サイババの御言葉

日付:1977年・場所:ブリンダーヴァン
夏期講習 ラーマーヤナの解説(3)より

カルマの法則は確固たるもの


レモンの種を植えてマンゴーを育てることは期待できない
マンゴーの種を植えてレモンを食べることは期待できない
それと同じで、悪い行いをして善い結果を期待することはできない
善い行いをするなら、悪い結果を得ることはあり得ない
自分が植える種の種類が、自分が刈り取る作物の質を決めるのだ


愛の化身たちよ

この世でのあらゆる善いこと、悪いことは、自分自身の行いが招いたものです。あなたが生まれた原因は、あなた自身のカルマ〔行為の結果/業〕です。あなたが善いことをしようが悪いことをしようが、そのすべてがあなたを何度も何度も生まれ変わらせて、あなた自身のカルマの報いを体験させるのです。私たちのダルマ〔法〕、ヒンドゥー教のダルマは、カルマの法則、輪廻転生、そして、神が化身するという教えを信じています。世界のあらゆる宗教のうち、これらの三つの教えをすべて認めているのはヒンドゥー教のダルマだけです。自分の行いが輪廻転生の原因であるということを信じるという点において、あなた方は、神はいったいどんなカルマによって人間として生まれなければならないのかと、疑念を抱くかもしれません。人が自分の行いの善悪が原因で生まれてくるのと同じように、神が人間として生まれるには善い要因と悪い要因がなければなりません。そこには注目すべき重要な違いがあります。人が善悪を行った場合、その報いは本人にしか降りかかりません。アヴァターの場合は、それとまったく同じではありません。悪人がした悪い行いと、善人がした善い行いの両方が、人の姿をとった神であるアヴァターの降臨の原因となるのです。これはナラシンハ アヴァター〔人獅子〕の話において非常に明白です。プラフラーダの善行とヒランニャカシプの悪行の両方が、ナーラーヤナ神がナラシンハの姿で顕れる原因となったのです。それと同じように、どのアヴァターの降臨にも何らかの理由があります。主は人々によってなされた行いゆえに人間の姿をとります。主が人間の姿をとるのは自らの自由意志によるものです。

ラーマ アヴァターの降臨にはいくつかの理由があります。神々と羅刹の戦争が起こった時、羅刹たちは大聖仙ブリグの妻のところに逃げ込みました。ブリグ仙の妻は羅刹にとっていくらかの助けとなりました。なぜなら彼女がある程度まで進んで羅刹たちを助けてやったおかげで、羅刹たちは救われたからです。その状況を知ったナーラーヤナ神は、怒ってブリグ仙の妻のもとに行き、首を切り落として殺しました。ブリグ仙は殺された妻との別離に苦しみました。ブリグ仙はナーラーヤナ神に、人間として生まれて妻との別離に苦しむようにと呪いをかけました。この出来事の重要な内的意味は、すべての行いにはそれに対する反動や反射が伴うということです。全能の神、ナーラーヤナ神にさえ、己の行為の報いが、人間の姿をとって降臨した時に必然として降りかかったのです。しかし、それはもちろん、その真理を人類すべてに身をもって示すためでした。

しかし、マーヤーのせいで、人々はこの出来事からこの教訓を引き出す代わりに、主の神性に疑問を抱き、人の姿はナーラーヤナ神の姿であるということを固く信じることができないのです。

森でラーマとシーターとラクシュマナが歩いていた時のことを詳しく調べてみると、三人は一人の後ろに一人がというふうに、一列で進んでいたことがわかります。私たちは自分の三本の指をその一行の一員と見なすことができます。最初の指、人差し指は、ラーマの象徴です。ラーマが進むと、そのすぐうしろをシーターが歩きます。シーターのうしろはラクシュマナが歩きます。ここでは、ラーマはパラマートマ、シーターはマーヤー、ラクシュマナは典型的なジーヴァ〔個々人〕を象徴しています。この状況において、ジーヴァであるラクシュマナは、パラマートマであるラーマを見たいと思っていますが、二者の間には、シーターがマーヤーの姿をとって立っています。そのような状況で、ラクシュマナは何をすべきでしょうか? 失礼ながらシーターに、どいてくれと頼むべきでしょうか? それはあり得ません。もしそんなことをすれば、ラーマはそれを許さないでしょう。ラクシュマナはシーターに、「ああ、母なるお方よ、私は神なるパラマートマの御姿を見たいのです。どうか一瞬、脇に寄って、私にパラマートマの御姿を見せてください」と懇願すべきです。反対に、もしマーヤーに食ってかかって、脇へ寄るようにと命じるならば、ラーマを見ることはできなくなる、すなわち、神の御姿を見られなくなる、という結果に陥るでしょう。パラマートマはつねにマーヤーに囲まれています。パラマートマはマーヤーを自分の体として着けています。マーヤーはパラマートマの体の一部であり一片です。自分の体の一部を取り除いたり、切り落としたりすることに同意する人は誰もいないでしょう。シーターをマーヤーと見なしなさい。シーターを通じて、そして、シーターに懇願することによって、人はパラマートマであるラーマの御姿を見ることができるようになるべきです。

この状況において、私たちがパラマートマの真の姿を顕現させることができない原因は、シーターにあります。パラマートマを理解できるかどうかも、シーターのせいということになるでしょう。すでに述べたように、人の心(マインド)こそが、人の解脱と輪廻の原因です。ここでのマーヤーの様相は、心の様相と似ています。心が形を得るのは、私たちが抱く幻想が心に形をとらせるからです。

ここに布があります。実は、これは布ではありません。これは実際は糸の束です。もっと厳密に見てみれば、これは糸の束でさえもなく、ただの綿です。糸を一本ずつ引き抜いていくと、布の形は消えてしまい、もう布は見えません。それと同じように、心は単なる欲望の寄せ集めです。欲望が糸のように合わさって、心という布を形作っているのです。あなたが糸を引き抜くと布が消えてしまうように、あなたがすべての欲を引き抜けば、心はなくなります。心は形を失います。その結果はムクティ、すなわち解脱と呼ばれます。このプロセスは、私たちが自分の責任と欲望を減らすこと、あるいは除去することであるともいえます。人生は長い旅路です。長旅で持ち歩く荷物が少なければ、旅は楽しいものになるでしょう。鉄道に乗る多くの学生は、「荷物を減らして気楽になれば、旅は楽しいものとなる」というモットーを見たことがあるでしょう。人生は鉄道の長旅のようなものであり、欲望が荷物になります。荷物を最小限にするために、欲を最小限に抑えるべきです。欲望のせいで、私たちは輪廻に囚われてしまうのです。そして、輪廻に囚われているせいで、私たちは悲しみと困難を得るのです。

先日述べたように、ラーマがシーターと近しくなったのは、シーターが自分のすべてを犠牲にし、すべてを手放して、自分の欲しいものはラーマだけだと考えたからでした。ところが、ダンダカの森のパンチャヴァティーで、シーターは金色の鹿が欲しくなり、ラーマにつかまえてほしいと言いはじめたために、ラーマはシーターから遠く離れてしまいました。この点において、カーマ(欲望)がある時にはラーマはいられない、と言うことができます。ラーマのいるところにはカーマ(欲望)はいられません。光と闇は同じ場所には共存できません。すべての人間にとって、自分が過去にしたことの結果が、自分に幸福を与えるか、悲しみを与えるかをするのです。

ラーマーヤナで、ラーマが黄金の鹿を追いかけていた時、「ああ シーター! ああ、ラクシュマナ!」という偽りの叫び声が聞こえてきました。ラクシュマナは、その声はマーリーチャが発したものだということをよくわかっていました。それがわかっていたので、ラクシュマナはその声に注意を払いませんでした。ラクシュマナは、シーターの面倒を見てシーターを守らなければならないという義務に従事していました。叫び声が聞こえた時、シーターは恐ろしくなり、混乱しました。シーターはラクシュマナに不当な圧力をかけて、ラーマが危ないと言いました。シーターはラクシュマナに、すぐに行ってラーマを守るようにと催促しました。ラクシュマナは羅刹が講じる策略とペテンをよく知っていました。それゆえラクシュマナはシーターに、「いいえ、こうしたことを信じてはいけません。これはただの策略です。私の兄、ラーマには、どんな類の傷も負わせることはできません」と言いました。しかし、その時のシーターの言葉は一切の道理を外れていました。シーターはまるで、まったくきちんと考えていないかのようでした。シーターはきわめて辛辣な言葉を吐きはじめました。ラクシュマナは、もはや、その辛辣な言葉に耐えることができませんでした。そのため、ラクシュマナは不本意ながらその場を去りました。他に選択肢がなかったからです。ラクシュマナに行くようにと催促していた時にシーターが発した言葉は、ラクシュマナのような無実の人にはまったくふさわしくないものでした。シーターは普通の女性ではありませんでした。シーターはナーラーヤナ神の妃でした。シーターはラクシュミー女神の化身でした。そうであっても、人は自分がした行いの結果を体験しなければならないという避けることのできない法を、その場で、身をもって示さなければならなかったのです。

ラーヴァナの死後、身の純潔を証明するために火の中に入るという試練を経るべしとシーターが言われた時、ラーマがいくつかの辛辣な言葉を発したのは、シーターを試して世に手本を示したいと思ったからでした。シーターは、10ヶ月間、ラーマの姿を見るのを待ちわびていましたが、ラーマが姿を見せた時、ラーマはまったく同情を示すことなく、非常に厳しい言葉さえ使いました。シーターが涙を浮かべていた時、ラーマは優しさも思いやりも示しませんでした。反対に、ラーマは非常に辛辣で、「シーター、私は君にどんな厚情も示しはしない。君は、ラクシュマナかバラタと共に生きていくことを選べばよい」と言ったのです。シーターは普通の人ではありませんでした。そのラーマの言葉を聞いた瞬間に、これは自分がラクシュマナと話をした時に使った辛辣な言葉の報いであるということにシーターは気がつきました。自分がした行いの報いは断固たるものであり、人は決してそれから逃れることはできません。ラーマーヤナにおけるこの状況は、カルマの法則を非常によく表しており、人に例を示しています。それは、つねに善くあれ、善いことをせよ、善いものを見よと、人に教えています。

他の状況においても、重要な実例を見つけることができます。シーターが身ごもっていた時のことです。当時のラーマは君主であり、ラーマの王国において、君主は国民の言葉を非常に重視していました。そこには、夫としての義務が大事か、それとも、国王としての義務が大事か、という葛藤がありました。ラーマは熟考し、「夫としての義務のほうが重要か、それとも国王としての義務のほうが重要か?」と自問しました。ラーマは、国王としての義務のほうが重要であるという結論に至りました。夫としての義務は個人の義務です。王としての義務は、共同体全体にかかわることです。王としての義務のほうが重要であるとの判断に至った後、ラーマはシーターを森に送ることに決めました。国民は、これはひどい仕打ちだと思いましたが、ラーマは最も困難な状況の下でさえ、ダルマの道から外れることはなかったのです。

ラーマ物語のもう一つの出来事を見てみると、ラーマはシーターとラクシュマナと共に馬車に乗って森に行ったということがわかります。ダシャラタ王は悲しみに襲われ、ラーマの馬車を追って自分の馬車を走らせながら「止まれ、止まれ」と叫びました。ラーマの馬車を御していたスマントラ大臣は、「ダシャラタ王の命令に従って馬車を止めたほうがよいのでしょうか、それとも、このまま進んだほうがよいのでしょうか?」とでも尋ねているかのようにラーマチャンドラ〔月のごときラーマ〕を見ました。ラーマチャンドラは、「進め、進め」と言いました。ある程度の距離を前進すると、スマントラ大臣はラーマチャンドラの方を向いて尋ねました。「私にもあなたと共に何年か森にいる必要があったなら、どんなにいいでしょう。しかし、私は都に戻らねばなりません。戻れば、ダシャラタ王は私に、“私が止まれと言った時、なぜ馬車を止めなかった?”と問うでしょう。私はダシャラタ王に何と答えたらよいでしょう?」 ラーマチャンドラは、「ああ、そのことなら、そんな言葉は聞こえなかったと言いなさい」と述べました。これは嘘ではないでしょうか? いいえ、この言葉に嘘はありません。それには多くの理由があります。ラーマチャンドラは森に行かねばならず、それは早ければ早いほどよかったのです。もし森に行くのが遅くなれば、両親に大きな悲しみと苦痛を与えることになりました。別の理由もあります。神々と羅刹たちとの戦いで、ダシャラタ王はカイケーイー妃に願いを叶えるという恩恵を与え、カイケーイー妃が願い事をすることを望んでいました。ダシャラタ王は、王としてカイケーイー妃にその恩恵を与えました。自らがカイケーイー妃に与えた恩恵であるその願い応じ、それを叶えるために、ダシャラタ王はラーマチャンドラを森に追いやりました。しかし、あの日、ダシャラタ王は、馬車を止めるようにと要求していた時、ラーマチャンドラをもう一度見たいと思う父親として、そう言いました。ダシャラタ王は、王としてその命令を口にしたのではありません。あの命令は、父と息子との間に存在する人間関係と結びついたものであり、王とは無関係です。

ラーマはスマントラ大臣に言いました。「あなたは王の命令に従った。私の父の命令には従わなかった。」 私たちは、ラーマが王と父の間に置いている重要な違いをよく見るべきです。たとえば、4人の息子がいるイエーラーヤという名前の人物が大臣になったとします。昔、イエーラーヤは、大臣に子供はいない、国民全員が大臣の子供であり、大臣は皆の面倒を見るものだと考えていました。ところが、大臣になったとたんに、4人の子供が大事になりました。地位に就くと、その地位に応じた責任が生じるということをわかっていないのです。このように、もし現代の状況とラーマの王政の時代(ラーマ ラージヤ)の状況を比べると、大きな違いが見られるでしょう。

聖仙たちは世界の導き手です。つまり、聖仙たちは道を見つける者です。歴史を紐解くと、皆さんは、偉大な聖仙たちが備えていたと考えられていたさまざまな人間性を見いだすことでしょう。聖仙たちは、そうした人間性の一切を、いつも人々の繁栄のために使ってきました。この真実を理解できない人々は、そうした偉大な聖仙たちの行動を批判したり議論したりしはじめます。聖仙たちは、いつも、まったく私心がありませんでした。すべての行動は人々の繁栄に向けられていました。ラーマーヤナという神聖な物語の中にあるいくつかの重要な出来事は、そうした理想の姿を物語るための実例です。ラーマーヤナの中にあるすべての言葉は、マントラの力を有しています。ラーマは自分を理想の人間として示しています。

学生諸君、あなた方には国を善くする責任があり、ラーマーヤナの内的意味を理解する必要があります。ラーマーヤナは誰かが作った物語で、自分の生活の状況とは関係がないと考えるのは、正しいことではありません。ラーマーヤナの物語は、マハリシ(大聖仙)たちによって語り継がれてきたものであり、あなたの状況がどんなものでも、あなたが就くことになる地位がどんなものでも、環境がどんなものでも、人生のあらゆる段階においてあなたが従うべき理想を提示しています。ところが、今、私たちは自分の思考と知性を正しい道に置いておく努力をしていません。自分が誰であるかを理解できるようにとあなたに与えられている知性が、あなた自身を理解するためにではなく、あなた以外のこの世のことを理解するために使われています。

内観とアートマ〔真我〕の探索という目的のために与えられた知性が、もし食べ物を手に入れるために使われるなら、あなたの人生は無意味です。鳥や動物でさえ食べ物を探して手に入れています。食べる物を手に入れるためだけに人間として生まれるというのは、とても残念なことです。もし自分の顔を見るために与えられた鏡が他人の顔を見るために使われているなら、あなたはどうやって自分の顔を知るのでしょうか? 神があなたに知性を授けたのは、あなたが自分を理解して、自分の本質を悟ることができるようになるためです。まず第一に、あなたは何者なのかを見出そうと努めなさい。その探求は、自然と真我の探求となり、「私は誰なのか? 私は体なのか? 私は心なのか? 私は知性なのか?」といった問いになるでしょう。

これらの各問いについて調べれば、あなたはそのどれでもないということがわかるでしょう。たとえば、あなたは「これは私の体です」と言います。あなたがそう言うとき、それはあなたと体は別個のものだということ、そして、あなたは体ではないということを意味しています。この真実を理解しなければなりません。私がこのハンカチを私のハンカチにすれば、私はいつでもこのハンカチを投げ捨てることができ、私はきっぱりとハンカチと別れることができます。これは私の体、私の心、私の知性などと言うとき、それは、あなたは体や心や知性とは別のものだということをはっきりと意味しています。あなたは体の中にいて、心の中にいて、どこにでもいますが、それらはあなたの中にはありません。それらはあなたのものですが、それらはあなたではありません。

ここで、さらに、ちょっとした状況についても調べるべきです。それは、それらはあなたであるけれども、あなたはそれらではない、というものです。これはどういう意味ですか? あなたが自分はそれらであると言うのは、正しいことです。そして、自分はそれらではないと言うのも、正しいことです。どうしてそんなことが可能なのでしょう? 小さな桶があるとします。あなたが桶を覗き込むと、桶の水に自分が映っていました。するとあなたは、あれは自分だと言います。水に映って見えるものがあなただというのです。そこで私は、いいえ、あれはあなたではありませんと言います。もし映った姿は自分であると主張するのなら、私が棒を手に持って、その映った姿を打ってみましょう。あなたは痛みを感じません。それでもあなたは、映った姿は自分だと主張しますか? それは映った姿です。それはあなたではありません。しかし、それはあなたです。もし私がその映った姿をののしったら、あなたは怒ってしまうでしょう。私がその映った姿を打ってもあなたは痛みを感じませんが、私がその映った姿をののしると、あなたは確実に感情を害します。これのことが意味するのは、あなたはその中にいるけれども、あなたはそれそのものではないということです。それと同じように、あなたはどこにでもいるのです。あなたは映った姿の中にも存在しており、あなたは遍在であり、あなたは神なのです。それに基づいて、また、この真理の側面において、「あなたは一人ではなく、三人いる」と、私は言います。それは、あなたが自分だと思っているあなた、他人があなただと思っているあなた、そして、本当のあなたです。それは、体と心とアートマであり、この三つの異なる側面を表しています。

今朝、講演者の一人が「W」という文字の意味について話しました。彼は、「W」は「Woman・女性」を表していると、非常に賢い明言をしました。そして、その結論として、世界の繁栄と衰退は、どちらも、もっぱら女性に責任があるということが証明されました。世界を改善し、世界を住んで幸せな場所にすること、世界を栄光の高みへと引き上げることの責任は、もっぱら女性にあるのです。バガヴァッドギーターの中で、女性は非常に独特な性質を持っている、女性はすべてのものの中で一番の場所を得るべきである、と言われています。国は母国と表現されます。自然、創造物は、母親に喩えられます。私たちは、転んで痛い思いをすると「アンマ」〔お母さん〕と叫びます。「アッパ」〔お父さん〕とは叫びません。これら一切の状況において、また、母親の象徴として、女性には非常に独特で特別な地位があるのです。女性には、人を栄光の高みに引き上げることも、どん底まで引きずりおろすこともできるのです。

三つの神聖な単語があります。それは、Work(行い)、Worship(礼拝)、Wisdom(英知)です。この三つの単語に共通するのは「W」であり、それが頭文字になっています。この他にも「W」で始まる別の三つの単語がありますが、それはあなたをまさに破滅の底へと連れてきます。それは、Wine(お酒の象徴)、Woman(女)、Wealth(富)です。皆さんは、何万という兵士に命令を下す軍の大将や、どのようにでも自分の好きなように人を罰することのできる力を持つ最高裁判所の裁判官など、地位のある人物、権力のある人物を世間で見ることができます。大きな大学には学生が何千人もいるかもしれません。学長は、自分の名前を出しただけで学生たちを恐がらせる力を持っています。自分の兵士全員に命じることのできる大将、大いなる権威を握ることのできる最高裁判所の裁判官、何千人もの大学生を恐がらせることのできる学長は、そうした権力のほんのわずかでも自分の妻に行使することができるでしょうか? 私たちは、女性には何らかの神聖な力があるという結論に至ります。その神聖な力のおかげで、シーターはラーマという誰にも容易には手の届かない者を手に入れることができたのです。

ヴィジャヤワーダ〔アジア最大のマンゴー市場のある都市〕から運ばれてきたラサム〔甘露や果汁という意味〕というマンゴーの名前を聞くと、私たちはその名前から、それは非常に魅力的な果物だと感じます。その名前が耳に入ると、私たちはたいそう心引かれて、それはとっても甘いのだろうと思います。一方、実際にその果物を見て食べたくなった場合には、これは本当に甘いのか、それとも酸っぱいのかと、疑問に思うかもしれません。それと同じように、神の御名が聞こえると、私たちは確実に大きな注意を払います。しかし、その御名を持つ神が人の姿をとると、私たちは疑いを抱きはじめるのです。万物に特有なことである、姿に生じる変化が、そうした疑念を引き起こすのです。

私たちが自分の周りに見るものはすべて、自然という創造物です。それはまさしく創造の現れであり、自然と呼ばれています。創造物にはかなりの弱さがあり、そうした弱さの元は創造物それ自体の中にあります。人に何らかの弱さがあるとき、それがどのような場合であれ、その人はまさにそれと同量、女性の姿をしているのです。この世は舞台のようなものであり、そこでは男も女も単なる役者であって、自分の役を演じています。しかしながら、単純に劇の中で男や女の役を演じているからといって、誰だれは男で誰だれは女であると結論づけることはできません。

小さな例があります。アナンタプルには女子大学があります。創立記念日に、女子大生たちはいくつかの劇を上演します。劇では、それが王様の役であろうと、他の男性の役であろうと、それを演じるのは女子たちです。王であろうと女王であろうと、男であろうと女であろうと、すべての役が女子だけで演じられます。その日だけ、彼女たちは舞台の上で男や王様を装っていますが、本当は、まさしく女子であり、女性です。劇や舞台では役を演じているにすぎません。彼女たちは、実際には王でも男でもありません。それと同じように、創造世界全体において、この世は女子大学のようなものです。この世という舞台の上で、私たちは、誰だれは女で、誰だれは男だと思っています。それはただの見かけであって、本当ではありません。すべての人は、飢え、怒り、嫉妬、いらいら等の弱さに悩まされています。こうした弱さはどの人の中にもあるものであり、それは、どの人も皆女性であることを示しています。そうした属性を持っていない者が一人だけいて、その者はプルシャ〔原人/男性〕と呼ばれるパラマートマ〔至高我/神〕です。

神聖アートマの化身たちよ、

パラマートマを見るためには、短気や怒ったりといった、人間にありがちな弱さを捨てるべきです。特に、皆さん方若者は、自分の怒りや憎しみ、嫉妬心や性欲を制することができるようになるべきです。これらこそが、皆さんが制しなければならないものです。若い時にこれらを制する努力をして成功を収めることができなければ、もっと年をとった時にこれらを制するのは不可能になるでしょう。五感を制することができるようになるのに適切な時期は、今です。五感の衝動こそが、あなたとあなたの平穏を破壊するものなのです。

自分の欲望を制することができるようになった時、あなたは全世界を手中に収めることが可能になるでしょう。もしあなたが自分の欲望と野望の言いなりになるならば、あなたは自分の周りのものすべての言いなりになってしまうでしょう。もしあなたが自分の欲望の奴隷になるならば、あなたは世の中すべての奴隷になってしまうでしょう。一方、もしあなたが自分の欲望を制して征服するならば、あなたは全世界を征服することができます。もしあなたがただ外から見えるところだけそれらを制御下に置いておきたいというのであれば、永続的な結果がもたらされることはありません。蟻塚の表面を棒で叩いたら、蟻塚の中にいる蛇は死にますか? 表面近くの欲望だけを制するのは正しいことではありません。あなたの体の中に入って来る悪い考えや思いを制する必要があります。心は蟻塚のようなものです。あなたの心という蟻塚の中から、いくつかの有毒な思考が毒蛇のように出てきます。神への神聖な思いと、神に関する平らかで穏やかな考えを用いることによって、あなたは蛇を眠らせることができるはずです。皆さんの年齢は神聖な年齢です。神聖な年齢を無駄にして、その年齢から良い結果を得ないというのは、嘆かわしいことです。あなたのすべての行いにおいて、他人を真似たいとかコピーしたいと思うべきではありません。もし今日からあなたがそれらを一掃できるようになり、自分の思考を制するならば、将来あなたは神に近づく力を得ることができます。

もしこの夏期講習に参加してそうした良い結果が出ないなら、このような夏期講習やセミナーを開催しても何の役に立つでしょう? 故障した車を修理のために工場に持ち込んで、それが故障したまま戻って来たら、修理に出すことが何の役に立つでしょう? それと同じような具合に、損傷してナットやボルトの付いていないたくさんの車が、若い学生の姿になって、このラーマーヤナ セミナーという工場に送られてきました。車は私たちの国のあらゆる地域からやって来ました。それらの車は、良い状態になるよう修理されて初めて、元の場所に戻る時に価値を得るのです。そうでないなら、この工場に来ることはありません。

ここに来た学生は、ここに来た時と同じ状態で帰ってはいけません。理想の男女に変身すべきです。私は、あなた方がそうなって、今後何年かしてあなた方のあとから来る人々に手本を示すことができるようになることを望んでいます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1977 C3

<<SSOJ Topページへ <<サイババの御言葉メニューへ