サイババの御言葉

日付:1979年11月20日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
第四回 全インド バルヴィカス グル大会における連続御講話@

子どもに奉仕しなさい


人間たちは様々な技能に熟練しています。様々な機械を作り、操作し、多くの知識分野に精通しています。しかし、当然持っているべき平安を得ていません。世俗の生活という激しい洪水に押し流されています。人間の肉体を使って発揮することのできる、人間の能力を授けられていながら、人間たちは真理というまっすぐな道を選ぶことをしません。自らの生来の神性な実体を忘れたまま、人間たちは偽りの一時的な愉楽の中を放浪して、無駄に年月を過ごしています。これは、熱望すべき成就とは程遠いものです。単なる技能、単に機械を作って操作すること、中身のない虚飾、自慢、グニャーニ(解脱した智者)であるという主張――これらは人間の本性の神秘を解き明かしてはくれません。あらゆる謎を含有しているこの謎を、人は解き明かしましたか? あらゆる問題の鍵となるその答を見つけましたか? 知るべき一切を知ることのできる知識を獲得しましたか?

その解決法、回答、知識は一つであり、唯一です。木を破壊するために、なぜ葉をむしり、枝を折り、幹を切り倒すのですか? 根を切れば事は済むのです! ヴェーダの教えに従った聖賢たちは、その鍵となるアートマヴィッディヤー(霊性の科学)という知識を発見することに集中しました。海外からの求道者たちも、このヴィッディヤーと、それが定めている霊性修行の方法に気づくようになり、世界中でそれを熱烈に歓迎しました。

われらの先祖は聖典を崇めた

しかし、このヴィッディヤーが生まれ故郷に浸透し、故郷を長年を照らしてきたにもかかわらず、インド人たちはその明かりの影である暗い円の内側に群がっています。ずっとこれがインド人の惨めな運命でした。私たちの先祖、そして父親たちでさえ、私たちの国の神聖な文化を描いた書物を熟読し、そのメッセージを吸収し、サーダナを実践し、感謝の気持ちでその教えを伝え、記憶しました。その結果、先祖たちは穏やかな平安を楽しみました。彼らは偉大な古典である『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』、『バガヴァッドギーター』を学び、それらの中に示されている箴言(しんげん)をハートに収め、消えないように刻みつけました。先祖たちは、それらの聖典を聖堂に安置して、敬虔に礼拝を捧げることによって、生涯を通じて導かれました。彼らのハートはその礼拝の行為と仕事によって清められ、聖化されました。そして、その結果、社会奉仕に尽力するよう促されたのです。

いくつかの不運に襲撃にされて、時代は変わってしまいました。「現代」の夜が明け、国民は奴隷のようにその前に頭を垂れています。前述の聖典は、"原始的な"理想だとして、無視され、投げ捨てられる始末です。その一方で、西洋の学者や探求者たちは、それらの聖典を取り戻し、綿密に学び、医薬、軍備、数学、天文学といった様々な主題について、聖典の提言を分析し、まさにそれらの分野の草分けであった人々に話して聞かせました! 私たちは、自分の家の新鮮な料理よりも他人の家の腐りかけた食事を好む人のように、それを喜んで歓迎しています!

教え子たちのハートに徳を育てよ

西洋の生活様式を盲目的に賛美する中にあって、インドの学生は徳というものを過小評価し、無味乾燥な学識を賞賛しています。学生たちは、自分は神への巡礼に従事している人間だということを忘れています。逆に、学生たちは物質世界から喜びを搾り出そうと夢中になっています。それゆえ、教師の第一の義務は、教え子たちのハートに徳を育てることです。これは、勉強しなさいと勧め励ますことよりも、ずっと重要なことです。今日の教育制度は、道徳的価値や霊的価値を評価することも、奨励することもしていません。そのため、学生のコミュニティーは、社会的に危険な領域にまで堕落してしまいました。学生たちは社会の安寧を促進することにまるで注意を払わず、社会的な義務もまったく理解していません。奉仕したいという気持ちが強くあり、かつ、奉仕するための技能が上達しない限り、学生たちは、寄生虫や、他を食い物にするもののように、地域社会の重荷であり続けるでしょう。

寛大なハートは平安と喜びを広めるのを助けます。わずかな知識は、心を狭量にさせ、他人への配慮を限られたものにします。わずかな知識は、エゴを膨らませ、利己主義に餌を与えます。さらに、徳から引き出せる喜びを人に忘れさせます。そのような学生は、国の繁栄や、社会の進歩をもたらすことができません。エゴイズム〔自我意識、アハンカーラ〕の厚いベールは、学生たちを盲目にし、自らの尊厳と運命に無関心にさせます。学生たちは、自分たちの遺産をはっきりと理解するために最善を尽くすべきです。極端な執着も無執着も持たない心、嘘によって汚されていない言葉、罪によって穢されていない肉体――これらは、すべての学生が所有しようと努めなければならないものです。教師は、教え子を助け、励ますために、また、教え子の行いと言葉にいかなる不誠実も付着しないように、常に注意して見ていなければなりません。

グルは自分が説いて教えることを実践しなければならない

利己主義、妬み、エゴによる自惚れは、幼子のハートに根付くべきでない三つの傾向であり態度です。それゆえ、あなた方が世話をしている子どもに、他の人々への奉仕活動に従事するよう促しなさい。人間が生きていけるのは、人間以外の被造物の利他的な振る舞いに依存させてもらっているからであるというのに、その人間が利己的に振る舞うとは、何とひどい話でしょう! 人は、いかなる情報、指導、ひらめきを得ようとも、いかなる財産、富、所有物を持っていようとも、それらを利他的な方法で他の人々と分かち合うべきです。これは人間の第一の義務です。教師は、注意深くして、教え子のハートにこの理想を吹き込むチャンスをつかまなければなりません。

インドは、裕福な人にも、立派な哲学者、学求の徒、学者にも事欠きません。にもかかわらず、この国には平安がなく、人々は不安や怖れに悩まされています。その理由は何でしょう? 主な理由は、自己権力を拡大したいという貪欲さを持っていること、そして、奉仕や放棄といった美徳が欠如していることにあります。金持ち、要人、学識者、さらには、出家している宗派の長でさえ、利己主義の渦に巻き込まれ、自らに潜在する神聖な徳を顕現させることができていません。幼い教え子のハートは、あなた方によって高潔な熱望でいっぱいに満たされなければなりません。そうすれば、子どもたちは、国の権利である栄光へと未来のインドを引き上げる、強くて頑丈な道具になることでしょう。

グル(教師/導師)は、教え子を感化することのできる手本でなければなりません。グルは自分が説いて教えることを実践していなければなりません。教師のとおりに、教え子はなります。蛇口をひねれば、高架タンクから水が流れてきます。蛇口から出る水の質はタンクの水と同じです。グルのハートが、善、無私無欲、愛で満たされていれば、教え子たちはあらゆる行為の一切にそれらの性質を表すでしょう。

教師は対抗グループを形るべきではない

インド国内には5000人以上のバルヴィカス〔子ども(バール)の開花(ヴィカス)教室〕のグルがいると言われています。もし1人が100人の子どもを矯正し、改善するなら、この国は本当に変革されるでしょう。バルヴィカスが誕生してから四年の間に何が達成されたかを正確に調べなくてはなりません。この分析調査は定期的に行われなくてはなりません。グルが浄性を培うなら、教え子も成長して浄性を体現するようになります。グルは、憎しみや妬み、また、それらと同様の悪徳という雑草が自分のハートに根付かないよう、油断なく警戒していなければなりません。政治の分野にはそうした雑草が手がつけられないほど広がっており、他の分野にも忍び込んできています。教師は対抗グループを作るべきではありません。教師のなかには、自分の業績を誇ったり、他者が賞賛を得ると嫉妬したりして、非難の応酬にふける者もいます。他の人々を自分の兄弟姉妹と見なしなさい。というのは、アートマン〔真我〕として見れば、すべては一つだからです。

どこかで、どのようにかして、時折、あなたに様々な良くない特性が立ちはだかってくるかもしれません。しかし、あなたは自分がサティヤ サイ バルヴィカス グルの輪の中に入ったことを忘れてはなりません。良くない特性が他の輪の中にいる教師を虜にしたとしても、それは深刻なことではないかもしれませんが、あなた方の使命はもっとずっと重要で、あなた方が呼び起こす希望はもっとずっと人を奮い立たせるものですから、その良くない特質はあなた方の努力を阻害し、汚すでしょう。

あなた方が呼ばれている「グル」という名称の神聖な意味に気づきなさい。「グ」は「暗闇」を意味し、「ル」は「除去」を意味します。ですから、グルは子どもの知性を照らし、知性が完全に成長することを阻害する無知を取り除かなくてはなりません。深く探れば、グルには別の意味があることがわかります。「グ」には「属性に制限されない」という意味があり、「ル」には「外観に影響されない」という意味があります。つまり、グルは偏見を持たず、教え子全員を平等な愛で遇しなければなりません。

原始的な無知を取り除きなさい

あなたの周囲の子どもたちにあなたのすべての愛を注ぎ、喜んで、誠実に子どもたちを教えなさい。こうした態度だけが、あなたとサティヤ サイ バルヴィカスとのつながりを正当なものにできるのです。もちろんサイは、バルヴィカスのグルたちが、今、真心を込めて自らの神聖な義務に従事し、バルヴィカスの活動の進歩のために最善を尽くして貢献していることを知らないわけではありません。しかし、ちょうど時折バッテリーを充電するように、私は今、純粋さを損なうおそれのある、ある種の欠点と危険性を指摘しているのです。あなた方は、正しい道を見つけ、信仰を持って着実にそれを追求することが絶対に必要です。ペトロマックスのランプ〔圧力式灯油ランタン〕を例に取ってみましょう。このランプは、一定量の灯油と、時折ポンプで空気を入れる必要があります。また、ピンを使って煤(すす)を掃除しなくてはなりません。灯油は信仰であり、ピンは愛であり、あなたに義務を果たすよう駆り立てます。ポンピングは意志であり、あなたにあなたの任務を継続させます。これらの他に、ランプの芯が必要です。神の御名という、あなたの絶えざるインスピレーションが、その芯です。あなた自身と教え子たちから原始的な無知を取り除くために、万物のアートマの一体性という光の中で努力しなさい。

悪い教師は何千人もの人生を駄目にしかねない

この大会中に、あなた方がこの神聖な使命においてどの程度まで成功してきたかを話し合い、発見しなさい。そして、それを発見したら、素晴らしい成功を達成することのできる手段と方法を、自分たちで策定しなさい。自分の体験他の教師に伝えなさい。さらに、カリキュラムを向上させるためのアイデア、指導法、進歩の評価方法についても伝えなさい。子どもたちの隠れた才能の開花、国の繁栄の拡大、社会の安全と幸福に向けて、あなた方がバルヴィカスを通じて貢献できる活動や方法に特別な注意を払うよう私は助言します。悪い生徒はその生徒本人を駄目にしますが、悪い教師は何千人もの人生を駄目にする可能性があります。着実に、揺るぎなく努力していきなさい。突風が吹くたびに方向を変える道標は、混乱した旅人を余計に混乱させるだけです。あなた方は、プレーマ〔神聖な愛〕を培い、またセヴァ〔無私の奉仕〕をしたいという願いを広げなくてはなりません。

そして、何にも増して、あなたの心を神で満たし、子どもたちに神を伝えなさい。子どもたちの顔に浮かぶ喜び以外、どんな報酬も謝礼も期待してはなりません。昨今では、教師たちは自分の義務よりも給料に執着しています。そして、自分の神聖な任務よりも自分の人生に集中しています。狂ったように学位を追い求めるのはやめなさい。それよりも、他の人々に奉仕し、国の繁栄を促進する機会を追い求めなさい。今までのところ、インド文化は、国の守り手であり奨励者である教師たちが、自分と自分の家族を養うこと、自分の名声と財産を増やすことだけで満足しているせいで、衰えてしまっています。ヴェーダは次のように説いています。

ナ カルマナー ナ プラジャヤー ダネーナ
ティヤーゲーナイケー アムルタットワマーナシュフ

ナ カルマナー(行為によらず)、ナ プラジャヤー(子孫によらず)、ダネーナ(富によらず)、ティヤーゲーナイケー(放棄/犠牲によってのみ)アムルタットワマーナシュフ(不死の至福は得られる)。

それゆえ、放棄しなさい、放棄しなさい! 喜んで子どもたちに奉仕し、あなたの知識、あなたの喜び、あなたの愛を与えなさい。そのようにして社会と人々に奉仕しなさい。

サティヤ サイ バルヴィカスのグルたちは、真心を込めてこの奉仕をしています。私は彼女たちが、さらにより誠実に、喜々として努力を続けると信じています。あなた方がこの大会で到達する決議は、ただ紙面に記されるだけではなく、クラスでの実際の日々の指導の中で守られ、実践されるべきです。あなた方一人ひとりが、子どもたち、社会、そして、インド文化の貴重な遺産への奉仕に最善を尽くす決意をすることを、私は確信しています。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 C39

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