、この喉が渇いた人に水を差し出すことが、おいらの請け合える、生まれて初めての良い行いなんだ」

そう言うと、泥棒は瓢箪を老人の唇に当てて、一口分の水を注ぎました。

その瞬間、老夫婦の姿は消え去り、その場にシヴァとパールヴァティーが立っていました。シヴァは言いました。

「息子よ、人生は自分自身の排他的な関心にではなく、他者への奉仕に捧げるべきものだ。これまでどれほど多くの悪い行いをしてきたとしても、おまえの口から出た真実の言葉と、ガンジス河の水という無私の捧げ物により、我らはこの神聖な姿を見せておまえを祝福する。真実ほど高潔な道徳はなく、セヴァ(愛のこもった無私の奉仕)ほど実り豊かな祈りはないことを、覚えておくがよい」

ブラフマンを探求する三つの段階

霊的な悟りに至る王道には、聖典の中で述べられているように、三つの段階があります。それは、カルマジグニャーサ、ダルマジグニャーサ、ブラフマジグニャーサです。ジグニャーサは、深い探求を意味します。行為形態と行動規範――カルマ(行為)とダルマ(正義)――の探求という、浄化と純化をもたらすことによって、人の意識が鍛えられ形作られたとき、初めて人はブラフマンを探求するにふさわしくなり、ブラフマンの探求に成功するのです。どのような行為に着手するときも、その前によく識別する人は、自然に正しい行動と振る舞いをするようになります。

良いカルマは自動的に良いダルマへとつながります。手作りのココナッツ チャトニを例に取ってみましょう。それは、ココナッツを潰して調理した後で、初めて味見されます。食べてみれば塩が入っているかどうかがわかります。塩気が足りないか、入っていないことがわかった場合、味を良くするために必要な量の塩を加えなければなりませんが、少し味見してみる前に塩を加えることはしないでしょう。ですから、その三段階は、()ココナッツをすり潰してチャトニを作る、()食べる、()必要量の塩を加える、になります。調理はカルマ、食べることはダルマ、味付けと保存のために塩を加えることはブラフマンです。行為し、捧げ、崇める――これが純粋な意識を手に入れる方法です。

万物に宿る神への供物として捧げられた行為は、最高のセヴァと同じくらい神聖なものになります。セヴァに身を捧げなさい。神のアヴァター(化身)はセヴァに従事します。そのために、アヴァターたちは降臨するのです。ですから、あなたが人類にセヴァを捧げるなら、アヴァターは当然喜び、あなたは神の恩寵を勝ち取ることができるのです。これは、皆さんがサティヤ サイ セヴァダル〔オーガニゼーション〕の一員として手に入れた、素晴らしいチャンスです。私は皆さんがこのチャンスを最大限に用いることを望みます。皆さんがそうできるよう、私は皆さんを祝福します。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.13 C9

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