サイババの御言葉:真実と信仰

日付:1986年12月25日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
クリスマスの御講話より

真実と信仰


サッティヤム(真実/真理)、グニャーナム(英知)、アナンタム(始まりも終わりもない/永遠)、ブラフマー(神)。神はまず空(くう/空間)として現れました。空が具体的な形を取って風(大気)となりました。大気から、暖かさとエネルギーを特徴とする火が生まれ、火が水を生み、水から固体、すなわち地が生まれました。地には植物が育ち、人間は食物で養われました。この連鎖は人と神を結び付け、人間を自らの根源へと絶えず引っ張っています。

食物によって養われている人間の肉体は、微細な心の鞘(さや)〔心理鞘〕と、それよりさらに微細な理知の鞘〔理知鞘〕を包み、理知の鞘は、よりいっそう微細な歓喜の鞘〔歓喜鞘〕を包んでいます。歓喜は最も深い喜びであって、それが人間の最も深い衝動となっています。食物に依存している、目に見える粗大な肉体から、目に見えない生気鞘、意思鞘〔心理鞘〕、理知鞘へと進み、中核の歓喜鞘に到達することが、人間という存在の最高善なのです。

人間以外の生き物は、主に食物鞘、生気鞘、意思鞘〔心理鞘〕のみに関心をもっています。彼らには、心の気まぐれや、様々な意志や、心に蓄積された記憶を超越する能力がありません。人間以外の生き物は、有害で空虚なものを識別して捨てることを可能にする理知によってではなく、本能や衝動によって駆り立てられています。人間だけが、理知という機能を働かせて、自分を至福へと導く一連の行為を選択することができるのです。

広い視野を培う必要性が大であること

ところが、人間は、理知の機能を使ったり、その恩恵を受けたりすることがほとんどありません。人は、至福を勝ち得る代わりに、増大する一方の欲望の迷路に迷い込んで、欲求不満と落胆の餌食になっています。人は、至福(アーナンダ)を得るための備えがあり、それを手に入れる資格があるにもかかわらず、至福は逃げてしまいます。至福は神です。荒れ狂う世俗の流れの虜(とりこ)となって、人は、生来の魂の飢えや、内在の神を自覚する必要性を無視して、それを忘れています。

一つの国や社会の運命は、人々の道徳心の強さにかかっています。人格は、信仰と真実に深く根ざしたものであるべきです。真実は、思いと言葉と行動の一致として示されなければなりません。イエスは、その教えの中で、信仰の重要性と、偽善のもたらす危害を説きました。両手を合わせて挨拶をすることは、その人の思いと言葉を捧げることを表す行為です。(イスラム教徒の間で行われる)「サラーム」という挨拶も、思いと言葉と行動を全託することを象徴しています。

キリストは、神は全能にして遍在の、唯一無二の存在であると宣言しました。キリストの教えを普遍的な観点から解釈し、理解して、それを守らなければなりません。キリスト以外はすべて排除するような態度で、この神の概念を狭めるべきではありません。それぞれの人種や宗教が個々の単位となり、その一つひとつが切り離されている今日の世界において、広い視野と寛大な態度を培うことが大いに必要になっています。視野の狭い忠誠心は摩擦と対立を生みます。これがイエスの中心的なメッセージです。そのメッセージは段階を追ってイエスの中で育っていきました。初めのうち、イエスは、自分を単なる神のメッセンジャーとしてしか見ていませんでした。そのうちに、神との関係がより緊密になって来たことを感じて、自分は神の息子であると公言しました。真我への接触と瞑想を通じて真我の自覚が育つにつれて、イエスは、自分が神と一つであることを自覚し、「私と父とは一つである」と言えるようになりました。

愛の道は神との融合の手段

イエスは、最も優れた弟子のひとりであったペテロに、愛こそが神であるから、愛に生きるようにと勧めました。人は、見返りに何も求めず、感謝すらも求めない愛、そのまま犠牲と奉仕にもなっている愛を体現したときに、初めて神を体験することができます。ペテロは、主からそのような教えを聞いているとき、新しい喜びが自分の内に湧きあがって来るのを感じ、「喜び」(JOY)という言葉に新しい意味を見出しました。「J」は、「イエス」(Jesus)を意味します。ペテロはそれを、文字の並びから、イエスを第一に愛するようにと受け止めました。「O」は「他の人々」(Others)を意味し、イエスの次に愛さなければなりません。「Y」は「あなた自身」(You)のことで、自分を最後に愛するようにしなければなりません。しかし、今の人間の状況をごらんなさい。人は、まず自分を愛し、次に他者を愛し、イエスは一番後回しになっています!

神が心を占めるとき、心の産物にすぎない客観世界や自然界はその正当性を失い、大海の波である人間は、その源の中で消えてしまいます。個別の自己と普遍的な真我とが一体性の内に融合します。すべての宗教は、神と自然と人間に関するこの根本的な真実を提示しています。すべての教義が、本質的には、この事実と、融合の手段としての愛を強調しているのです。ですから、私たちはすべての教義と宗教を尊敬しなければなりません。それらは、普遍的な絶対者に到る多くの道に沿って旅人を導く光の燈台です。

犠牲を払う機会を歓迎しなさい

カルマ(行為)、バクティ(神への愛)、グニャーナ(英知)という三つの主要な道が知られています。この国には、谷や平野に活力のもとを運ぶ水路として、ゴーダーヴァリー川、クリシュナー川、カーヴェーリー川などのような多くの河川が流れています。このうちのガンジス川(ガンガー)、ヤムナー川、サラスワティー川が、昔から神実現(神我顕現)に向かう三つの霊的な道を象徴しています。ガンジス川はニシカーマ カルマ、すなわちカルマ ヨーガ(無私の行為/行為によって神と合一する行)を象徴しています。ヤムナー川は、神の愛の栄光、すなわちバクティの道を示しています。目に見えず地下を流れるサラスワティー川は、グニャーナ マールガ(英知の道)、すなわち、絶え間なく実在を探求する道を象徴しています。探求の目標は、多様に見えるものの一体性という、唯一無二の実在を発見すること、すなわち、不二一元のビジョン、英知、なのです。この三本の河川の合流点は、バーラタのすべての子どもたちにとって、自分自身に対する三つの義務を要約しています。それは、人類同胞に対する私心のない奉仕、神への貢献とバクティ、ならびに、多として顕現している唯一者を絶えず自覚するようになることであり、これらの義務は避けることができません。

体は神の神殿です。したがって、私たちの体は、病気や災難に苦しめられることなく維持されなければなりません。体は、利己的な気まぐれを満足させるために人間に与えられたものではありません。イエスは、他者を救うために自らの体を捧げることによって、それを聖化しました。イエスは、その至高の目的と義務を意識していました。人類が一つであることを信じて、イエスは敵対者や批判者たちにひるむことなく、彼らの激しい攻撃に身をさらしました。虐げられた人々を引き上げ、盲目の人々の目を神と恩寵の栄光に対して開かせるために尽力したすべての聖者や預言者たちは、進んで究極の犠牲を払う準備ができていなければなりませんでした。真理と正義を支持しようとした彼らは、困難を予測し、自分がしがみついているものをすべて犠牲にする機会を歓迎しました。神への信仰こそは、人を没落から守る基盤です。

ラーマは、森に追放されたとき、そこで体験した窮乏生活には何の注意も払いませんでした。ラーマは非常に献身的にダルマを守っていたので、いかなる出来事にも影響されなかったのです。ラーマは、人生の浮き沈みに襲われても、自らは傷つけられることはありませんでした。パーンダヴァ兄弟は、神への信仰とそれによってもたらされる平常心によって、いかにして災難や危機を克服できたかを示すよい例です。

神は純粋な帰依者を探している

同様に、イエスは信仰の力を説き、身をもってその力を示し、ついには自分の身に生命そのものを犠牲に捧げる究極の状況を招きました。イエスを苦しめる者たちを弟子たちが非難しはじめると、イエスは、「すべては一つである。我が子よ、すべての人に同じ心で接しなさい」と言って、それをやめさせました。イエスは自らを弾圧していたパウロにビジョンを与えたので、パウロは悔い改めて、信仰心と熱意に満ちた弟子へと変容を遂げました。

私たちは、宇宙に神が遍満していると見ることができたとき、初めて悪の勢力と戦う力をもつことができます。長年にわたって祈りや巡礼に携わっている多くの人が、どうしていまだに神を実現することができないのか、不思議に思っています。神を探すために世界を回る必要はありません。神は純粋な帰依者を探しています。神が遍在であることを意識している帰依者は、いたるところに神を見ます。帰依者は、神のいないところはないという深い確信をもっていなければなりません。それこそが帰依の真の徴です。瞑想と祈りは、自己を浄化する手段として価値があります。しかしそれは神実現(神我顕現)につながるものではありません。神への揺るぎない信仰は、説明し難い至福をもたらします。人は、信仰を蝕む疑念に屈してはなりません。

愛の力は無限です。愛はあらゆる障害を克服することができます。かつて、仏陀が旅をしていたとき、行く手に魔女が立ちはだかり、仏陀を殺すと脅したことがありました。仏陀は微笑んで、「お前は魔女ではなく、神である。たとえお前が魔女のように振舞ったとしても、私はお前を愛している」と言いました。この愛に満ちた言葉を聞いて、魔女は鳩に姿を変えて飛び去ってしまいました。愛は根深い敵意をもった相手の心さえも変えることができます。すべての人が培うべきは、この種の普遍的な愛にほかなりません。世界には、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教等々、様々な宗教を信仰する人々がいます。彼らの間には、何の差別も不信感も存在すべきではありません。というのも、すべての宗教が真理とダルマを支持しているからです。

グル・ナーナク(シク教の開祖)が、皆で集まって調和と平安の波動を生み出すバジャンを歌い始めたのは、異なる信仰をもった人々の間に一体性をもたらすためでした。

今日、世界は対立と暴力によって苦しんでいます。平安と繁栄は、人々が愛と道徳の道に救いを求めて、有意義な人生を送るようになったときに、初めて実現できるのです。自分自身を愛の化身と見なして、イエスがそうしたように、皆さんの人生を人類同胞への奉仕に捧げなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.19 C28

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