サイババの御言葉

日付:2002年10月11日・行事:ナヴァラトリ3日目の御講話・場所:プラシャーンティ ニラヤム
バガヴァン シュリ サティア サイ ババ様の御講話

シーターの神性とラーマの結婚

聖者ヴァールミーキは、偉大な叙事詩『ラーマーヤナ』を創作しましたが、この叙事詩の内にある重要性は、万人に理解され得るものではありません。国の統治者クリシュナは偉大な占星術師であり、聖者でもありました。クリシュナはこう語りました。「私は繰り返し『ラーマーヤナ』を読んだので、この神聖な叙事詩への新たな洞察を得ることができました。私は、聖者ヴァールミーキがシーターの神秘的な誕生をどのように描写 しているのか知りたいと思いました」『ラーマーヤナ』では、ジャナカ王は供犠を行うために田を耕しているときにシーターを見つけた、と語られています。しかし、彼女がどのように誕生したのかについては何も述べられていません。ジャナカ王は、母なる大地から生まれ出た者を意味する「ブージャータ」という名でシーターを呼びました。

ジャナカ王の宮殿にはシヴァ神の弓がありました。その弓は非常に重く、普通 の人でそれを持ち上げることのできるものはいませんでした。シーターがまだ幼かったある日のこと、彼女は他の少女たちと一緒にボールでゲームをして遊んでいました。たまたまボールが転がって、シヴァ神の弓がしまってある箱の下に入りました。少女たちは皆、弓をわきに動かそうと一所懸命にやってみましたが、無駄 でした。他の力持ちの男性たちを呼んできて、彼ら全員の力を使って弓を動かそうとしましたが、1インチたりとも動きませんでした。ジャナカ王は、バルコニーからこれらのすべてを興味深く見ていました。しかし、シーターは彼女の父に気付いていませんでした。しばらくたって、彼女はほほえみながら、みんなにわきによけるよう頼み、左手で雑作なく弓を引っ張って、ボールを取り戻しました。ジャナカ王はシーターの力の強さに驚きました。王は「私がシーターを娘にもつことができたのは、多くの過去生において行った功徳のためであろう」と考えました。

王は、シヴァ神の弓を持ち上げることができた者だけにシーターを嫁にやろうと決心しました。王は盛大な供犠を行い、シヴァの弓を持ち上げてシーターの手(註:結婚の約束のしるしとしての手)を勝ちとる者を選別 するために、たくさんの王様を招待しました。多くの王と王子がジャナカ王の宮殿に集まりました。弓は非常に重かったので、コンテストの場所まで運ぶのに数百頭の象を必要としました。人々は、いったい誰がどうやってそんなに重い弓を持ち上げるのだろうかといぶかりました。王様たちは代わる代わる弓を持ち上げようとしましたが、あわれなことにその試みは失敗に終わりました。

そのとき、ラーヴァナ(註:ランカー国の羅刹らせつの王)がやって来ました。彼の外見はとても奇妙だったので、人々は恐怖を感じました。人々は、ラーヴァナはあらゆる美の化身であるシーターにはふさわしくないと思いました。シーターの母であるスナーヤナは、ラーヴァナが弓を持ち上げる試みに失敗するよう、シヴァ神に熱心に祈っていました。その間、ラーヴァナは弓を持ち上げようと全力をふりしぼり、そうするうちにバランスを失って倒れました。ラーヴァナは弓の下に閉じ込められてしまい、自力では脱出することができませんでした。ラーヴァナは、宮殿に集まる人々の目に晒されたことに屈辱を感じました。

その後、ヴィシュヴァーミトラの提案に従って、ラーマが、ゆっくりと威厳をもって弓の方に歩いて行きました。ラクシュマナ(註:ラーマの弟)は、ラーマが弓を持ち上げることができる、と確信していました。人々は、ラーマが放つ光輝とその歩きぶりを目にして、畏怖の念に打たれました。人々は、ラーマはシーターに申し分なく似合っている、と感じました。スナーヤナ(註:ジャナカ王の妃)も同じように感じました。しかし、スナーヤナは、若いラーマがこの重い弓を持ち上げて、シーターを勝ち取ることができるかどうか心配していました。人々が驚嘆して見守っていると、ラーマは、シーターがその弓を左手で容易に持ち上げたように、左手で弓をやすやすと持ち上げました。ラーマが弦を張ろうと弓を曲げると、それは耳をつんざくような大きな音を立てて壊れました。

さまざまな楽器を携えた音楽家たちが歌いだしました。ジャナカ王の喜びはとどまるところを知りませんでした。王は直ちに、手に花輪を持っている娘のシーターを伴ってラーマのところにやって来ました。王は言いました。「ラーマよ、私はシヴァ神の弓を持ち上げた人とシーターを結婚させるという誓約をしました。私は、娘をあなたにもらっていただき、その誓約を果 たしたいのです」。しかし、ラーマは自分の両親の許しを得ないで結婚の申し込みを受けることに同意しませんでした。ラーマはあらゆる美徳の化身でした。「あらゆるものの繁栄に携わる者」、「あらゆる知恵を授けられた者」、「賞賛すべきあらゆる美徳に満ちた者」。ラーマはこれらの理想を体現していました。ジャナカ王がシーターを伴って来ても、結婚前にシーターを見ることは道徳的でないと考えていたラーマは、彼女の方に目を向けようとさえしませんでした。

現代の若者の行動は、ラーマの模範的なふるまいとまったく対蹠的たいしょてきです。現代の若者たちは、結婚のことを考えると浮き足立ってしまいます。彼らの心には、自分の両親に許しを求めようという気持ちが生じることさえありません。聖仙ヴィシュヴァーミトラも、結婚の申し込みを受け入れるようにラーマを説得しようとしました。しかし、ラーマは自らの決意を変えようとはしませんでした。ラーマは言いました。「私はダルマ(正義)に従わなければならないので、個人的な希望にはしたがえません。しかし、私はすべての人に敬意を払っています」。

3日後、ダシャラタ王は、家族全員と友人、親族とともにミティラー(註:ジャナカ王の治めるヴィデーハ国の首都)を訪れました。ラーマは、自分の父の許しを得た後にやっと結婚を承諾しました。しかし、その後、ラーマの父ダシャラタ王と導師ヴァシシュタがラーマに即位 するよう説得しても、ラーマは彼らの言葉を心に留めようとはしませんでした。ラーマは彼らの希望に反して森へ行きました。ラーマの唯一の思いは、自分の父がした約束を守ることでした。ラーマは自分の父の名声を落とすことを望みませんでした。ゆえに、ラーマは王国やあらゆる快適さを犠牲にして、森へと去りました。

結婚の儀式は進みつつありました。儀式の一部として、花嫁と花婿の間にカーテンがかけられました。そこにカーテンがある間、花嫁と花婿は相手を見てはいけないことになっていました。しかし、シーターとラーマは非常に高潔だったので、カーテンが取り除かれたあとでさえも、相手を見ようとはしませんでした。どちらとも目を伏せていました。そこで、ヴィシュヴァーミトラは快活に声をかけました。「おお、ラーマ! シーターは母なる大地の娘なのですよ。(母なる)大地を見る代わりに、彼女を見てはいかがですか」。ラーマはそれまでシーターを見ずにいました。ラーマはその時までマンガラスートラ(註:婚姻のひも)を結んでいなかったので、シーターを見ることは罪であると感じていました。ラーマは、女性はすべて自分の母だと考えていました。人は、そのような模範的なふるまいを見習おうとしなければなりません。家庭では、夫も妻もどちらとも徳の高い生活をするべきです。夫婦の一方だけでも美徳を欠いていたとすれば、その夫婦は双方ともに平和と幸福を楽しむことはできません。

結婚式が執り行われ、やがて花輪を贈る儀式の時間となりました。シーターは花輪を手に持って待っていました。シーターは背が低かったので、長身で肩幅の広いラーマの首に花輪をかけることができませんでした。しばらく経ちましたが、ラーマは頭を下げようとはしませんでした! ラーマは自分の名誉を守るため、女性の前で頭を下げたくありませんでした。ラーマはラクシュマナの方を見て、ほとんど気付かれないようなジェスチャーをしました。4人の兄弟たちはいつも鋭敏で注意を怠らずにいました。そのことは、ティヤガラージャが創った歌の中で次のように描写 されています。

もし ラーマへの帰依がなかったならば
1匹の猿に大海が越えられただろうか?
女神ラクシュミーはあなたを賛美しただろうか?
ラクシュマナは進んであなたに仕えただろうか?
大いなる英知を備えたバラタはあなたに平伏しただろうか?
おお、主なるラーマの強さへの帰依の力はなんと偉大なことだろう

(テルグー語の詩)

ラクシュマナはアーディシェーシャ(その頭で全世界を支える天界の大蛇)の化身でした。ラクシュマナは、ラーマが、シーターが立っている地面 を高くすることを望んでいるのだと理解しました。ラクシュマナは、もしシーターのいる場所が高くなれば、他の皆のいる場所も同様に高くなるということを身振りで示しました。ラクシュマナに一つの考えが浮かびました。突然、ラクシュマナはラーマの足元に倒れて、起き上がろうとしませんでした。ラーマは身をかがめて、ラクシュマナを自分の足元から起こさざるをえませんでした。シーターは非常に聡明でした。このチャンスをとらえて、シーターはすぐにラーマの首に花輪をかけました。夫と妻との間にはそのような理解があるべきです。

もし神を得ることを熱望するのならば、必要とされる資格を得るために努力する必要があります。それが真の霊性です。それがウパニシャッドの本質です。神は、ウパニシャッドの本質を理解し、それにしたがって行動する人を受け入れます。神とはどのような存在でしょうか? 神はどのように見えるのでしょうか? 神を、ラーマやクリシュナ、ゴービンダ、ナーラーヤナなどのような名や姿に限定してはなりません。実際のところ、神は特別 な名や姿をもたないのです。神はエネルギーの具現者です。これらのナヴァラトリのお祝いは、エネルギーが形を取ったものとしての神を崇拝することが目的です。人はつかの間の成果 を求めて祈るべきではありません。その代わりに、純粋かつ不変で無私の帰依をもって、神の恩寵を求めて祈らなければなりません。ひとたび神の恩寵を得たならば、あらゆることを成し遂げることができます。

 

翻訳・監修:サティア サイ出版協会
出典:「Dasara Discourses 2002」p33-38

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