サイババの御言葉

日付:1985年9月7日・場所:プールナチャンドラ講堂
1985年クリシュナ神御降誕祭の御講話より

平等のヨーガ


神は万人の舌の上に置かれる言葉である
しかし、人はそこから何を得るのか?
神聖な善良さを育むまでは
言葉をヴィジョンとして見ることができようか?


宇宙と細胞を維持している実在は、ただ一つであり、それはブラフマンと名付けられているすべてに浸透している意識です。この計り知れないほど大きなものは、宇宙(ジャガト/大いなる流転/創造世界)と関連づけて語られる時にはパラマートマ(至高我)であり、個々人の中核として思い描かれる時にはアートマ(神我)です。この三つは同一のものですが、異なったもののように見え、近視眼的な人々を惑わせます。この特質はマーヤーと呼ばれています。実在は、サット(存在/実在しているもの)であり、チット(知識/気づき/覚り/覚醒意識)であり、アーナンダ(至福/歓喜)です。その見かけ、すなわち多様化という力は、三グナ、すなわち三つの様態を使って、自らを別々に顕現させます。三グナとは、サットワ(浄性)・ラジャス(激性)・タマス(鈍性)です。三グナは人に、知るか、欲するか、行為するか、のいずれかをするよう駆り立てます。

「〜になりたいという衝動」、つまりマーヤーが、ブラフマンに御自らを投影するようにと駆り立てる時、ブラフマンは、浄性と結び付くとイーシュワラすなわち神として現れ、激性と結び付くとジーヴィ(人/生き物)として現れ、激性と結び付くとプラクリティ(自然界)として現れます。蛇と間違われた縄の基部は縄であるのと同じように、それら三つの基部はどれもブラフマンです。マーヤーは鏡であり、ブラフマンがその鏡の中に、人に化身した神、人、そして、自然界として映っているのです。人は自然界を通じてブラフマンを知ることが可能です。ブラフマンは自然界の中に浸透しているか、自然界そのものになりきっています。

神は神の言葉を通じて知られ得る

蛇〔実は縄〕は心の産物です。外側の世界は内側の世界の創造物です。ブラフマンが一切として自らを顕現しているのです。もとの物体がなければ、どうやってその似姿が思い浮かぶでしょう? 子供のいない人が、どうやって父親になれるでしょう? 神は世界を創造しました。世界は神に「創造主」の栄光を授けました。人は、自らの切望と想像力と専心によって、神に姿と名前を持たせ、さらには、自分がそれによって恩恵を与りたいと望む属性を山ほど持たせました。けれども、神は人間の有するグナと呼ばれる特色や特質をはるかに超越しています。クリシュナは、バガヴァッドギーターの中で、「私はどんな行動にも携わる必要はない。しかし、それでも私は世界と世界の住人の安寧のために忙しく行為をしているのだ」と、アルジュナに言いました。神は自らの行為を通じて知られることができるのです。ギーターは各章をヨーガと呼んでいます。ヨーガとは結合を意味します。自らと自らの源との結合です。それぞれがヨーガであるギーターの18の章は、どのようにして人が運命を成就する手助けをしているのでしょう? その答えはギーターが提示しています。

サマットワム ヨーガム ウッチヤテー
〔ヨーガとは平等(平等心/平等観/平衡感覚/不動心)を意味する〕

〔バガヴァッドギーター2章48節より〕

サマットワム(平等)の達成は5つの領域に分類することができます。

行動の5つの領域におけるサマットワム

(1)自然界の浮き沈み(プラクリティカ)の領域

夏と冬の両方を歓迎しなければいけません。なぜなら、どちらも生きていく過程において不可欠なものだからです。季節の移り変わりは、人をタフに、そして、優しくさせます。生まれることと死ぬことは、どちらも自然な出来事です。人は生死の理由を見出せません。生死は、ただ起こります。人は自分がこうむった怪我や損失に対して、誰かを責めたり出来事を非難したりしますが、本当の原因は本人のカルマ(行為)にあります。事の背景を知った時、その衝撃は弱まるか、あるいは、無となることさえできます。

(2)社会の浮き沈みの領域

称賛と非難、敬意と軽蔑、利益と損失といった、自分がその中で成長し、その中で奮闘している社会からの反応や応答を、平等心で歓迎しなければいけません。不運同様、幸運も、人の平等観への挑戦です。

(3)知識とその浮き沈みの領域

知識の頂点という、人が広大な見せかけとなった唯一者を経験する場、に到達するまでは、求道者に道を誤らせる多くの誘惑や障害物があります。学生は概して、へとへとになって疲れを感じた時、あるいは、もう自分は頂上に着いたと思った時、登ることをやめてしまいがちです。ギーターは、パンディト〔学僧〕あるいは識者は、サマダルシ、すなわち一切の生き物の中に同じ唯一者を認識することに達した人である、と定義しています。グニャーニ(英知者)は、唯一者はすべてのものの真実であるということを確信し、その確信によって自分の思考と言葉と行動が導かれる時に、サマットワム(平等)を獲得します。

(4)信愛とその浮き沈みの領域

ここでも、内紛や狂信、偏見や迫害が、かなりあります。これらは、唯一者、すなわち人々がさまざまな儀式儀礼や流儀や方法で崇めている神、はすべて同一であることへの無知から生じます。一なる神がいるだけであり、神は遍在です。

(5)行動とその浮き沈みの領域

これは、目的を神格化することによって聖化することができます。仕事が礼拝へと昇華される時、敗北と失意があなたを落胆させることはなくなります。成功が慢心を助長することはなくなり、逆に、謙虚さと恩寵への感謝を抱かせるようになります。社会に対して当然なすべきこととして、義務として行われた仕事は、喜びという報酬をもたらします。なぜなら、その時、私たちは神から授けられた知識と技能を、社会を通じて、社会それ自体に奉仕するために役立てたからです。

サマットワム(平等)は人生を甘く明るくすることができますが、それは、ラーダーと彼女のクリシュナへの信愛によって、最もよく体現されています。それは、川と海、個我と普遍我、アートマとパラマートマは一つであることの気づきです。源に到達することは運命です。着実に、真っ直ぐに源へ向かって流れていくことは、信愛です。別離の心痛、無視されることから生じる苦痛、障害を乗り越えたいという切望、黙想の喜び、忘我という恍惚――これらは、最終的に、ラーダーにラーダーの主クリシュナとの究極の同一化をもたらしました。

ジャヤデーヴァによるラーダー バクティの描写

オリッサ州の偉大な神秘主義者であり詩人でもあったジャヤデーヴァによる、ゴーヴィンダ〔クリシュナ神〕の詩篇『ギータ ゴーヴィンダ』は、多様に表されたラーダーのバクティ〔信愛〕を描いた不朽の名作です。ジャヤデーヴァがそれを魅力的に、鮮明に表現し得たあまり、田畑で農具を操る男さえもがその詩を歌い、ハートを聖なる歓喜で満たしたのでした。その土地の統治者であったラクシュマナ セーナ王は、嫉妬にかられて同じような詩篇を作り上げ、国民に、聖地プリーのジャガンナート大寺院を含む国中の寺院でジャヤデーヴァの作品の代わりにそれを歌うように、と命じました。ところが、皆の反対にあい、王は〔神の審判を仰ごうと〕ジャガンナータ神〔の像〕の足元に二冊の本を置き、本殿に鍵をかけ、一晩中、厳重な見張りをつけました。夜が明けて本殿の扉が開かれた時、王は、ジャガンナータ神の像の手の中にはジャヤデーヴァの『ギータ ゴーヴィンダ』があり、嫉妬とプライドによって書かれた自分の本は遠くの隅に投げ捨てられていたのを見たのでした。神は外側の虚栄にではなく内側の清らかさに恩寵を注ぐ、ということをジャガンナータ神は示したのです。

人が平等心を確立した時、クリシュナはその人のハートに腰を据えます。クリシュナの声は、その人の一歩一歩を導く良心の声となります。ヨーガを通じて、忍耐力が得られなければなりません。ジャパを通じて、感覚器官の制御が得られなければなりません。サーダナを通じて、心が平安に満たされるべきです。しかし、原因となるものが実践されても、結果は目に見えてわかるわけではありません。人々は、祭壇のある部屋にこもってプージャーをし、花や果物を供え、しばらくしてその部屋から出てきますが、結局、ありとあらゆる人を怒鳴りつけ、ののしり、脅し、喧嘩をする始末です。「サタタム ヨーギナハ」――どんな状況の下でも、人はつねにヨーギであらねばならない、とギーターは述べています。この意味は、そのような人はずっと至福でいる、ということです。神を信じることが、平等観と平衡を確実なものにすることができます。知識はスキル(技能skill)へと発展しなければいけません。スキルは、平衡感覚によって監督され、管理されなければいけません。さもなければ、スキルはキル(殺しkill)へと堕落してしまいます。

サマットワムのための教養

ここに集まっている人の中には、知識とスキルを求めて大学に入った者が大勢います。その人たちは、アートマへの信心が英知という最高の知識を授けてくれるよう、自分の中に住んでいるアートマを知る努力をしなければいけません。今、知識の探求者たちは、自分が思っている自分と、他人が思っている自分だけを気にかけて、本当の自分を純粋に探求することをないがしろにいます。そのために、自分が自分の敵になっています! 彼らは心配と恐れと惨めさの渦に捕らえられています。彼らは、目に見える、取るに足りないピカピカ光る安物に魅了されています。彼らは目に見えるものを何でも信用し、人生を奮闘し、成功し、失うことで無駄にしています。パシュ(動物)とは、パシヤティ(見えるもの)に信用を置く者に与えられた名前です。人々は「私は安らぎが欲しい」とやかましく言い立てますが、「私」(エゴ/我執)と「欲しい」(欲望)を捨てません。それでどうして「安らぎ」(peace)が得られるでしょう? それでは「ばらばら」(pieces)の状態に陥るだけです。

教養それ自体があなたにアートマの至福を授けることはできませんが、あなたは世界を救うために教養を得ることはできます。教養は、銀行手形の束を毎月手に入れるために用いるものでも、自分本位の楽しみのために用いるものでもありません。教え学ぶというプロセスを、教師が学んだことを吐き出して、生徒がその吐き出されたものを食べる、といったようなものに低下させるべきではありません。教え学ぶプロセスは、創造力のある、ポジティブで、生産的なものであるべきです。

この国では、何千万ルピーものお金が研究費に使われています。そうした研究で得られたことの価値を測ってみたところ、研究費は無駄に使われたと言わざるを得ない、という判定が下されました。研究に携わっている人たちは、自分が使った研究費を何千倍にもして国に返せるよう努めなければいけません。そうしないなら、それは反逆罪にも等しいことです。

バララーマとクリシュナの鋤と牛

クリシュナ神と兄のバララーマによって人類の前に置かれた理想について考えてみなさい。バララーマは鋤(すき)を愛用の武器として持っていました。鋤は破壊するための武器ではなく、食物を生産するための農具です。クリシュナは家畜の牛の世話をしましたが、同様に、牛は、土を耕すことから収穫後の作物の運搬に至るまで、あらゆる農作業に不可欠なものです。これらがあなた方に伝えているメッセージは、生産しなさい、自分の知識を実践に移し、必要不可欠で人を向上させる必需品、たとえば、家具、農具、学校の備品、家の建材、衣類の布、等々を生産しなさい、というものです。つねに、こう自問しなさい。「私は、人類同胞が幸せに暮らせるように、何らかの貢献をしただろうか?」と。あなたのハートを広げなさい。あなたの愛がもっともっと人類同胞を包み込むようにさせなさい。その中には神性が横たわっています。

今の数年は、あなた方がもっと有効に時間を使わなければならない時です。教師は知識を深め、それを教え子に分かち合うことで、その知識を発展させなさい。生徒はその知識を受け取って、大切に保管し、実践に移すことによって、それを広めなければなりません。

母国を誇りに思いなさい

自分自身のためにアーナンダ(至福)を得なさい。国の繁栄と世界の平和を促進しなさい。母国の福利と進歩を他者に依存すべきではありません。誇りを持って、恐れることなく、「これは私の母語です。ここは私の母国です。私は母国に仕え、母国を敬います。私は自分に受け継がれた伝承を守り、促進します」と明言しなさい。

クリシュナという名前の意味は、魅了する者、ハートの土地を耕す者、つねに至福でいる者、というものです。学生諸君はこのことを心に留めておかなければなりません。クリシュナは人々を自分のいるところに引き寄せて、人々の傷を負った不毛のハートに愛の種を撒き、愛を成長させ、愛を収穫し、至高の喜びを授けます。バララーマはブーマータ(母なる大地)に献身するようにと要求し、クリシュナはゴーマータ(母なる牛)に献身するようにと要求します。二人は、農業、つまり食物を供給するプロセスを、神聖なサーダナ(霊性修行)のレベルへと引き上げました。

手厚い援助を受けていた宮廷詩人のシュリーナータは、宮廷の召し使いたちの背負う輿に乗せられて自宅に戻ってきました。シュリーナータは、不朽の叙事詩『バーガヴァタム』のテルグ語での執筆者であるポータナの息子が小さな私有地を耕しているのを目にしました。シュリーナータは息子をあざ笑い、「百姓!」と声をかけました。すると息子はこう返答しました。「それはあなたの職業よりもずっと気高い職業だ。人にこびへつらって、人が自分の手のひらの上に載せてくれる食べ物で生きる物乞いという職業よりも」、と。

自尊心を保ちなさい。自信を強めなさい。声に出してこう言いなさい。「これは私のバーラタ(インド)だ。バーラタの国民は私の兄弟だ」、と。クリシュナはゴーパーラ〔牛を守る者〕として礼拝されます。「ゴー」〔牛〕という語は、ジーヴィ(生き物)を意味しています。ですから、あなたが人類同胞や他の生き物に、無私の愛と全くの思いやりの気持ちで奉仕する時、あなたはクリシュナに、クリシュナが何よりも喜んで完全なる恩寵をもって受け取る礼拝を捧げているのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C19

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