サイババの御言葉

日付:1996年5月15日・場所:バンガロール ホワイトフィールド
ブッタプールニマー祭の御講話より

神の化身のメッセージと叙事詩


愛の化身である皆さん!

動くものと動かないものから成るこの広大な宇宙は、真理に満ちています。すべての名と形はダルマ(正義)に基づいています。ダルマは神が形をとったものです。目撃者として、微細なものの中で最も微細なものとして、広大なものの中で最も大きなものとして存在するアートマとは、まさしくブラフマン(すべてに浸透している意識)なのです。

宇宙のすべての物質は原子からできています。原子はアートマが形をとったものです。ゆえに、この宇宙にアートマとブラフマンの存在しない場所はありません。

ブッダのメッセージ

宇宙の霊的基盤を忘れ、世俗的なものに執着することによって、人は苦悩に陥っています。それはブッダが宣言した真理、「あらゆるところに苦しみがある。すべては束の間であり、すべては滅び去るものである」ということを認識していないことによります。この世のものを永遠のものと考えることが苦しみの原因です。もし、絶対の至福であるブラフマンが世界中に浸透していると気づくなら、苦しみの原因から解放されることでしょう。人は、プラクリティ(自然または現象宇宙)のすべてを抱合している神性に気づくことができないでいます。代わりに人は神を自然現象とみなし、自然の中に神の御業が見られるにもかかわらず、愚かにも神に気づくことができないでいるのです。無数の姿をとっている自然は「結果」です。神が「原因」です。全宇宙は原因と結果の現れです。それゆえ宇宙は神の顕れです。

人は、宇宙の基本的な物質を構成している五大元素が全人類に共有のものであり、そのように享受されるべきものであるということに気づかなければなりません。すべての人の中に神を見なければなりません。これが祈り(三帰依文/さんきえもん)の目的でした。

ブッダム シャラナム ガッチャーミ(仏に帰依し奉る)
サンガム シャラナム ガッチャーミ(僧に帰依し奉る)


この祈りには、「悟りを得た後、人は(社会への奉仕を行うために)社会(サンガ)に入らなければならない」という意味が含まれています。そして

ダルマム シャラナム ガッチャーミ(法に帰依し奉る)


です。この祈り全体としての意味は、「ダルマ(正義)を守るために、人はブッディ(目覚めた知性)を使わなければならない。そして、社会活動に携わらなければならない」というものです。知性を所有していても、社会への奉仕を行わないのであれば、人はどうしてダルマを守ることができるでしょう? 人に肉体が与えられたのは本来、ダルマを遂行するためであると伝えられています。

最も重要なダルマ

非暴力の遵守はダルマの最高の形であると言われてきました。今日、世界でなされる暴力はすべて、人々が正しい生活を送っていないという事実によるものです。人々は苦行をし、様々な儀式を行ってはいますが平安を手にしてはいません。なぜでしょう? それは、自分とは本当は誰なのかを見出すための探求をしていないからです。

この問いかけにより、人は人間の姿をした神であるということに気づくのであり、また、肉体を根本的な実体であると考えているために、自分に与えられた身体や才能や資質を誤って用いてしまっているということに気づくのです。人は、人間としての生をあがなうために与えられた天賦の資質を、どのように使えばよいのかに気づいていないのです。

非暴力

世に向けてのブッダの教えの中で、最も重要なものは「非暴力」(アヒムサー/アヒンサー、誰をも傷つけない)でした。非暴力とは、単に自分の手足や武器によって他人に傷を負わせないということではありません。非暴力は心と舌と身体の清浄(トリカラナ シュッディ)と共に実践されなければならないのです。そこには、一種の暴力である悪い思いがあってはなりません。身体を使って他人を傷つけることもまた暴力(ヒムサー/ヒンサー)です。言葉によってさえ誰をも傷つけてはなりません。言葉は甘く快く健全なものでなければなりません。すべての行為は他の人の助けとなるものでなければなりません。

ブッダはすべての行為に三つの規則を定めました。

手でなされるすべての行為は善なるものであるべきだ
喉を飾るにふさわしいのは真理である
耳を飾る最上のものは聖なる教えを聞くことだ
それ以外どんな飾りが必要だろう?

(サンスクリットの詩)

今日、人は何をしているのでしょう? 望ましくないものを聞いています。見苦しい光景を見ています。それでどうして平安が得られると期待できるでしょう? 頭と心と舌に調和がある時にのみ、平安は得られるのです。思いと言葉と行動は一致していなければなりません。

変容に必要とされること

多くの教えにもかかわらず、人の振る舞いに真の変容は何も起こってはいません。もし人がより清らかになっていかないのであれば、バジャンやサットサング(善い仲間)は何の役に立つというのでしょう? 善い仲間を通じて、人は善い思いを育まなければなりません。善い思いはやがて人を真我顕現へと導きます。

人は自分の良心の指示に従って行動しなければなりません。良心は正しいことと間違っていることを識別することができます。人は動物的性向を克服して、人間として生まれたという栄光を認識しなければなりません。人は内なる神性を顕現させて、理想の人生を歩まなければならないのです。行うこと、話すこと、振る舞いのすべてが模範とならなければなりません。ほんの些細な行為であっても他人を傷つけることがあってはなりません。

叙事詩から学ぶこと

今日、人はちょっとしたことでひどく憤慨します。このような怒りの例はどこに見ることができるでしょうか? それは『バーガヴァタ』の中にあります。同様にカーマ(愛欲)の例はどこに見ることができますか? 『ラーマーヤナ』の中です。邪悪な性質である貪欲の例はどこにあるでしょう? 『マハーバーラタ』の中です。

これら偉大な叙事詩には、三つの嘆かわしい悪に対するどのような警告がふくまれているのでしょうか? 『ラーマーヤナ』では64種の学問に精通する偉大な学者であり厳しい苦行を重ねた全能のラーヴァナが、カーマ(愛欲)という一つの悪い性質によって滅ぼされました。感覚的欲望は人間のもつ他の善い性質をすべて損なうのです。『ラーマーヤナ』はこの真理をはっきりと表しています。

『バーガヴァタ』には、プラフラーダとヒランニャカシプの物語があります。プラフラーダはヴィシュヌ神の偉大な帰依者でした。プラフラーダの父ヒランニャカシプはヴィシュヌ神を憎んでいました。この抑えることのできない神への憎悪から、ヒランニャカシプは幼い自分の息子に最も過酷な苦難を負わせることにも躊躇しなかったのです。ヒランニャカシプが身を滅ぼしたのはその怒り(クローダ)が原因でした。『マハーバーラタ』では、ドゥルヨーダナが貪欲(ローバ)という悪い性質の例として際立っています。ドゥルヨーダナはパーンダヴァ兄弟(自分の従兄弟たち)には針の先ほどの土地も手放さないと宣言しました。この貪欲が彼を完璧な悪人へと変貌させたのです。

ラーヴァナ、ヒランニャカシプ、ドゥルヨーダナは、世間並の人ではありませんでした。彼らは皆、それぞれの道において傑出していたのです。その業績がゆえに英雄(Hero)だったのです。しかし、彼らは特定の悪行によって自分たちの人生を台無し(Zero)にしました。偉大な才能をもっていたとしても、その人が嘆かわしい悪に支配されていたら、それは何の役に立つというのでしょう? 数多くの才能を備えたラーヴァナは、ランカーを文字通りの楽園へと作り上げていました。しかし感覚のコントロールがなされていない時、それが一体何の役にたったというのでしょうか?

邪悪な性質を取り除き、善の性質を育てることは、あらゆる人が必ず果たさねばならない務めなのです。

神の化身とダルマ

神の化身たちそれぞれの任務は、真理と正義の世を打ちたてて、この世の悪と誤りと不正のすべてを払いのけ、人類が神性を顕現させるよう助けることです。

神の化身ラーマの出現は、正義による統治を確立するため(ダルマ サムスターパナ)でした。誰もラーマの誓いの言葉を破ってはなりません。真理より偉大なダルマはありません。父親が交わした約束を守るために、ラーマは森に追放されることを選んだのです。

同様にクリシュナとしての化身において、神はこう宣言しました。「ダルマを確立するために私は時代ごとに出現する」

この宣言を聞けば、ダルマが最高の理想であるということは明らかです。ダルマとは何ですか?思いと言葉と行動に清らかさをもってなされた行いはすべてダルマです。しかし、この言葉に適った行いが一体どれだけあるというのでしょう? これを理解し実現している人はほんのわずかにすぎません。実践が第一です。

バーラタの歴史は、ダルマを支えてきた偉大な人々の物語に満ちています。ブッダもまた、同時代に生きた人々からの非難に直面しなければなりませんでした。それは神の化身たちが皆、よく経験することです。中傷を受けなかった化身はいません。善い主張にもすべて非難が浴びせられました。そういった攻撃や障害にもかかわらず、神の化身たちの仕事からは平安と善がもたらされます。

善い仲間の大切さ

以下に述べることは、すべての人々にとっての四原則です。善い仲間を歓迎しなさい。邪悪な心をもった人々との交際はすべて避けなさい。絶えず価値のある行いをしなさい。常に束の間のものと永遠のものとを識別していなさい。

ブッダの最初の説法は、「悪い仲間を絶ちなさい」というものでした。ブッダは遊行の間、よく若者たちを連れて歩いていました。ある者たちはブッダが若者を駄目にしていると非難しました。ブッダは自分を中傷する者たちのやりたいようにさせておき、彼らの批判を静かに聞いていました。そして一言も言い返すことなくその場を去りました。弟子たちがブッダに「なぜ非難に対して何の返答もしないことを選ばれたのですか?」と尋ねました。するとブッダは「返答しなければ、非難はそのまま非難した者のところに戻るのです」と答えました。

非難する者の怒りの言葉に興奮せずにいることで、その人は非難を浴びせかけた人に優るのです。さもなければ非難した人と同じレベルに下がってしまいます。誰に対しても悪意を抱いてはなりません。これはギーターに示されている黄金律です。ブッダは平静と寛容の精神で自らの使命を果たし続けました。

批判を越えて

勇気と平穏さをもって障害や抵抗に立ち向かうことが偉大な人間の特質です。偉大な人々を駆り立てる内なる力や、神の化身たちの行動とその真意を理解することは容易なことではありません。神の化身を動かす本源は無限大です。それに比べて普通の人間の力量は限りなく小さいのです。どうすれば微小なものが無限のものを理解できるというのでしょう? アリに大海の深さを測ることができますか? 不可能です。同様に、神の摂理は人間の理解を超えています。ヴァシシュタやヴァーマデーヴァのような偉大な聖仙たちでさえ神を完全に理解することはできませんでした。

神を認識すること

神を理解しようと試みるよりも、自分の学んだことを実践するほうがよいのです。「知り、感じ、親しみなさい」(グニャータム、ドラシタム、プラヴェーシタム)。これは神を引き寄せる三つの方法です。バジャンは完全に肉体を忘れた状態で歌うべきです。信愛の熱情は音楽的技術よりも重要です。今朝バジャンに参加した女性たちは心からバジャンを歌いました。彼女たちのハートは甘美さに溢れていました。それゆえ彼女たちのハートから甘い音楽が流れ出たのです。

スリランカからの大勢の帰依者がブリンダーヴァンのスワミの前で自国の祝祭であるブッダ ジャヤンティを祝うということは、大変意義深いことなのです。あらゆる不快さや不便さにもかかわらず彼らがここでの祝典を祝うことができたのは、真に幸運なことです。彼らのバジャンがそれを支えたのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
参照:『慈悲 仏陀の教え』63p〜79p

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