サイババの御言葉:仏陀のメッセージ

日付:2000年5月21日・場所:ブリンダーヴァン
仏陀プールニマーの御講話より

仏陀のメッセージ


白檀は擦れば擦るほど芳香を増す
サトウキビは噛めば噛むほど甘みを増す
金は熱すれば熱するほど輝きを増す
試練や苦難もまたしかり
高貴な者の善性を増やすものにすぎない

愛の化身である皆さん!

同胞を愛すれば愛するほど、より大きな至福を味わいます。他の人を愛すれば愛するほど、より幸せを感じます。ですから、ずっと幸せでいたければ、つねにすべての人を愛さなければいけません。愛は神へと到る王道です。神へと到る一番の方法は、すべての人を愛し、すべての人に奉仕することです。これぞ仏陀が人類に説いた教訓です。

非暴力は万人に最も重要なダルマ

仏教徒は次のように唱えます。

ブッダム シャラナム ガッチャーミ
ダルマム シャラナム ガッチャーミ
サンガム シャラナム ガッチャーミ

〔仏陀(理智、ブッディ)に帰依し奉る
法(ダルマ)に帰依し奉る
  僧団(社会、サンガ)に帰依し奉る〕

この3つの箴言は、人は第1に知性と霊的な識別力を研ぎ澄まさせなければいけない、第2に理性は社会への奉仕に使われなければいけない、第3に奉仕はダルマすなわち正義に根差したものでなければならない、という意味を含んでいます。この3つのステップは、従う者を至福へと導きます。多少なりとも決してどんな生き物も傷つけてはなりません。「つねに助け、決して傷つけてはならない」――これが仏陀の教えの真髄です。

アヒムサー パラモー ダルマハ

非暴力は至高のダルマなり

思いによっても、言葉によっても、行いによっても、決して他の人を傷つけたり害したりしてはなりません。あなたは、「そのようなことが可能だろうか?」といぶかしむかもしれません。それは可能です。ただし、あなたに固い決意があるならば、です。揺るぎのない決意をもって固く決心したならば、この世に成し遂げられないことはありません。そこで障害となる一番のものは恐れです。同一の神性がすべての人に備わっているということをひとたび認識すれば、どんなことをも、どんな人をも、まったく恐れることはなくなります。

プラフラーダは多様性の中に一体性を見ました。宇宙のすべての基盤はナーラーヤナ神であるということをはっきりと理解して、プラフラーダは喜びをもってナーラーヤナ神に全託していました。プラフラーダは神が遍在であることを認識していました。父のヒランニャカシプはそれとは正反対でした。ヒランニャカシプは一体性の中に多様性を見て、宇宙に存在するそれぞれ固有の名前をもつ姿形の多様性に惑わされていました。そうした姿形がすべて束の間のものであるのに対して、神は永遠の真理を象徴しています。

神には様々な名前がありますが、その中で最も偉大で最も神にふさわしい名前は「サット・チット・アーナンダ」です。

「サット」は、「3つの時間、過去・現在・未来のすべてにおいて不変であるもの」を意味します。真理に固く立脚することで人は「サット」を体験することができます。

「チット」は、「完全な意識」、もしくは、「完全なる知識」という意味です。あらゆる側面における神性を体験させてくれるものが「チット」です。

ひとたび「サット」と「チット」を体験したなら、「アーナンダ」すなわち「至福」も自然と伴います。

すべての人が幸せを望んでいます。そうした望みは自然なものであり、人間の真の性質は至福であるという事実から生じるものです。至福は神ですが、人はそれを理解していません。人は、自分が神から生じたこと、生命の底流が神であること、人の最終目的地が神であることを理解していません。人は至福から生まれ、人生の基盤は至福であり、人の目的地は至福です。実を言えば、人生の基盤は何か、人生の目的は何であるべきかを知るのは難しいことではありません。至福が人生の目的であるべきであり、人は真剣に至福を手に入れようと努めなければいけません。人の体は束の間のものであり、体が人に与えることのできる喜びもはかないものです。ですから、人は永遠のもの、つまり「神」、あるいはそれと同じものである「至福」を捜し求めなければなりません。永遠ではない道具を使って至福を捜し求めることは無意味です。体は肉体的な喜びしか与えることはできず、心〔マインド、マナス〕はせいぜい心の満足しか与えることはできません。これらは至福に相当しません。

仏陀は至福の秘訣を探求するために家を出ました。遊行中、仏陀は1体の屍と、1人の老人と、1人の病人を目にしました。その痛ましい光景は仏陀を深い探求へと向かわせました。死は避けることができないということを、仏陀ははっきりと理解しました。人は幼年期、青年期、中年期へと自然と達するのと同じように、老年期からも逃れることはできません。こうした変化は物質的な世界の本質的な部分を占めており、それ自体はかないものです。これらの変化は自然なことなのですから、人は変化に対してうろたえたり、心を乱したりしてはなりません。仏陀は、

「死の原因は何か? なぜ人は老齢や病に襲われるのか?」

と自問しました。長い熟考の末、仏陀は、体は水の泡のようなものにすぎず、体の病は心に起因するという結論に達しました。現代の言葉で言うなら、その人の心理的傾向がその人の行動と振る舞いを決めるということです。

ヴィシュヌ神はすべてに浸透しています。ヴィシュヌ神は強力です。人間においては、ヴィシュヌ神は心〔マインド、マナス〕に象徴されます。そういうわけで、心は人間の所有物の中で非常に強力な道具なのです。神性を体験するためには、体を心と連動させて使い、他の活動にそらせてはなりません。人生において、苦楽、悲喜、善悪が交互にやって来ることは、まったく避けようがありません。それらに惑わされてはなりません。ところが、人はおびただしい数のヤグニャやヤーガ〔護摩供犠や供養〕を行い、あらゆる形態の儀式礼拝をしているにもかかわらず、二元性によって惑わされ、神の遍在を悟ることができずにいます。

遊行中のある日、仏陀はある村にやって来ました。村の住人たちはヤグニャの最中で、儀式の一部として1匹の動物を生贄にする用意をしていました。仏陀はそれを見て、生贄を供えないようにと戒めました。

「どのような習慣であろうとも、生類に傷害を負わせてはならない。神はすべてのものに宿っているのだから」

と仏陀は述べました。

イーシャーナッ サルヴァヴィッディヤーナーム
イーシュワラ サルヴァブーターナーム

神は智慧である
神はすべての生きものに宿っている

ということです。仏陀は、

「これは私が学んだことだ。神はすべてに宿っている。ゆえに、人は神であり、神は人である。それゆえ、その動物を殺めるのは間違っている」

と付け加えました。すると司祭長は、

「殺めようとしているのではございません。解脱を与えようとしているのです」

と答えました。仏陀はその返答に驚いて言いました。

「そなたは解脱を求めていない動物に解脱を与えようとしている。ならば代わりに、解脱を求める人間に解脱を与えてはどうか? そなたの反論は聖典に基づいたものではない。どのヴェーダもそなたの言っているようなことは唱えていない。そなたの所見は誤りであり、真実ではない。そなたは危害や痛みや傷を負わせることで解脱を授けられるとでも思っているのか? それはできぬ! そなたの父、母、妻、息子、皆が解脱を欲している。その者たちを生贄にして、望み通り皆に解脱を授けてはどうだ? そなたは解脱を欲さぬ動物を解脱させることにめっぽう熱心であるが、解脱を切望する人類同胞を解脱させることには気が進まない。それはどんな類のゆがんだ論理だろうか? そなたがしようとしていることは最も重い罪である。危害を与えること、傷害を負わせること、殺めることは、決してしてはならない」

このようにして仏陀は、

アヒムサー パラモー ダルマハ

非暴力は至高のダルマなり

という観念を伝えました。アヒムサー(非暴力)は万人にとって最も重要なダルマです。

人に本来備わっている愛の原理は、鳥や獣を含むすべての生きものにも等しく存在しています。ですから、人はすべての生きものの生命に同じ価値を置かなければいけません。あなたに内在している愛を、人類同胞のみならず、自然界のすべての生きものと分かち合いなさい。これが真の普遍なる愛の原理です。この原理こそが人生の基盤であるべきです。

解脱の真の意味

人々は解脱に関して奇妙な観念をもっており、解脱には天国に行って永遠に生きることが含まれると想像しています。解脱はそのようなものではありません。解脱とは、無私の愛という、不変で、衰えることのない、完全なるものを獲得することです。人が到達しようと努めるべき状態はこれです。この状態に達して、初めて人は真に解放されます。解脱のためと称して、求道者たちはあらゆる霊的な道を試みています。そうした修行はどれも、せいぜい一時の満足をもたらしてくれるだけです。あなたを本当に解脱へと到らせ、永遠の至福を授けることができるのは、純粋な愛の道のみです。

皆さんは9つの伝統的な信愛の道、すなわち、シュラヴァナム〔神聖な言葉を聴くこと〕、キールタナム〔神の栄光を歌うこと〕、ヴィシュヌ スマラナム〔神の御名を唱えること〕、パーダ セーヴァナム〔蓮華の御足への奉仕〕、ヴァンダナム〔神を崇敬すること〕、アルチャナム〔礼拝〕、ダースヤム〔神への奉仕〕、サキーヤム〔神の友や伴侶となること〕、ニヴェーダナム〔全託〕を知っていますね。これらの道は、もし機械的に歩めば、束の間の満足を運んで来るにすぎません。解脱を望むのであれば、こんこんとあふれ出る愛がその実践に伴っていなければいけません。あなたがどの道を選択しようとも、その底流に純粋な愛がなければいけません。実に、すべての霊的な試みにおいてそうでなければいけません。すべてのことを、神への愛から、そして神のために、しなければいけません。これが真の信愛です。

バクティ〔信愛〕とは、単に御名を唱えたり、儀式礼拝を行ったり、ヴェーダを学習したりといったことを意味しているのではありません。そうした活動はどれも信愛の1つの側面を示しているにすぎません。真の信愛は、あなたからまっすぐに神へと流れゆく愛の流れです。神に対する無条件で無私の愛が真の信愛です。神への礼拝はいかなる要求とも無縁でなければいけません。とりわけ、世俗的な欲を叶えることや、世俗的な報いを期待することがあってはなりません。しかしながら、人々はいつも多大な私利私欲を抱えて神を礼拝しています。これは真の信愛ではありません。あなたが神に捧げるものは、純粋で無私の愛でなければいけません。そのような愛だけが解脱を確保してくれるでしょう。実のところ、その愛自体が解脱です。なぜなら、そうした愛はあなたを世俗的な欲から解放してくれるからです。スワミがよく言うように、「モークシャ」〔解脱〕は「モーハクシャヤ」〔モーハの除去〕、つまり、執着と欲望からの解放が真の解脱です。

神は1つだが御名は多い

書物で純粋な愛を学ぶことはできません。人から教えてもらうこともできません。純粋な愛は心の奥深くからわき上がって来るべきものです。あなたのハートは永遠の歓喜と永遠の至福の源です。あなた自身がアーナンダ ニラヤム、すなわち、至福の住む家なのです。あなたのハートから生じる愛は、神に捧げられなければいけません。スワミは先日こう言いました。

デーホー デーヴァーラヤッ プロークトー ジーヴォー デーヴァッ サナータナハ

体は神殿であり、そこに宿るものは神

同一の神がすべての体に宿っています。ですから、あなたは自分を愛するのと同じくらい他の人たちを愛さなければいけません。これは体であり(スワミはご自身を指差しました)、あれも体です(スワミは別の人を指差しました)。体はそれぞれ異なっているかもしれませんが、体に内在している神は同一です。自分の息子から父と呼ばれている人がいます。その人のことを義理の娘は義理の父と呼び、孫たちは祖父と呼びます。同一人物でありながら、呼び名は呼ぶ人によって様々です。それと同じように、同一の神が、各宗教に従う者たちによって別の名前を付けられているのです。人々は神を、アッラー、ジーザス〔イエス〕、ラーマ、クリシュナ、仏陀などと呼びます。名前は様々であっても、神は同一です。ですから、異なる宗教に属している人々の間で争いが起こる余地など、まったくないのです。あなたは自分の選んだ御名で神に呼びかけるでしょうが、どの呼びかけも同じ受け手へと向かいます。目的地は1つであり、神も1つです。ですから、神に関して見解の違いがあってはなりません。実際には、

サルヴァ ジーヴァ ナマスカーラム ケーシャヴァム プラティガッチャティ

誰にお辞儀や挨拶をしても、すべて神に届く

のです。同一の神がすべての人に宿っているのですから、カーストや宗教や人種などに基づいた意見の相違が入り込む余地など、どこにあるでしょう? スリランカの外務審議官(先のスピーカー)は、「自分たちは皆、人類というカーストに属している」と述べました。

カーストはただ1つ、それは人類というカースト
宗教はただ1つ、それは愛という宗教
言語はただ1つ、それはハートという言語
神はただ1つ、そして、神は遍在

この1なる神に、あなたの選ぶどんな名前でも付けることができるのです。そうした様々な名前はあなた方が神に付けたものですが、実際には、神はそういった類の名前は持っていません。神は名前なき者、姿なき者です。神は純粋な意識であり、純粋なエネルギーです。神のエネルギーと意識は、あなた方にも内在しています。あなた方は、その並外れた力と能力を、神聖な活動のためにのみ、敬虔な態度で使わなければいけません。

プレーマからプールナムへ――純粋な愛から完全性へ

神はあなた方に純粋な愛を授けましたが、この世の混乱状態とあなた方の食習慣や生活様式のせいで、愛が汚されてしまっています。カーマ(欲望)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)、モーハ(執着)、マダ(慢心)、マーッツァルヤ(嫉妬)によって、その愛に不純さが混じってしまいました。今日見られる神聖な力の逸脱と汚染は、もっぱら食べ物と習慣のせいです。人間に適した食品は浄性の食物(サットウィック フード)です。なぜなら、浄性の食物のみが、善良さ、気高さ、信心深さを養ってくれるからです。仏陀は浄性の食物のみを食し、そのことによって、ブッディすなわち理智の完全なる開花へと導かれました。ヴェーダは宣言しています。

チャンドラマー マナソー ヂャータハ
チャックショーッ スールヨー アヂャーヤタ

〔プルシャの心は月になった
   プルシャの目は太陽になった〕

月は心を司る神であり、太陽は視力を司る神です。月は発光体ではなく、太陽からの光を反射することで光ります。その光は同一です。光は太陽から発し、月に反射されます。しかしながら、太陽から直接射す光が明るく輝かしいのに対して、月に反射された光はやわらかで弱まっています。その光は目に涼やかに映ります。日光はグニャーナすなわち叡智の象徴であり、月光はプレーマ〔純粋な愛〕の象徴です。

皆さんはどうやって果物ができるかを知っていますね。果物は、最初は花で、それから小さな実になり、それがだんだんと大きくなって青い果実になり、最終的に甘い果物へと変わります。花と小さな実と青い果実は、同じものの進化の段階を示しているにすぎません。それと同じように、神への道において、カルマ マールガ(行為の道)、バクティ マールガ(信愛の道)、グニャーナ マールガ(叡智の道)は、同一の根本原理の別の側面を示しています。その根本原理はプレーマ〔純粋な愛〕であり、公言されている3つの道は、人が神に対する自らの愛を示すための3つの異なる方法です。プレーマ〔純粋な愛〕は基本であり、あなたが焦点を合わせるべきものです。あなたは一方で謙虚さを育み、もう一方で神聖な思いを育まなければいけません。仏陀プールニマーの祝祭は、プレーマ〔純粋な愛〕はプールナム(完全性)への道であるということを人に思い出させるために祝われます。

へつらいを避けよ

仏陀は国の隅々まで行脚して、人々に神聖な愛の道を歩むようにと説きました。そうしているうちに、仏陀の体は消耗しきってしまいました。そのため、仏陀はある村に滞在していくらか休息を取ることに決め、自分の代わりに弟子の1人に村人たちに説法するよう頼みました。弟子はその幸運を喜んで勢い勇み、その説法の中で、

「仏陀は愛と叡智と慈悲の人であられます。これほど高貴なお方はかつておらず、これからも現れないでしょう」と語りました。

それを聞いて村人たちは感動し、拍手喝采で応じました。身を休めていた仏陀は、その音を聞くと部屋から出て弟子のところに行きました。そして、説法をやめるようにという身ぶりをしながら、

「息子よ、そなたの歳は?」と尋ねました。

「釈尊、25歳でございます」と弟子は答えました。すると仏陀は、

「これまで訪れた地は?」と尋ねました。弟子は地名を述べました。仏陀は言いました。

「そなたは若く、経験も浅く、この世のごくわずかしか見ていない。そのような限られた知識で、いかにしてそなたは、この仏陀に並ぶものはこれまで現れたこともなければ、今後現れることもないなどと確証できるというのか? そなたは過去も知らなければ、未来も知らない。現在のことすらすべてを知っているわけではない。それでどうして過去と未来の両方について断言する権限があるだろう? そなたの説法のやり方は単にそなたの無知をさらし出しているにすぎない」

それから、仏陀は宣言しました。

「多くの偉大な人物が過去に生を受けており、将来はもっと多く現れるであろう。この真実を否定することは誰にもできない」

仏陀は、虚飾、誇示、へつらいを嫌いました。仏陀は質素で、いつも穏やかで、純粋で、謙虚で、つねに愛と慈悲に満ちていました。仏陀の偉大さの真価がわかるのは、仏陀と同じくらい愛に満ちた人だけです。

実践のみが至福へと導く

愛の化身である皆さん!

仏陀プールニマーの日だけ幸せでいても十分ではありません。つねに歓喜を感じることができなければいけません。それは仏陀の教えに従うことによって可能となります。今日、人々は演壇でスピーチをしているときには偉大な英雄(ヒーロー)ですが、実践においては零(ゼロ)です。雄弁なスピーチをすることよりも、仏陀の教えを実践することのほうがはるかに重要です。それこそが幸福を享受するのに適った方法です。これは仏陀への尊敬と崇敬の念を表すのに適った方法でもあります。

仏陀の教えは気高く、高尚で、神聖です。最も重要な仏陀の教えは、

アヒムサー パラモー ダルマハ

非暴力は至高のダルマなり

というものです。アヒムサー、すなわち非暴力は、すべてのダルマの中で最も偉大なダルマです。仏陀はこの教えを非常に強調して力説しました。仏陀はさらに、ものの見方が神聖でなければならないとも説きました。仏陀は、

「神聖な見方は純粋な生活を送るために必須である。サムヤク ドリシュティ(善いものだけを見る習慣)とサムヤク シュラヴァナム(善いものだけを聞く習慣)を養うべし」

と述べました。仏陀にはすべてが純粋で神聖でなければなりませんでした。

池に小石を投げると、波紋が生じ、池のふちまで広がります。それと同じように、あなたのハートという池に善い思いという小石を投げ込めば、波紋が生じてあなたの体中に広がります。その波紋が目に届くと、目は清らかな見方を刺激します。その波紋が耳に届くと、耳は神聖な音に傾きます。手に届くと、手は善い行いへと動きます。そうして体中にその波紋が広がると、体全体で神聖な活動という交響曲を奏でます。ですから、善良で高貴な思いが神聖な活動の基礎なのです。

これは仏陀の偉大な教えです。あなたはそれにどう応えますか? あなた方全員が、仏陀の教えの含まれている本を読んだことに疑いはありません。しかし、本を置いた瞬間に、その教えはすべて忘れられてしまいます。白檀は、よく研いで初めてその甘い香りを十分に嗅ぐことができます。サトウキビは、よく噛んで初めてその甘さを味わうことができます。それと同じように、神聖な教えをずっと継続して実践していくことによってのみ、至福へと導かれることができるのです。過去の偉大な人々は、従うべき無数の教えと、倣うべき理想的な手本を残しています。そうした過去のすばらしい教えの中から1つか2つでも実践するなら、それで十分です。

時間を神聖にせよ、時間を無駄にしてはならない

神は人間に時間という贈りものをしました。それは何のためでしょう? 人間が時間を神聖なものにするためです。しかし、あなたはそうしていますか? 自分はどのくらい時間を無駄にしているか、内省して割り出してごらんなさい。時は神です。時間を無駄にしてはなりません。時間を無駄にすることは人生を無駄にすることです。今日、人々はありとあらゆる方法で時間を無駄にしています。人々はテレビに貼りついている時間を作ることはできても、奉仕をする時間や神聖な行いをする時間は持てません。なぜ価値のない気晴らしのために時間を無駄にしなければならないのですか? そうする代わりに、どうしてその時間を慈善活動や奉仕活動に使えないのでしょうか? これらは仏陀がしたことです。仏陀はつねに他者に奉仕していました。

肉体を捨てなければならない時がやってきたとき、仏陀は1枚の小さな硬貨を持っていました。その硬貨の背景には、ある話があります。王や皇帝は、仏陀を喜ばせるために仏陀の滞在用の大きな屋敷を建てました。けれども、仏陀はそれを喜びませんでした。ある日、1人の老婆が仏陀に歩み寄って言いました。

「釈尊、私は貧しく、あまりお金を持っておりません。でも、私はあなた様を愛しておりまして、あなた様に何か差し上げたいのでございます。ここに小銭がございます。どうかこれを私からの供え物としてお受け取りください」

仏陀はたいへん喜びました。額は少ないものでしたが、それを差し出した者の心は大きく、愛に満ちていました。見せびらかしや誇示で贈られた多額のお金に価値はありません。純粋な愛のこもった、ささやかな贈りもののほうが、それよりずっと価値があります。スワミがよく言うように、匙一杯の牛乳は一樽のロバの乳に優ります。

仏陀が森で休んでいたときのことです。そのとき仏陀は独りでした。恐ろしげな悪魔が仏陀の前に現れて言いました。

「私はとても腹が減っている。私の餌食となる覚悟はできているか?」

仏陀は微笑んで答えました。

「ああ、覚悟はできている! 死はいつの日か必ずやって来る。ならば、今日私が死んだとしてもおかしくはあるまい? とりわけ、それで私がそなたの飢えを満たすことができるなら」

決して死を恐れてはなりません。なぜなら、死は必然であり、誰も死を逃れることはできないからです。仏陀は死を恐れていませんでした。それゆえ、仏陀は悪魔の餌食となる覚悟ができていたのです。その返事を聞くやいなや、悪魔は鳩に変じて言いました。

「今日、あなた様は莫大なる犠牲を示してくださいました。これから私も、必ずや、いたる所にあなた様の教えを広めます」

神と愛は異なるものではない

仏陀の教えは愛の原理に基づいています。サイの教えも同じです。すべての化身の起点は愛です。この根本的な真理を理解しようと努めている者は誰もいません。あなたは無私の愛を育てなければいけません。あなたがそれをするならば、世界中があなたの支配下となるでしょう。この愛は至福あふれる甘美なものです。甘露の甘さには限りがあるかもしれませんが、神の愛の甘さには限りがありません。神の愛の甘さはいかなる度量も超えています。神の愛は言葉では言い尽くせません。神の愛はただ体験し得るのみです。仏陀はその愛を見出し、体験し、その愛と一つになりました。神と愛は別のものではありません。

水泡は、水中で生まれ
水中で成長し、水中で生き、
ついには水に融合する
人間は水泡であり、神は水である!

人は水から生まれた泡であり、水は神です。人は神であり、神は人です。両者は人々が想像しているような、異なるものではありません。

愛の化身である皆さん!

すべての人をまさしく神の別の姿であると見なしなさい。あなたの両親はあなたに名前を付けました。それはあなたが自分の名刺に印刷する名前です。あなたが神に贈る名刺には、あなたの名前ではなく愛が書かれていなければいけません。名刺を人に見せると、相手は名刺にある名前や住所によってあなたを認識します。一方、神は、愛、愛、愛だけを認識します!

一日を愛で始め
愛で過ごし
愛で終えなさい
これが神へと到る道!

(大きな拍手)。ですから、今日のこの神聖な仏陀プールニマーの日から、精力的に神への愛を育てなさい。無私の愛を伝え、広めなさい。愛に優る霊的説法はありません。聖典の学習は、人を(世俗的な意味あいの)学者にすることはできますが、人を賢者にすることはできません。誰が真の学者でしょう? 誰が真の賢者でしょう? どんな状況においても完全なる平常心と不動心をもっている者だけが、学者や賢者と呼ばれ得るのです。学者は書物を熟読し、自分はすべての聖典に精通していると主張し、自分には高い教養があると公言します。そのような自画自賛は明らかにエゴ〔アハンカーラ、自我意識〕のしるしです。エゴは非常に危険なものです。なぜなら、エゴは確実に人を破滅へと引きずりこむからです。単なる勉学が何の役に立つでしょう? 学者たちは自分が学んだことをわずかでも実践しているでしょうか? まずしていません。学識は人を守ってもくれなければ、救ってもくれません。それができるのは純粋な愛だけです。

純粋な愛は、速度制限のない、きれいに舗装された一方通行の道路のようなものです。あなたは自分が出したいどんなスピードででも、神に向かってその道を急ぐことができます。同じように、川もこの原則を物語っています。すべての川は勢いよく山から流れ出ます。川はある所に向かって急速に流れます。どこに向かっているのでしょう? 海です。その過程で、川は大きな石や岩を越え、巧みに障害物を避けていきます。川は決して止まることなく、つねに目的地に向かって移動し続けます。人生は、神と呼ばれる海に向かって勢いよく流れる川でなければなりません。その流れは、決して止まることも、衰えることもあってはなりません。あなたは、すべての障害を乗り越えながら、神へと向かって勢いよく流れ続けていかなければなりません。それがあなたの霊性の旅の特質でなければなりません。意志を強く持ち、決意を固くし、決然として、誠実でありなさい。わずかでも弱さの入り込む隙があってはなりません。あなたのものの見方、聞き方、思考、感情、そして、行いが善良であれば、あなたは至福だけを体験するでしょう。

神の指示に従い、愛を広げなさい

愛の化身である皆さん!

神を探しに出かける必要はありません。神があなたを探しに来ます。神はお寺やモスクや教会には住んでいません。それらは人間がこしらえた建造物です。神は自分が建てた寺院に住んでいます。それは人間の体です。人間の体は、生ける寺院であり、歩く寺院であり、語る寺院です。人間の建てた寺院には、力と神聖さにおいて、神が建てたこの寺院に匹敵するものはありません。この寺院は、レンガとモルタルで建てられたものではありません。建築家が設計したものでも、技術者が建てたものでもありません。この寺院は神の意志によって出現しました。あなたは自分の体を神からの貴重な贈りものと見なし、その神聖な贈りものを保護しなければいけません。神の命じることに従い、神聖な行いだけに従事しなさい。自分のできるかぎり愛を広め、さらに、自分のできるかぎりアートマ原理の芳香を広めなさい。

体と頭は共に神に向けられなければいけない

シャリーラ マーディヤム カル ダルマサーダカム

体はダルマの道を歩むために与えられた

人は飲み食いをして楽しく浮かれ騒ぐために生まれたのではありません。もちろん、生命を維持するには食物は欠かせません。

ビクシャーンナム デーハ ラクシャールタム
ヴァストラム シータ ニヴァーラナム

食物は生命を維持するためにあり
衣服は体を覆うためにある

これが指針です。食物と頭は、あなたを神だけに導かなければいけません。神以外のところに導いてはなりません。食物と頭と神の間には完全な調和がなければいけません。頭だけではどんな価値も伴いません。この点を例証する一つの話があります。

あるときアショーカ王が森を通り抜けていたときのことです。王は1人の仏僧を目にし、馬から下りてその僧の足元にひれ伏しました。アショーカ王に伴っていた王の従者はそれにショックを受けました。従者は、

「王ほどの偉大な人物が、世捨て人のような低級な人物の前にひざまずくことなど、どうしてできるのか?」

と怪訝に思いました。しかしながら、従者はその疑念を口には出さず、黙っていました。王宮に戻ってから、従者は丁寧な物腰でそのことを口にしました。

「王様、いかにして王様ほどの偉大で理性のあるお方が、一介の僧の足元に頭を下げることなどおできになるのでしょうか?」

と従者は述べました。アショーカ王はただにっこりと微笑むだけで、それに答えはしませんでした。何日か経ってから、王は従者を呼ぶと、唐突に言いました。

「まず羊の頭を手に入れて、次に山羊の頭、それから人間の頭を手に入れよ。そして、その3つの頭を持って市場で売りに出してみよ。その後、戻って私に報告せよ」

従者はそのたいそう特異な命令に面食らいましたが、命令は命令であり、特にそれが王直々のものであればなおさらだと、気を取り直しました。従者は言われたとおり、3つの頭を手に入れて市場に並べようと試みました。従者は羊の頭と山羊の頭の買い手を見つけることはできましたが、誰も人間の頭を買おうと歩み寄ってくる者はいませんでした。従者は戻って事の次第を王に報告しました。アショーカ王は言いました。

「さて、もし誰にも人間の頭を買おうという気がないのであれば、ただでやるがよい」

従者は市場に戻りましたが、がっかりしたことには、ただであっても人間の頭を買おうとする者は誰もいませんでした。従者は戻ってそれを王に報告しました。アショーカ王は微笑んで言いました。

「私が僧の足元に頭を置いたとき、そなたがどう抗議したかを覚えているか? 今、そなたは人間の頭には価値がないことを自力で悟った! 頭は永遠のものではない。にもかかわらず、そなたは私のしたことに心を乱された。頭は無価値ではあるが、気高い人物の足元に置かれると、祝福と恩寵をもたらす。これがそなたに学んでほしいことである」

ダルシャナム パーパ ナーシャナム
スパルシャナム カルマヴィモーチャナム
サムバーシャナム サンカタ ナーシャナム

神を見ることはすべての罪をあがない
神に触れることはすべての束縛を滅し
神と語ることはすべての困難を取り除く

アショーカ王は続けました。

「僧の足に頭がかすった瞬間に、私のすべての罪はあがなわれた」

従者にゆっくりと智慧がわいてきました。

生きているうちに体の有効性を認識しなさい。生きて、体を所有していてこそ、ダルシャン(神を見る機会)とスパルシャン(神に触れる機会)とサムバーシャン(神と語る機会)を得ることができるのです。体がなくなってしまった後でこれらを得ることができますか? 不可能です! この世はあなたの欲するものを与えてはくれないでしょうが、神からは、必ずやあなたの欲するあらゆる善いものを得ることができます。

仏陀の教えに従う決意をせよ

愛の化身である皆さん!

あなた方は全員、おおいなる信愛を抱いてここにやって来ました。あなた方の誠実さは賞賛に値します。あなた方は仏陀の教えに従う決意をしなければいけません。仏陀は気高い人物でした。仏陀プールニマーを祝う一番の方法は、聖人仏陀の教えを実行に移すことです。この祭日だけ幸せでいても十分ではありません。この聖なる日の体験を絶えず心の中で再現することによって、つねに歓喜を体験していなければいけません。牛はまず草をはみ、それから静かに座って前に食べたものを徹底的に反芻します。動物にそれができるなら、人が自分が習った教えについて同じことができないことがあるでしょうか? 家に戻ったら、今日習ったことを反芻しなさい。今日の体験を何度も思い起こしなさい。これが、自分が習ったことを消化して、幸せでいるための方法です。これを行って、初めてこの地への旅は価値のあるものとなるのです。ここから離れた瞬間に教えを忘れるようではなりません。霊的な教えがあなたの血液の中にしみ込んで、あらゆる所に広がっていかなければいけません。

神には特別な名前があります。神は「ラソー ヴァイ サハ」と呼ばれています。この名前の意味は、神は人間の体の中に神聖なエキス〔ラソー、ラサ〕として存在しているというものです。この神聖なエキスは、人間の体中に、すべての手足と器官に、広がっています。それゆえ、神には「アンギーラサ」という名前も付けられています。アンガム〔アンギー〕は手足という意味です。ですから「アンギーラサ」は、手足のすべてに浸透し、手足に神の神聖な力とエキスを含ませている者というという意味です。このようにして、神は「アンギーラサ」としてあなた方に内在しています。

あなた方は、自分の面倒を見て自分を守っているのは自分であると思っています。これは真実ではありません! 実際にそれを行っている者は神です。ぐっすり眠っていて自分の周囲で何が起こっているかわからない時にあなたを守っているのは、誰だと思いますか? その時あなたの面倒を見ているのは誰でしょうか? それを行っているのは神です。実のところ、神はつねに、あらゆる場所で、あらゆる状況において、あなたの面倒を見ています。神がつねに守護しているのですから、痛みも苦しみも恐れる必要はありません。困難は必ずやって来るものですが、必ず去って行くものでもあります。困難は永遠に留まるものではありません。困難は過ぎ行く雲のようなものです。一方、神は、定まった永遠なるものです。神をあなたの生活の基盤とし、いつも神を想っていなさい。これが、この地への巡礼の一部として、あなた方が今日、しっかりと理解しなければいけない教えです。

(御講話の締めくくりに、バガヴァンは「ヴァヘー グル・・・」のバジャンをお歌いになりました)。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 2000 C8

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