サイババの御言葉:人生の目的

日付:1978年8月31日・場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学 学生寮10周年祭の御講話より

人生の目的


少年期は、仲間との交わりを楽しみ、遊びや戯れに夢中になる
青年期になると、魅惑的なキューピッドのように肉欲に身を焦がす
中年期は、大金を稼ぐことといった世俗の物事に没頭し
老年期が襲ってくれば、ハリ〔神〕を忘れて欠乏を心配し続ける

(テルグ語の詩)


邪悪さを手放せず
信愛の味もわからぬまま
カルマの泥沼の中を這いずり回る
かくして人は、塵芥(ちりあくた)の中に人生を投げ出す

(テルグ語の詩)


学生の皆さん!

人生とは何ですか? 人生の目的地とは何ですか? 人生の秘訣とは何ですか? 人生の目的とは何ですか? 私たちはこれらの面を熟考しなければいけません。

「自分たちは何のためにこの世へやって来たのか?」

「解脱とは何か?」

「本当の自由とは何か?」

解脱とは「到達すること」です。1つのものがもう1つのものと結び付くこと、1つのものがもう1つのものと混じり合うこと、これが解脱と呼ばれるものです。川を例にとりましょう。行く手にどのような障害物があろうとも、川は気にそれを留めずに絶え間なく流れていきます。岩に阻まれると、岩を迂回して二手に分かれ、そうして海へと流れ着きます。川は決してその目的地を忘れません。私たちの人生も川の流れのようなものです。人生と呼ばれる川が流れゆく先はどこでしょう? それは、人生を無駄にすることや、自分の義務を忘れることでは断じてありません。ですから、私たちの人生は、神の恩寵という到達点を目指して、不屈の精神で流れていくべきです。

これは、すべての宗教が教えていることです。すべての宗教の目的は同じです。実に、すべての宗教は神聖です。宗教は理想的な人生を語っています。ある宗教を善と見なし、別の宗教を悪と見なすのは、人間的な気質です。聖書もバガヴァッドギーターもコーランも、どれも同じことを教えています。

皆さんは聖書の中に、「私は神の使いである」という言葉を見つけるでしょう。この言葉の内的意味は何でしょうか? 神と使いは別々のものです。使いが主のメッセージを伝えます。主が自らやって来て教える必要はありません。この二者は別々の存在と見なされています。ヴェーダの用語では、これと同じことを「二元論」(ドワイタ)と呼んでいます。ゾロアスター教とイスラム教の聖典では、「私は光の中にいる」と言及されます。これは、自分は光ではないということを示しています。自分は光の支配下にあるというのも、「二元論」(ドワイタ)の部類に属します。

そのメッセージによって、徐々に、人は神性(光)を自分の内部にあるものとして理解するようになります。この段階は、聖書の中では秘密めいた言葉の中で、「私は神の子である」と述べられています。それにより、今度は息子と父親の関係であるということがわかります。父親の性質は息子に反映します。息子は父親の財産を得る権利があります。息子は父親の地位に到達しようと努めます。

その後、息子は、「私と私の父は1つである」と述べ、ある段階に到達します。これは、息子と父親は同一であることを意味しています。しかし、これは「融合」とは呼べません。この言い回しには、「私」と「私の父」という微妙な違いが含まれているからです。ヒンドゥー哲学では、「アハム ブランマースミ」〔我はブラフマンなり〕と言います。この声明は、「不二一元論」(アドワイタ)として知られています。しかし、これには2つの異なるもの(「アハム」〔私〕と「ブラフマー」〔神〕)が存在しているため、完全な不二一元論とは言えません。自分の姿を鏡で見て、あなたは「これは私の顔です」と言いますが、それはあなたの顔の反映にすぎません。見ている者はビムバ〔実在〕です。見つめられている者はプラティビムバ(反映)です。また、鏡の中では、あなたの左目は右目として映り、右目は左目として映ります。ですから、これは純粋な不二一元論ではありません。

川は、海に到達する前は、外観も味も海とは別のものです。海に流れ着くと、川は個別性を失い、海の様相を呈します。一箇所に静止していたら目的地に到達できません。私たちは人生の目的地に到達するよう前進しなければなりません。

牧女たちの「ソーハム」

シュリ クリシュナにとって愛しい存在であった牧女(ゴーピカー)たちは、どのようなタントラも知りませんでした。体はヤントラであり、呼吸はマントラであり、チッタ(心)はタントラです。呼吸のマントラとは何でしょう? 「ソーハム」〔私は神であるの意〕です。牧女たちの「クリシュナ! クリシュナ!」という叫びと想いが、「ソーハム」となったのです。牧女たちは、どんな仕事をしているときも、ずっとクリシュナの御名を唱え続けていました。牧女たちにとって、すべてはクリシュナで満ちあふれていました。

クリシュナといえば、ゴークラ〔クリシュナが子供時代に住んでいた村/ゴークラム〕と、マトゥラー〔クリシュナが統治した都〕と、ブリンダーヴァナ〔クリシュナがゴークラ村から引っ越した先/ブリンダーの森/ブリンダーヴァン〕という、3つの場所が思い浮かびます。それほどに、これらの場所とクリシュナは結び付いているのです。マトゥラーの都はハートです。クリシュナはマトゥラーの都に住んでいて、私たちがクリシュナの御名を唱えると、口であるゴークラ村へやって来ます。そこから、シュリ クリシュナは、善良な思考や歓喜に満ちた気持ちであるブリンダーヴァナに、遊び戯れながら入って来るのです。

クリシュナがゴークラ村で自らの到来を告げて以来、何匹もの阿修羅〔アスラ〕たちが幻影を使ってクリシュナを殺そうとしました。なかでも悪名高かったのは、女羅刹(おんならせつ)プータナーと、その弟の阿修羅、バカとカーカです。しかし、シュリ クリシュナは普通の人間ではありませんでした。プータナーが愛情を口実にクリシュナに自分の母乳を与えたとき、クリシュナはプータナーの生気を吸い取りました。それから、別の阿修羅が牛飼いたちに交じってクリシュナを殺害しようとたくらむと、クリシュナはその阿修羅を殺しました。すると、カーカは腹を立て、牛たちを殺害しようとして、鸛(こうのとり)に変じて現れました。しかし、クリシュナがすんでのところで現れて、カーカを殺しました。

ウパ・ナンダという偉大な占星学者が、ゴークラ村でこれらの事件が起こるのを見て、クリシュナにブリンダーヴァナへ住まいを移すようにと助言しました。牧童(ゴーパーラ)と牧女(ゴーピカー)たちも皆、ブリンダーヴァナ(ブリンダーの森)に到着しました。そこは、人々が想像しているような、一面に花が咲いていて木陰もあるといった美しい場所ではありませんでした。実際、そこは、木が深く生い茂る、野生動物たちの住む密林でした。それを牧童たちが住める所にしてくれたのです。ブリンダーヴァナは、ゴークラ村から5キロ半以上離れた場所でした。これら3つの場所がいくら罵られても、クリシュナはそれらの場所で心底楽しんで遊び戯れました。

話変わって、ウッダヴァ〔ブリンダーヴァナを出て行った後のクリシュナの側近〕が牧女たちに英知の教えを施そうと考えてやって来たときのことです。牧女たちは言いました。

「大聖典に載っているような立派なことを、私たちに教えようとしないでください。私たちには1つの心(マインド)しかなく、その心はクリシュナでいっぱいです。私たちは、クリシュナ以外、どんなことにも興味はありません」

姑たちが騒ぎ立て、夫たちが刃物を研いで脅しても
牧女たちは口を割らない、揺るがない、心配しない、
本に刷られた絵のように、その心にはクリシュナが焼き付いている

(テルグ語の詩)

牧女たちはウッダヴァに言いました。

「誰にでも、言いたいように言わせておいてください。私たちの心には、クリシュナへの想いしか入って来ませんから。私たちは、あなたのように多くの心を持ち合わせていません。1つしかない心を、事あるごとに雑事に携わらせることはできません。ですから、私たちにあなたの教えは必要ありません」

同様に、皆さんは有益なことに心を集中できるようにならなければいけません。それはヨーガ〔神と合一するための行〕やヤグニャ(供犠)やダーナ(慈善)に転じるでしょう。近ごろでは、規律を自らの命の息吹とする私たちの大学以外、どこの大学でも、わざとらしい偽りの雰囲気が広がっています。皆さんは、自分のハートを偽りの生活へと変えて貴重な時間を浪費してはなりません。

博士号の場合

皆さんは、穏やかに話すというような、一定の規律正しい習慣を育てなくてはいけません。大声で話をすると、エネルギーが浪費され、早く老けてしまいます。若者の心(マインド)は気まぐれで、猿のようです。

ブラフマチャーリ サタ マルカタハ
(1人の若者は100匹の猿に等しい)


皆さんは、善良で、純粋で、正直な生活を送らなくてはいけません。

皆さんの両親は、大きなバクティ〔信愛〕で皆さんをここへ連れて来ました。家にいれば、皆さんはあらゆる現代的な安楽が得られるかもしれません。皆さんは、他の多くの学生たちと共にこの寮に適応しなければならないでしょう。皆さんは、自宅ではたいそうな扱いに慣れていました。にもかかわらず、ここでは忍耐を駆使しています。私はそれを嬉しく思います。それは偉大な霊性修行(サーダナ)です。聖賢たちは安楽を享受するために森へ行ったのではありません。聖賢たちは苦行(タパス)を目的とした困難に立ち向かう覚悟で森へ行きました。

皆さんは、どのくらい規律を守っていますか? 寮に順応するのと同じくらい、人生に順応しなければなりません。実のところ、霊性修行は厳格な行を伴うものではありません。たとえば、海を渡るのに、大きな船を所有しなくてはならないという規則はありません。浮き輪1つでも十分に渡れます。夜の森を横断するのも、小さなランプ1個で事足ります。人生という海を渡るのも、短い神の御名1つで十分です。謙虚に生きなさい。名誉を重んじて生きなさい。年長者に敬意を込めて挨拶するとき、皆さんは計り知れない喜びを得ます。

これはよくあることですが、女子学生たちは、約5年の長きにわたってここで学んでも、進学のために出ていくと、すぐに一切の理想を忘れてしまいます。ここで学んだあらゆる規律は無駄になってしまいます。もし鼻が切り取られたら、くしゃみをしても何になりますか? これはMA〔文学修士号〕やBA〔理学修士号〕の場合です。博士号の場合はもっと悪いに違いありません。MA〔文学修士号〕に博士号を加えると、傲慢さはロケットのように急上昇します。

MA〔文学修士号〕+ D = MAD〔狂人〕
  BA 〔理学修士号〕+ D = BAD〔悪人〕

Dは博士号のことです。この種の博士号は、ゴミのような人生へと導くだけです。グル〔導師〕の助けなしに学位を取得することはできません。ですから、グルは皆さんの学位より偉大です。グルの概念は重要です。グルには、「大きい」、「偉大である」という意味があります。学生たちは、教師が理想的な生き方を立派に示したとき、初めて教師を見習います。男子学生は当然ながら自立します。しかし、皆さんは誰かの世話や保護を受けることになります。話をするのを控え、優しい話し方をすれば、あなたは自分が関わった人すべてに慕われるでしょう。これをスワミからの命令と受け取り、あなたの人生を幸せなものにしなさい!

解脱は、規律の後から付いて来るものであり、立派な教科書は必要としません。重要なのは、純粋で、利己的でない、神聖な愛の生活です。そして、それこそは、偉大な苦行よりも簡単に解脱に到る方法なのです!

皆さんは、他の人々から善いものだけを受け取らなくてはいけません。努めていつも健康でいるようにしなさい。健康でなければ何一つ成し遂げることはできません。流行や、インスタント食品やファストフード、虚栄という手段に頼って、よい習慣を台無しにしてはなりません。あなたが行うことの一切において、規則正しさを保ち続けるようにしなさい。私は、皆さんが、よい振る舞いを通して、母校によい評判をもたらすよう祝福します。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C19

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