サイババの御言葉

日付:1994年1月1日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
元日の御講話より

愛と許しの心を養いなさい


施しは手の飾り
真実は舌の装飾品
聖典は耳の飾り
これ以外の飾りものが何の役に立つだろう?

愛の化身である皆さん! ブラフマンは、愛にあふれており、実際、愛の具現です。あなたの愛はその愛と同化すべきです。愛は唯一なるものであり、二つ目は存在しません。愛は不二の状態です。愛に不可欠な性質は犠牲です。どんな状況のもとでも、愛は憎しみに入り込む余地を与えません。遠く離れている人との絆を強め、親密にさせてくれるのは愛です。分離感を払拭し、一つであるという思いを高めてくれるのは愛です。愛だけが人を動物から人間へと引き上げるのです。プレーマ(愛)は人のプラーナ(生命力)であり、プラーナ自体がプレーマです。愛のない人は生命のない死体のようなものです。愛は生きている人にだけ示されます。誰も死体を愛しはしないでしょう。このように、愛と命は相互に関係しているものであり、密接に結びついているのです。

愛の三つのアングルが全託を構成している

世俗的な生活の中で、愛は、母と息子の間の愛、夫婦間の愛、肉親同士の愛など、さまざまな形で現れています。これらの愛は、利己的な動機や私利から生じる身体的な関係を基盤としています。けれども、神への愛には私利私欲の片鱗はないものです。神への愛は愛のためのみの愛です。これはバクティ(信愛)と呼ばれます。この愛の第一の特徴は、ひらすら与え、取らないことです。第二に、恐れを知らないことです。第三に、利己的な動機のためにではなく、愛のためにのみ在るということです。これら三つの愛のアングルがすべて合わさるとプラパッティ(全託)の姿勢を意味するものとなります。このプラパッティ(全託)の姿勢をおおいに楽しむとき、人は神の至福を体験します。そのためには、まずクシャマ(許し・堪忍寛容)が必要です。

このクシャマ(許し/堪忍寛容)という姿勢を有する人だけが、神聖な愛を授けられていると見なされ得ます。クシャマ(許し/堪忍寛容)という姿勢は教科書から学べるものではありません。また、教師や誰か他の人から得られるものでもありません。クシャマ(許し/堪忍寛容)という姿勢は、人が余儀なく遭わせられる苦しみの時、試練の時、苦難の時に、自分自身で養うものです。大きな悲しみや惨めさをもたらす問題や苦難に直面して、初めて寛容や許しという性質は根を生やす余地を得ることができるのです。問題や苦難を突きつけられた時、あなたは落ち込んで鬱の餌食になるべきではありません。それは弱さの表れです。そのような状況に陥った時には、寛大と許しの姿勢を祈りへと昇華すべきであり、動揺して怒りや憎しみや復讐心を募らせるべきではありません。あなたは強さの権化であり、弱さの権化ではありません。ですから、絶望の時には、寛容の気持ちで心を満たし、許し、忘れることができるようにすべきなのです。こうしたクシャマ(許し/堪忍寛容)の性質は、人間にとって最も偉大な力です。もし、この力を失ってしまったら、その人は悪魔のごとき人間となります。

クシャマはサティヤ、真理
クシャマはダルマ、徳
クシャマはアヒムサー、非暴力
クシャマはヤグニャ、犠牲
クシャマはサントーシャ、幸福
クシャマはダヤー、慈悲
クシャマは世界のすべてのもの

人間は人間的性質によって輝くべき

人がこの偉大な性質を捨てようとする時、怒りや嫉妬という邪悪な性質が這い寄ってきて、その人の人間的な性質を失わせ、悪魔的な性質の悪い行いにふけるよう、さらには、動物的な性質へと身を落とすよう、駆り立てます。人間は人間的な性質で輝いているべきです。今日、嫉妬と憎悪が世界中いたるところで悪魔のごとく小躍りしているのを目にします。嫉妬と憎悪を抱いている人々は悪の道をたどり、自らに破滅を招きます。その最たる例は『マハーバーラタ』のカウラヴァ兄弟です。ドゥルヨーダナ〔カウラヴァ兄弟の長男〕とドゥッシャーサナ〔ドゥフシャーサナ/カウラヴァ百人兄弟のうちの一人〕という兄弟は、嫉妬と憎悪という対の悪の化身でした。クリシュナは、パーンダヴァ兄弟の長男であるダルマジャ〔ユディシュティラ〕に、邪悪な性質を持ちすぎているカウラヴァ兄弟が改善して人間的な性質を吸収することは絶対に不可能だと言いました。自尊心の権化であったカルナは、シャクニ〔ドゥルヨーダナの叔父でダルマジャにサイコロ賭博をさせた張本人〕という、悪の助言者として火に油を注いだ人物と共に、カウラヴァ兄弟の仲間になりました。ドゥルヨーダナとドゥッシャーサナは王族の名家に生まれましたが、嫉妬と憎悪のせいで人間的な性質を捨てたために、一家と一族の滅亡を招くこととなりました。クリシュナは、嫉妬は人生という木の根を蝕む危険な病原菌であり、憎悪は木の幹を襲う害虫である、と付け加えました。このように、人生という木は嫉妬と憎悪という二つの天敵のせいで完全にダメにされてしまうのです。カウラヴァ兄弟はこの二つの天敵の餌食となり、自滅しました。

感覚器官に調和がなければ人生は順調に進まない

では、どうしたら嫉妬と憎悪という危険な天敵に打ち勝つことができるのかと尋ねる人もいるでしょう。すべての感覚器官を調和させて機能させるとき、それは可能となります。感覚器官の機能を見てみれば、たとえ一つの器官が調和を乱すだけでも、人生はうまく進まなくなることがわかるでしょう。心がある考えを抱くと、どの感覚器官もその考えを実行させるために団結して働きます。もし、感覚器官がその考えに従わなければ、人生は惨めなものとなるでしょう。寛容を有していれば、すべての感覚器官は調和をもって団結し、一つになって働きます。

目や耳や手足といった身体の器官が、自分たちは食べ物を確保するために多大な努力を払っているというのにそれを食べるのは舌だけだと言ってひとたび舌に嫉妬しはじめたら、ストライキに入って絶対に口に食べ物を運びはしないでしょう。舌は食べ物を味わって、口に合ったものだけを体の中に送ります。その食べ物は内臓によって、エネルギーを与えてくれる血液へと変換されます。舌は食べ物を留め置くことはしません。一方、舌によってなされるこうした生命の維持に必要な役割のために他の器官が貢献することは、まったく不可能です。他の器官が舌に嫉妬しはじめ、舌を苦しめようとして食べ物を運んでくるのをやめるなら、それはそうすることで自らを滅ぼすことを意味します。というのは、食べ物がなく、その結果、器官が機能するためのエネルギーが供給されなければ、器官は働くことができないからです。同様に、人の嫉妬も最終的には自分自身を滅ぼす結果を招きます。

嫉妬は自滅を招く

学生諸君は、シェークスピアの劇で、つねに嫉妬にさいなまれていた登場人物が、その嫉妬心によってたいそう弱く孤独になり、最後には自殺してしまったという話について学んだはずです。

バスマースラ〔バスマ阿修羅〕は、苦行の末にバスマースラの手が頭に置かれた者は灰と化すという恵みをシヴァ神から授かりました。最終的に、バスマースラは自分の頭の上に手を置いてしまい、自滅しました。

仏陀はある時、仏陀の大きな評判をたいそう妬んでいる女に出会いました。仏陀がその女の方に歩み寄ると、女は仏陀を刀で刺して殺したいと言いました。すると仏陀は微笑んで、「悪魔女よ、私はそなたも愛している」と言いました。それは自分を愛してくれる者など誰もいないと思っていた悪魔女をたいそう驚かせ、悪魔女の心を瞬時に変えることとなりました。女は鳩へと変じ、仏陀の御足に身を委ねました。怒りは怒りを呼び、妬みは妬みを呼びます。これを打ち破る唯一の方法は、一体性と愛の感覚です。

世俗の生活では、幸せと悲しみを、日の出と日没のごとく避けられないものとして体験しなければなりません。新年は苦い経験をもたらすだろうと、皆さんは考えています。その考えは正しくありません。喜びと痛みの原因は心です。もし、皆さんの心が善であれば、すべては善だと知るでしょう。皆さんは至福にほかならない神の化身です。そうであるのに、自分は苦痛にさいなまれていて、そのことで悲嘆に暮れている、などと言うのは愚かなことではありませんか?

バクタ〔信愛者、帰依者〕がバガヴァーン〔尊神〕に、自分の行為のすべてを神への捧げものにしてくださいと心から祈るなら、バクタは必ずや神から適切な恩寵を受け取るでしょう。信愛には九つの種類があります。シュラヴァナム(神の栄光を聴くこと)、キールタナム〔神の栄光を歌うこと〕、ヴィシュヌスマラナム〔神を憶念すること〕、パーダセーヴァナム〔蓮華の御足に奉仕すること〕、ヴァンダナム〔神を崇敬すること〕、アルチャナム〔神仏の像を礼拝すること〕、ダースヤム〔神の召し使いとして奉仕すること〕、スネーハム〔神の親しい友人となること〕、アートマ ニヴェーダナム〔真我への全託〕です。これらのどの方法で礼拝を捧げても、神は同じように応えます。

人間は自分が得たものを都合よく忘れます。神の恩寵がなければ、人間にとって生きることそれ自体が不可能です。あなた方が体験する困難でさえ、神の贈り物です。自分の行いのすべてを託すなら、あなた方は必ず神の恩寵を受け取ります。これは、「サルヴァダルマム パリッティヤジャ マーメーカム シャラナム ヴラジャ」〔一切のダルマを引き渡し、ただ私のみに庇護を求めよ。私はあなたを、すべての罪悪から解放するであろう。嘆くことはない。〕というギーターの詩節〔18章66節〕の意味することです。

神から与えられたものは何であれ自分にとって良いものと取りなさい

人々のなかには途切れることのない幸福を望む者もいます。午前10時にものを食べたら、その後休みなく一時間ごとに食べ続けるようなことはしません。休みを与えて食べ物が消化されるようにしなければなりません。このように、喜びを味わったら、また同様の体験に巡り会う前にその喜びを消化しなければなりません。ちょうど食べ物の消化を助けるためにいくらか運動するように、喜びを味わった後には苦痛との対面という体験を経なければなりません。ですから、何であれあなたが神から与えられたものは、自分にとって良いものと取らなければなりません。

母親がわが子を見て喜びを得るのは激しい痛みを経た後です。もし、あなたがエアコンの効いた部屋に一日24時間座っていたら、そのことに喜びを感じられません。外で照りつける太陽にさらされた後にその部屋に入ってくれば、エアコンの効いた部屋の涼しさを味わえるでしょう。

『マハーバーラタ』の戦いが終わった後、クリシュナはパーンダヴァ兄弟の母クンティー妃に望みは何かと尋ねました。クンティー妃は、つねに困難という恩恵を与え続けてほしいと頼みました。そうあって初めて自分は、かつて兄弟たちが12年間森で暮らしていた時にそうだったように、ずっと神を想い続けていられるのであり、それより前に女王として王宮での生活を楽しんでいたときには神を想っていなかったと、クンティー妃は語りました。

喜びと悲しみは相伴う

苦悩している時にのみ、神の御名を唱えることの甘さを味わえるのです。人生は悲しみと喜びの混合物です。これらは夜と昼のようなものです。夜がなければ、人は昼の過酷な労働の後、得るに値する休息を取ることができません。オレンジの中には甘い果汁が詰まっています。しかし、オレンジは苦い皮でおおわれています。外皮が中の果汁を保護しているのです。このように、真の喜びを味わうためには苦い困難に耐えるべきなのです。人はクシャマ(許し/堪忍寛容)という性質の具現です。この性質を有していれば、この世で達成できないことなどありません。

私たちは今、1993年に別れを告げ、1994年を迎え入れようとしています。二つのことには密接な関連があります。一つのものに別れを告げる一方で、もう一つのものを迎え入れるのです。同様に、私たちは悪い性質に別れを告げ、良い神聖な性質を迎え入れなければなりません。あなた方は自分の悪い性質を全部、神に捧げてよいのです。それは何も悪いことではありません。あなたの悪い性質を受け取って、あなたが善い性質を育てるようにと恩寵を与えてくれるのは神のみです。たとえば、汚いぼろぼろの破れた100ルピー紙幣を一枚持っているとします。そんなお札を受け取ってくれる人は誰もいません。けれども、もし数字が読み取れれば、中央銀行はそのお札を受け取って、代わりに同額のきれいなお札をくれます。同様に、悪い性質を真摯な帰依と悔い改めの心で捧げるなら、神だけはそれを受け入れ、あなたに恩寵を注ぐのです。

この原則に基づいて、礼拝者たちは、「パーポーハム パーパカルマーハム パーパートマーハム」等々のマントラを唱えて、犯した罪を神に捧げ、神の許しと恩寵を祈ります。キリスト教徒すらも、神に託すというこの原則に従って、「私は罪を告白し、救いを請います」と言います。このようにして、人は悪い性質を全部神に捧げて、神から善を受け取るのです。

ウパヴァーサとウパーサナの真の意味

私たちには、ウパヴァーサやウパーサナという習慣があります。人々は普通、ウパヴァーサとは通常の食事を控えてチャパティやイドリといった軽食をとる〔節食〕という意味だと信じています。これは正しくありません。神の近くで生きているなら、決して空腹を感じることはありません。それはちょうど、エアコンの近くに座っているときには暑さを逃れて涼しさを味わっているのと同じようなものです。神の近くに座ると、あなたの悪い性質は制され、良い思いと神聖な性質が生じてきます。これがウパーサナ(神の近くに座ること/礼拝をすること)の意味です。人々は意味をゆがめて解釈しているのです。

1993年は世界中でひどいことが数多く起こった波乱万丈の年だったので、当然、人々は1994年には何が起こるのだろう、少しは増しな年になるのだろうかと恐れています。今年は重大視すべき特殊な年ではありません。世界の誰もが幸せであるべきである、という広い視野をもって良い思いを養い、良い言葉を話し、良い行いをしなさい。

新年は適時に始まりました。というのは、今日はサヴィティ(太陰暦の朔から四日目)だからです。これは継母のもとで子どもが苦しむのと同種の、何らかの苦しみを人々に引き起こすかもしれません。けれども、広い目で見れば月の光が増しつつあり、これは良い意味では心が花開く徴候です。なぜなら、月は心を司っているからです。このティティ〔月相〕(吉日)を基に、今年は昨年よりも良い年だと期待してもかまいません。火災事故がより多く起こり、世界である種の対立がいくつかあるかもしれません。けれども、人間の性質が徐々に向上していくことが期待できますし、心が変容して皆が神の子どもであると考えるようになるなら、それは喜ばしいことです。そのような態度を養って、人類は兄弟であり神は父であることを信じなければなりません。肉体は別々であるかもしれませんが、魂は一つです。魂は分断され得ないのです。

神を自分の導き手、救い手として保持しなさい

一つの月が何十万もの壷の中に映っている(一なるブラフマンが、何十万、何十億もの生き物のなかに映っている)のです。「エーコーハム バフスヤーム」〔一なるものが多になろうと意志した〕。そして、「エーカメーヴァ アドヴィッティーヤム」〔神は唯一無二〕。第二のものは存在しないのです。0(ゼロ)の前に1を置けば、0に価値が生じます。この世は0であり、太陽も0、月も0です。実際、それらはどれも0のように丸い形をしたものばかりです。これらはすべて、各々の後ろの一つの神のおかげで価値を得ているのです。神のみが唯一の英雄(HERO)であって、それ以外は皆、無(ZERO)なのです。

神をあなたの導き手、救い手として保持していれば、どのような仕事をしても、必ず成功するでしょう。神があなたの唯一の真の友です。神以外の友だちは皆、あなたが財産を持っている間はあなたにくっついていますが、あなたが一切を失ってしまうやいなや、立ち去って行くでしょう。神のみが、いかなる時にもあなたと共にいる唯一の友です。神はつねにあなたと共にあり、あなたの内にあり、あなたのそばにいます。ですから、豊かに栄えるための唯一の方法は、神との友情を育てることです。人間である以上、あなたは他の人々を幸せにしなければなりません。これは愛です。あなたの心は愛で満ちています。それを他の人々と分かち合わなければなりません。あなたがたくさんの食べ物を持っていたら、自分でそれを食べ、また他の人々にもそれを食べさせなければなりません。そうしなければ、その料理は腐ってしまいます。少なくとも一日五人にあなたの愛を分け与えるべきです。あなたはその神の愛を実践し、体験し、他の人々と分かち合うべきです。

この元日に、あなた方は、毎日を愛で始め、毎日を愛で過ごし、毎日を愛で満たし、毎日を愛で終える決意をすべきです。カースト、信条、肌の色、宗教、国籍による差別があってはなりません。愛は一切の差別を知りません。あなた方はすべての人々が幸せであるよう願わなければなりません。心を愛で満たしなさい。国家は繁栄し、世界は繁栄し、すべての人が幸せになるでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.27 C1

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