サイババの御言葉:「私」から「私たち」へ

日付:1986年1月15日・場所:アナンタプルのサティヤ サイ女子大学
サティヤ サイ女子大学での御講話より

「私」から「私たち」へ


学識は増えたが、欲望もまた増えている!
ヒーロー(英雄)のように語り、ゼロ(虫けら)のように行動する
そうであれば、知能はいったい何の役に立つのか?
愛する者たちよ、わずかなりとも実践せよ!

現代の教育は知能を高める
しかし、徳はほんの少しも養われない!
どれほど多くの学問を習得しても、
徳がないなら、それが何の役に立つのか?

なぜ神を探して苦闘するのか?
神(イーシュワラ)はまさにハートの中にいるというのに!
奉仕をし、愛(至福)を受け取り、アートマの原理を体験せよ!


女子学生の皆さん、教師の皆さん、教育者の皆さん!

科学的知識が増えるにつれ、人は自分の主である神を忘れます。現代の研究室では、人間性は忘れられ、科学的側面だけが養われています。聖なる神性は完全に無視されています。これは教育の道を外れています。教育の目的は人を思いやりのある人間にすることであるという事実が、完全に忘れられています。利己的で自己中心的な追求に一生を投じるのは人間のダルマではありません。それでは神聖な人間性を捨てることになります。人間は月に着陸したと得意がっていますが、この世界のあらゆる生物と無生物の美と壮大さに目を向けてごらんなさい。この世界から引き出すことのできる喜びは、月に着陸する喜びよりもはるかに優れています。

教育は真の栄光へと導かねばならない

人間の中の神性が認識されないなら、その教育は本物ではありません。教養のある人の主だった特質は、無私無欲、謙虚さ、純真さです。人々は終わりのない調査に従事しています。にもかかわらず、どの分野であれ、ほとんど何も知らないというのが異論のない事実です。調査という面は増していますが、認識という面は減少しています。これはエゴ〔我執/アハンカーラ〕を膨らませます。人間性はエゴが破壊された時に初めて神性を獲得することができます。私たちは、木々や動物や鳥たちが、数多くの無欲な方法で人間を助けているのを見出します。しかし、人間はあまりにも利己的になり、自分の一族、両親、教師をあざむき、神さえもあざむいています。人間は、真理、美徳、愛、平安を持つことを誇りとしますが、実践面では、まるで正反対の振る舞いをしています。

人間は、自分のあらゆる追求が、つまらないものを獲得することや、つまらない栄光に集中しているという事実を自覚できていません。人間は自分が他人に敬われることを切望しますが、自分はまったく他人への敬意を抱いていません。この根本的な原因は何でしょう? 無知が根本原因です。無知は、無法、欺瞞、無関心、非真によって人間性に覆いをかけています。プラグニャーナム〔覚醒意識/至高の英知〕という太陽は、無知が破壊された時に光を放ちます。ですから、人間はエゴを破壊するよう努力し、自分自身を真の人間に作り変えるために霊的学習に着手しなければなりません。これが真の教育です。知識というものは、さまざまな学科や学問に関する文献を学ぶことに限定されるわけではありません。人格を育成することの真の意味は、真の人間へと育成することです。これが知識の追求の内的意義です。教育はハートの拡大をもたらさねばなりません。ハートの神聖さはあらゆる良い性質の基盤です。

愛はどこにありますか? 愛はまさしく私たちのハートの中にあります。家族の一人ひとりがハートの中の愛を高めようとしなければなりません。このプロセスは、村に、それから国に、そして最後に人類全体に広げられなくてはなりません。学生は皆、セヴァ(無私の奉仕)に参加して、社会に愛と神性の原理を広めなくてはなりません。すべての人が、

イーシャヴァースヤム イダム サルヴァム
神は万物に満ちている


という真理を悟るべきです。利己主義は恐るべき悪魔のように支配権を振るっています。これは社会にとって何の益もありません。教育の目的は人を「私」から「私たち」へと連れて行くことです。

教育は、拡大と神聖さを映し出すべきであり、真理を育てるべきです。神性の原理は、世間の教育や知性や科学的知識では認識することができません。海は物差しで測れるかもしれませんが、神性の深さを測ろうと試みるのは完全に無駄なことです。神性の原理は、基準や比較の理解の範囲を超えています。比較や評価という事柄は、姿形、実体、名前があってこそ生じます。しかし、アートマの原理は、無属性で、冷静で、永遠で、理由がなく、根本的なものであり、つねに誠実で、至高の知性であり、解脱した、汚れなきものです。それゆえ、この原理には基準を定めることができないのです。万人はそれを自分のハートの中で認識するよう努力し、内なる目を育くむべきです。そうすることにより、社会を発展させるために必要不可欠な力を手に入れなくてはなりません。

エゴは不名誉を招く

個人とは何を意味するのでしょうか? 個としての人間の特徴とは、最終目的地に関する真理を悟ることです。真の個人とは、自らの行為、振る舞い、態度を通して、内なる神性を詳細に説明できる人です。すべての人は、これを成し遂げる努力をし、自分の個性や人格を十分に発揮しなければなりません。「ペルソナ」〔人〕という言葉の意味の一つに、神性の火花というものがあります。イエス・キリストはペルソナと呼ばれています。聖書でクエスト〔探求〕と呼ばれているものは、ヴェーダの用語ではサーダナ(霊性修行)と呼ばれています。

霊性教育は、あなたの自己犠牲の力、ヨーガの力、問題に取り組む能力(プラグニャー)を強めます。人間は完全にこのことを軽視しています。皆さんが知るべき二つの重要な面があります。一つは目標、もう一つは最終目的地です。激しい努力をした後、人は真の目的地を知ります。正しい見解で目的地を知った後、人は容易で安全な方法で最終目的地に到達するために、正しい「目標」を持たなければなりません。この点において、すべての人は、「私は誰か?」と自問しなければなりません。

識別心のない科学、常識のない学識、旋律のない音楽、感謝のない友情、信用のない社会は無益であり、有害ですらあります。今日、人間は熱に浮かされたように速いペースで物質化学を追いかけていますが、その影響力をまったく制御できずにいます。識別心に欠ける科学は危険です。プラグマティズム(実用主義)には科学的な思考が伴うべきです。科学的知識には識別心が伴うべきであり、識別心には寛容がつき従うべきであり、寛容には謙虚さが伴うべきです。

人間の真の研究対象は「人間」です。思いと言葉と行動に一貫性がなければ、それは人間性(ヒューマニズム)とは言えません。それは「猿性」(モンキーイズム)〔造語〕と呼んでもよいでしょう。人間は、自分の思いと言葉と行動の一致を実践することで人間性を保たなければなりません。現代人はあらゆる物質の特性を研究し調査しています。しかし、悲しいかな、人間的な価値を研究できていません。最初にその価値を認識できていなければ、どうやってその実践と進歩という仕事に取りかかることができますか?

最も基本となる重要な価値は、真理(真実)、正義、平安、愛、非暴力です。愛が人生の絶え間ない流れとなった時にのみ、他の価値も育まれるのです。行動における愛は正義となり、思考と黙想における愛は真理となります。ハートの中に愛が満ちあふれて、ハートの中で愛が体験される時、それは平安となります。そして、愛が正しく理解される時、それは「非暴力」となります。愛はこれらすべての価値の内に流れる小川です。愛が無視されて利己心が育っているために、人間性が低いレベルにまで減少しているのです。利己心を手放した時にのみ神性は理解され、それによって真理を把握することができます。

不名誉と恥はエゴのせいでもたらされます。エゴはこの二つ以外の何も達成しません。皆さんは、エゴを取り除き、シンプルな生活を送り、社会奉仕に身を投じなくてはなりません。小さな奉仕でさえ大きな力となる潜在力を持っています。

バーラタ文化は人知の及ばない真理に満ちています。その内側にある動機は、正義〔ダルマ〕という永遠の原理です。ハートの扉が開かれた場合に限り、人間性がハートの中に入っていくチャンスができます。しかし、人間は物の見方を狭くしつつあります。人間が発明した原爆と水爆は、ただ人間を平和から遠ざけたにすぎません。恐怖が地球を支配しています。今、疑いが高じて、小さなトランジスタ ラジオがあっても爆弾ではないかと騒ぎになって、人々はパニックが引き起こします。人々が引き付けられる物が、実際に恐怖を引き付けていることは明らかです。恐れのなさをもたらしてくれるもの、それは無執着です。無執着という意識によって、あらゆる欲望から距離を置くことができ、そうすることで重荷を減らすことができます。無執着とは家庭を手放して森へ移ることを意味しているのではありません。欲望を取り除くことが本当の無執着です。荷物が少なくなって、もっと気楽になれば、旅はさらに楽しいものとなります。欲望という重荷が抑えられた時にのみ、人生という長旅の不安と恐怖を取り除くことができます。人間は恐れ知らずでなければなりません。神性は恐れを取り除き、勇気と忍耐力を育てます。

いったい誰が、地球に太陽の周囲を絶え間なく回るようにさせているのですか? いったい誰が、種を発芽させているのですか? 種が土の中に蒔かれると、種は二つに分かれ、苗木に成長し、それから木になります。木は実をつけ、そうして種は形成されます。この自然のサイクルは、誰が動かしているのでしょうか? それは木の本性だと科学者は言います。その本性とは何者であり、その能力を与えたのは誰ですか? 科学者はこれらの質問に答えられません。本質的な面は、霊的な教養によってしか理解することはできません。

牛乳の入った壷に白鳥がくちばしを浸けると牛乳の水分が分離することに気づいた人がいました。その後、科学者が白鳥の口には酸の一種があるのだと解説しました。これが、白鳥が水と牛乳を分離できる能力の原因だったのです。別の紳士が、その科学者に無邪気に尋ねました。「白鳥の口の中に酸を置いた人は誰ですか?」と。その科学者は質問に答えられませんでした。この全創造世界の原因は何者なのでしょうか?

あらゆる世界の発生の原因となる御方、
その御方の中で、あらゆる世界は維持されている
パラメーシュワラ(至高神)とは誰なのか?
一切の根本原因は誰なのか?
始まりも、中間も、終わりもない御方、
あらゆる姿形の中に現れている御方、
そのイーシュワラ(主)に、
自らが自らを生み出したその御方に、
加護を祈り奉る


教育を受けた人々は、それほどの存在である神を何とも思わないような話をして、教育と教育界に不名誉をもたらしています。

人間性は、真理が理解され、広められた時にのみ、輝きます。愛の原理は人間性の中で育まれなくてはならず、人間は一体性の中で生きなくてはなりません。一体性に欠けているせいで、どの国もバラバラになっています。古代、バーラタの国は一つの体として留まっていました。

デーホー デーヴァーラヤ プロークトー ジーヴォー デーヴァサナータナハ
体は神殿であり、その中に永遠の魂である神が住んでいる


バーラタの体は、今さまざまな部分に分割され、四肢が切り離されてしまっています。

英知と識別力は教育の副産物であるべきものと考えられています。教育は社会にとって有益でなくてはなりません。家庭では、父、母、年長者は敬意と謙虚さを持って尊重されなくてはなりません。この点において、家族の男性メンバーは多少正道から外れるかもしれませんが、女性メンバーはより大きな忍耐と気遣いを示さなくてはなりません。なぜなら、世界の文化が本当に発展するのは女性を通じてだからです。女性は、自然な霊的性向と謙虚さという点で、長きにわたって名声を保っています。女性たちのおかげでバーラタの文化は自らの古来の基準と実践を維持してきました。ところが、現代では、女性たちは物質的な類の教養に熱狂を示し、霊的、倫理的な面は、はなはだしく軽視しています。お金は誰でも稼ぐことができます。しかし、美徳を手に入れるのは容易なことではありません。真の財産は美徳という財産です。お金は入ってきては出て行きます。道徳は入ってくると成長します。神は財産や虚飾ではなく人間の高潔さと美徳こそを喜びます。

現在は遍在する今

私たちが他の人々を愛する時、その人たちも愛を返してくるでしょう。人々を愛する人は社会から愛されます。したがって、一切は愛の原理にかかっているのです。憎しみが放棄と落胆という結果に帰着するのは言うまでもありません。ですから、皆さんは愛を育て、憎しみを捨てることができなくてはなりません。愛をあらゆる生き物に広げなくてはなりません。

教育を受けた人は、自分の品位を保つよう懸命に努力しなければなりません。教養ある人が不名誉な振る舞いという手段をとる時、社会はそれを痛ましい経験と見ます。動物や鳥たちは、一定の規則正しい生活を守っています。しかし、残念なことに人間は好き勝手にやりたい放題です。この傾向は、きわめて献身的な態度を身につけた今の世代の人々によって逆転されなくてはなりません。人工的な生活とは別れを告げなさい。安っぽい文学作品を読んではなりません。すべての人が、ラーマーヤナ、マハーバーラタ、バーガヴァタム、ウパニシャッド、聖書、コーラン等の神聖な文献に精通していなければなりません。人間は自らのアートマ原理を悟らなければなりません。

カルマの法則とは、何であれ自分がしたことは何らかの形で自分にはね返ってくるということです。年老いた人は過去の生活のことばかり考えて不必要なことを後悔し、若い人は未来の夢ばかり見て現在の幸せを壊しています。すべての人が、現在を生きる習慣を身に付けなくてはなりません。現在はただの現在(present)ではありません。現在は遍在する今(omnipresent)なのです。これは皆さんがつねに肝に銘じていなければならないことです。

現在は、ぐずぐず引き延ばされたり、軽視されたりすべきではありません。時間は神です。今のこの現在を、神聖な思考と言葉と行いをして過ごしなさい。今日食べる食べ物は今日の飢えを拭い去ってくれることになりますが、明日の飢えを取り除くことや、昨日の飢えを埋め合わせることはしません。かつての種は、今や木に成長しました。将来、その木は実をつけるでしょう。今日することは、未来のための踏み石です。ですから、少年少女は、幸福で安全な未来のために、正しい王道の上に自らの基盤を据えなくてはなりません。そして、高潔な人生を送るよう努力しなければなりません。教師は模範的かつ理想的に振る舞うべきです。

バーラタという国は、ヨーガ ブーミすなわちヨーガの国、カルマ ブーミすなわち霊的行為の国、そして、霊性の国家として賛美されてきました。ところが、人々はその国をボーガの国、すなわち享楽の国に変えようとしています。ボーガ(享楽)は、ローガすなわち病気をもたらすだけです。反対に、「ティヤーガ」、すなわち手放すことは、永続する幸福をもたらします。

ティヤーゲーナイケー アムルタットワ マーナシュフ
不滅は手放すことよってのみ得られる

〔ヴェーダ「ナ カルマナー」より〕

と言われています。皆さんは両親と社会のために犠牲を払う覚悟がなくてはなりません。皆さんの無私の奉仕が両親の魂に触れなくてはなりません。

女子学生の皆さん!

あなたの血液、食べ物、頭は、すべてあなたの両親からの贈り物です。この事実を決して忘れてはなりません。もし、あなたが感謝を示さなかったり、両親に必要な援助を施さなかったりするなら、あなたの食べる食べ物、あなたの体を流れる血液、あなたが使っている頭は完全に無益です。これらの贈り物はすべて、あなたが愛の行為と不断の奉仕を通じて感謝を示す時にのみ清められます。あなたの知性、体力、親切な言葉は、それらを通してあなたが両親と社会に恩義を返す三本柱です。皆さんはさらに一歩進んで、その三つのエネルギーを使ってバーラタ文化を活性化させるために努力しなければなりません。

思いと言葉と行いの一致を習得することは必要不可欠です。単一性は神性をあきらかにします。神性はどこか遠い場所で手に入るものだと考えてはなりません。神性は私たちの周りに、私たちの内に存在しています。風が目に見えないのと同じように、神性も目には見えなくとも存在しているのです。神性は、あなたの中に、あなたと共に、あなたの上に、あなたの周りに、あなたの下にあります。内を見る目が十分に育っていないため、あなたは肉眼で神性を見ることができないのです。人々は外界の対象物と楽しみを追い求めていますが、創造者を追い求めてはいません! 神は遍在であるというのに、人々が神を見つけられないのは皮肉なことです。蜃気楼を水と間違えて追いかけて、ついには死に至る動物たちもいます。それと同様に、人々は、富、車、その他のこの世の快適さを追いかけて、その過程で永遠の至福を見失っています。

人間は「マーナヴァ」と呼ばれます。「マ」は「無知」、「ナ」は「〜を有せずに」、「ヴァ」は「行動する」という意味です。これは、「無知を有せずに行動する者が人間である」ということです。教育は、この面が成し遂げられた時にのみ、実りあるものと見なされることができます。

自信は至福をもたらす

植物学を勉強する時、皆さんは人間の立場から見なくてはなりません。

体は木のようなもの
その木の大きな枝や小さな枝は、友人や親戚の人のようなもの
私の思いはその木の花のようなもの
私の知性はその木になる果実
私の人格はその甘い果汁
私の自信は、私の体というこの木の根っこのようなもの
木のてっぺんには果実、底には根っこ
これらがなければ、人生という木は厄介なお荷物


ですから、人格は人生の果実と見なさなくてはなりません。自信〔真我への信頼〕は人生の基盤です。自信がなければ何一つ達成することはできません。

自信があるところには愛がある
愛があるところには平安がある
平安があるところには真理がある
真理があるところには至福がある
至福があるところには神がいる


ああ、女子学生の皆さん!

第一に必要なのは五つの感覚器官を抑制し、訓練することです。悪いものを見ず、悪いことを聞かず、悪いことを考えず、悪いことをせず、悪いことを話さない。善いものを見て、善いことを話す。――これが神への道です。この真理を悟らなければなりません。

カラスは、「カー、カー、カー」と鳴き続けます。(「カー」はテルグ語で「加護を祈る」という意味であり、カラスは「おお神様! 私をお守りください」と鳴いているということ) この点では、ちっとも神のことを考えない人間よりもカラスのほうが優れています。カラスにも無私と社会的良心という性質が授かっています。カラスは何か美味しいものを見つけても、急いで飛びつくことはありません。カラスは群れのことを考えて、食べ物を分かち合うために「カー、カー、カー」と鳴いて群れを呼びます。カラスは自分を群れの一部と考えているのです。カラスは一体性と無私の手本を示しています。

蟻は決して一匹でものを食べることはありません。蟻は巣にいる仲間たち皆が餌に集まって来るまで落ち着きません。蟻は自分の幸せを仲間と分かち合うのです。これは素晴らしい平等感です。だからこそ、ティヤーガラージャは次のように歌いました。

「おおラーマ! あなたはブラフマー神、シヴァ神、ケーシャヴァ神の中だけでなく、蟻の中にもおわします!」

ティヤーガラージャはこの歌によって、神は蟻からブラフマー神にいたるまであらゆる生き物の中に存在する、という真理を表現しました。

皆さんの多くは毎日瞑想に座っています。インドの家庭では、瞑想のための聖所は台所に隣接しているのが一般的です。これは、食物が身体のためにあるように瞑想は頭のためにある、という事実を思い出させます。皆さんはつねにこのことを心に留めておかなくてはなりません。食物が身体を育むように、瞑想は知性を向上させます。もし人が知性を気にかけず身体だけを育むなら、最終的な結果は悲惨なものになります。瞑想は理智を育て、科学は知能を育て、食べ物は身体を育てます。ジャパ、タパ(苦行)、ヤグニャ(供犠)、バジャン等は、ハートを広げます。それらのどれも軽視してはなりません。

バジャンをしている最中に、独りよがりな自己満足に陥ってはなりません。バジャンを面白おかしい催しであるとか、儀式であると見なしてはなりません。曲の調子、拍子、旋律、歌詞の背後にある思想や意味を、注意深くなぞらなければなりません。真心を込めてなぞるなら、バジャンはその人の中核を一変させる神聖な至福へと連れて行きます。

諸宗教の基盤は何の違いもありません。すべては一つです。求道者は、神性を実感認識するために、自分自身の心(マインド)を探求しなければなりません。宗教の外面に神を探し求めても無意味です。それぞれの宗教は一定の規則と規律に従っています。しかし、神は一切の規則や規律や哲学を超えています。神は何にも束縛されません。ですから、どの宗教にも、神の姿形、神の本質、神の意志はこれこれこういうものだといって、固定観念や絶対的な観念を当然のこととして決めてかかる自由はないのです。とはいえ、すべての宗教は一定の限度と規律の範囲内で機能しなくてはなりません。

求道者たちは、キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、ゾロアスター教、あるいは何か他の宗教に属しているでしょう。しかし、礼拝方法は多様でも神は一つである、ということを認識しなければなりません。実際、神は宗教の中にはいません。神はあなたのハートの中にいます。この真理を認識している人こそが、宗教の真の信徒です。

すべての宗教は善いことだけを教えている!
人はこの理解の光の中で行為しなければならない!
心が善良であるなら、悪い宗教などあろうか?
よく聞きなさい、おおバーラタの勇敢な少女たちよ!

人格は良い人間である証書

皆さんは心(マインド)を清らかに保たなければなりません。神聖な時間を無駄にすることなく、一心に無私の奉仕に従事しなくてはなりません。ただ一つの人種があるだけであり、それは人類という人種です。肌の色、風習、言語、姿形は違っているでしょう。しかし、万人は一つの家族に属しています。それは人類という家族です! 人類という家族の父親は誰でしょう? それは神です。父親が忘れられるなら、どうして家族があり得るでしょう? すべての人は、つねにこの父親を心に保ちつつ日常の務めを果たさなくてはなりません。教育の最も重要な目的は、この義務、この理想、この秘儀、この最終目的地を教えることにあります。すべての努力は、まさにこの最終目的地に焦点を合わせなければなりません。

女子学生の皆さん!

大学や寄宿寮を出ると、皆さんは社会で多くのネガティブな力に出会います。社会の状況を改善するためには、皆さん全員が力強いポジティブな力を育て、理想的な模範を示さなければなりません。皆さんは、この方向で正しい基盤を据えなければなりません。

ここは私の母国
これは私の愛する母語、これは私の宗教!
堂々とこのように言えない人間が、誰か地上にいただろうか?


臆病者のようになってはいけません。勇気を強め、真理の探求に着手しなさい。皆さんは、このような神聖な人生を送る決意を固めなくてはなりません。善良な人間の証書である人格を育てなさい。人格がなければ人生は無益です。教育の最終目的は人格です。良い評判は命よりも貴重です。良い評判を得られない一生は、カラスの一生と同等です。カラスとカッコウの違いは何でしょう? カッコウの声がきれいなので、私たちはカッコウが大好きなのです。他人がある人物についてどう思うかは、その人物が話す言葉に基づいて形作られる、ということを覚えておかなくてはなりません。あなたの語る良い言葉は、あなたが周りの人から慕われるようにしてくれます。いつでも人に親切にすることはできないかもしれませんが、いつでも親切に話すことはできます。良いことを話しなさい。良いことをしなさい。そのような人はどの国にとっても財産です。

皆さんがこの大学で学んだことから少なくとも二つか三つのことを実践するなら、ここで過ごした時間は価値あるものになります。人々は、サティヤ サイ大学は出家者と称賛者を養成しているという印象を持っているかもしれません。善人は、どんな名前で呼ぼうとも、いつの時でも社会にとって真の財産です。世間では高潔な原理はめったに手に入りません。あなたが正しい道にいる時、他の人たちの意見を気にする必要はありません。神に仕えること――この神聖な原理が皆さんの教育の基盤を形成していなければなりません。神は維持者です。神は道です。神は照覧者です!

ああ、至福に満ちたサイ ラーマ!
あなたは涙を創り出し、あなたは涙をぬぐい去る!
あなたは修道者を道楽者に変え、あなたは道楽者を修道者に変える!
ああ、神性の炎よ! ああ、なんというラーマよ!


神は涙を創り出し、涙をぬぐい去ります! 何のために? 神は人々が神の姿を求めて泣くように涙を創ったのです。神は世俗的な問題の結果である涙をぬぐい去ります。神は修道者を道楽者に変え、道楽者を修道者に変えます。普通の人は裕福な人に嫉妬を感じます。しかし、実際には、裕福な人々はつねにあらゆる類の心配ごとでいっぱいです。ですから、富は一種の病気なのです。裕福な人がヨーギ〔ヨーガ行者〕になるのは大変難しいことです。裕福な人はいつも、稼いだものを保持することや、政府の強制捜査のことなどを心配しています。

本物の至福と喜びは、自分自身の中と自分の見る一切の中に神性を見るヨーギによって楽しまれます。ヨーガ〔神との合一のための行〕はティヤーガ〔手放すこと/捨離〕と密接に結びついています。ティヤーガとヨーガによって獲得された神聖な感情と平安は、他のどこにも見つけることはできません。私は物質を学ぶことに反対しているわけではありません。それらは確かに必要です。世俗の知識がなければ、この世で生きるのは難しくなります。しかし、それと同時に、神聖な感情と神聖な性質を育てることのほうがより重要です。

アンタル バヒシチャ タット サルヴァム
ヴィヤーピャ ナーラーヤナ スティタハ
ナーラーヤナ神は万物の内にも外にも存在している

〔ヴェーダ「ナーラーヤナ スークタム」より〕

外側のものは物質に関する教育を通じて理解されなくてはなりませんが、内在者はヨーガを通じて悟られなければなりません。皆さん全員が人生においてこの二つの面を成就できるよう祝福して、私の講話を終えることにします。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women’s Role C26

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