サイババの御言葉

日付:2002年11月20日・行事:ディプロマ授与式・場所:プラシャーンティ ニラヤム
バガヴァン シュリ サティア サイ ババ様の御講話

教育の真の目的 ― 人格

いかなる場所においても平安の足跡は見られず
真実もまた希有
恐ろしい兵器は大量に積みあがり
不安に心を覆われた人で満ち溢れる
この不道徳な熱狂の原因 それはエゴの心
これはサイの言葉の真実である

(テルグ語の詩)

愛の化身の皆さん!
 教育は普及し、多くの人が教育を受けていますが、結果的には、人々の振る舞いの中に、それに見合った変容を見ることができません。私たちの必要とする教育とはどのようなものでしょうか? 今日、教育によって学問に秀でた人は増えていますが、教育が人の振る舞いにもたらす良い影響は減少しています。

いとしい学生の皆さん!
 今日、皆さんが受けている教育は世俗的(すなわち価値を問題としていないもの)です。しかし単なる世俗的な学問では十分ではありません。教育は霊性教育によって補われなければなりません。皆さんは愛の原理を身に付け、真実の道を歩まなければなりません。真の教育とは、愛と真実で満たされたものです。真実がなければ愛は価値を失い、無力なものとなります。世俗的な教育は生計を立てるためのものですが、霊的な教育は人生のゴールに到達するためのものです。それゆえ、世俗的な教育と霊的な教育を調和させることは、教育者のみならず学生にとっての義務でもあります。今や多くの人々が教育のこの2つの側面 、世俗と霊性の調和のとれた関係の重要性を認識しています。

全世界で、従来のカリキュラムに加えて、霊性教育が施され始めています。霊性とは最近発見されたものではなく、太古からの英知であるという真実を人々は認識しています。しかしながら、この原理の重要性は、霊性を提示し、教えることだけに限定されています。実際、日常生活で霊性を実践することは少なくなっているのです。したがって、実践的な教育が、今日、最も重要なのです。実践なき教育は平安を乱すことにつながります。

教育機関における現代の学校教育は「エデュケーション」と称されますが、ハートに響く霊的な教育は「エデュケア」と呼ばれます。エデュケアとは、人に生来備わっている神性を引き出し、全世界の理想としてそれを確立することです。現代の教育は単なる本の知識に終始しており、書物に書かれていることに限定されています。一方、エデュケアは書物には関係しません。エデュケアはあらゆる知識の源についての教えに関係します。そして、その源は一人ひとりのハートの中にあります。それゆえ、この種の教育を基礎とすることが、今日非常に必要とされているのです。人々は霊的でない分野での高等教育をし進めています。しかし、それだけでは十分ではありません。真実・正しい行い・平安・愛・非暴力といった人間的価値を教える霊性教育もまた進めなくてはなりません。それによってハートの変容がもたらされるのです。

霊的教育と世俗的教育の調和のとれた混合が、今日の世界にかなった理想なのです。前者は内界の教えすなわち内なる気づきであり、後者は外界すなわち世俗に関する教えです。

世俗的な教えは物質的な世界に関わるものです。それらはマイナス極をあらわします。一方で、内なる気づきに結び付いた教えはプラス極です。愛を例にとってみましょう。愛の形を定義できる人がいるでしょうか? 愛を定義するための最善の方法は、人を愛し、人から愛されること、それによって愛の至福を体験することです。内なる気づきに結び付いたそのような教えが、今、至急必要とされています。エデュケアは、人と人の間に愛と親近感を確立します。今日、他の人の心の内は誰にもわかりません。思いと言葉と行動が一致していない人の場合はなおさらです。そのような人は、何かを思い、その思いとは違うことを話し、それから、まったく違った行動をとります。これは真の教育の特質ではありません。あなたが思ったことを話し、言葉として表現したことを行動に移しなさい。思いと言葉と行動の間に一致が見られないために、現代人は、「マハートマ(偉大な魂)」のレベルに到達することがなく、「ドゥラートマ(不道徳な人)」になりつつあります。次のように言われています。

思いと言葉と行動が完全に調和している人は 高貴な人
この3つが一致していない人は 道徳心に欠けている

教育を受けていない一般の人々よりも重大な罪を犯している人は、いわゆる「教育を受けたエリート」です。彼らこそが国に対して大きな損害を与えているのです。教育を受けていない村人たちは尊敬に値する生活をし、他の模範となっています。たとえば、教育を受け、大変な知識人だと考えられている人々は都会で贅沢ぜいたくに暮らしています。一方、粗野で無学な鈍才だと考えられている人々は村で暮らしています。彼らは、極めて質素で、幸せで、足るを知る生活をしています。今日、さまざまな学校や大学が都会に創設されていますが、これらの教育機関のキャンパスでは絶え間ない不安と動揺が見られます。他方、そうした高等教育機関のない村々には、そのような動揺はほとんど見られません。こうした状況を生み出す原因とは何でしょうか? 原因の多くは、いわゆる現代の教育と呼ばれているものにあります!

村に出向き、見てごらんなさい。村に入るとすぐに、素朴な村人が尋ねます。「ようこそ! どこから来られましたか? お国はどちらですか?」村人たちは尊敬の念をもって話しかけ、あなたのことを気遣います。しかし、都会にあっては親子間でさえもそうした気遣いをすることはありません。人々は非常に機械的な態度で日々の決まった仕事をこなし、お互いを気遣うことはありません。こうした状況を招いた原因は現代の教育にあります。

「教育の目的は人格を培うことにある」といわれます。今日の人々が高貴な人格を失ってしまったために、尊敬や崇敬の心もまた次第に失われつつあります。親でさえもこうした状況を生み出す原因の一端となっています。村の親の中には子どもを都会の学校に送り出す人もいます。そうした親は子どもに高等教育を受けさせ、学位 をとらせたいと願うのです。親の動機は間違いなく良いものですが、子どもたちは都会で悪い道に入ってしまいます。村にいたときは年長者を敬い親に従順であった子どもたちも、高等教育を求めて都会に入ったとたんに、故郷で培ってきた尊敬・崇敬・良き人格・謙虚さといったすべての善良な資質を失ってしまうのです。今、学生は高潔な生活の価値を忘れてしまっています。親の目の前であってもタバコを吸うことをためらわないのです。悪い習慣がますますはびこりつつあります。

しかし、村の状況はいささか異なります。村の子どもたちは年長者や両親の前で自制して行動します。親の健全なしつけが村ではまだ機能しています。町中や都会ではそうしたしつけは見られません。青年は、喫煙し、友人にタバコを差し出し、映画館に行って非常に多くの悪癖に耽るのです。彼らを自制させ、悪癖から引き離すものは何もありません。なぜ彼らはこのような振る舞いをするのでしょう? それは現代の教育が原因なのです。彼らは年長者・両親・社会に対する尊敬の念をもっていません。誰かに間違いを指摘されると、「なぜ間違いの罪を恐れなくてはいけないんだ? 私のタバコを私が吸うのは私の勝手だ」といって議論をし始めるのです。

ここで一つの例をお話しましょう。昔、旅をしていた一人のインド人学生と一人の外国人が寝台列車で同室になりました。学生はひっきりなしにタバコを吸っていました。それだけに留まらず、タバコの煙を外国人の顔に吹きかけていました。その外国人はしばらくの間我慢していましたが、もはや耐えられなくなって学生に言いました。「学生さん、すみませんが、私は気分が良くないのです。タバコの煙にたえられません。タバコが吸いたいのなら、トイレで吸ってください」

現代教育を受けて育ったそのインド人学生は次のように言い返しました。「私のタバコにたえられないのなら、あなたがトイレにいけばいいでしょう。私が買ったタバコを私が吸うのは私の自由です。タバコを吸おうが吸うまいが、タバコをどう吹かそうが私の自由です」。こうしてその学生は口論をし始めたのです。外国人はなす術がありませんでした。

しばらくして、外国人はトイレに行きました。彼がトイレに行っている間に、学生は彼の靴を寝台車から放り投げました。外国人はそれを見たものの、傲慢ごうまんな学生と議論をするのは賢いことではない、と思い直し、寝台に上がって身体を伸ばして横になりました。さて、今度は学生の番です。彼がトイレに行って戻ってくる間に、外国人は学生のコートを放り投げました。それはものごとの道理を教えるためでした。トイレから戻った学生はコートがどこにあるか聞きました。「君のコートは無くなった私の靴を探しに出かけて行ったよ。君にここから投げ出された私の靴を」と外国人は答えました。そのとき、学生は自らの間違いに気づきました。

皆さんもご存知のように、このカリの時代にあっては、すべてのことに反応・反響・反射が返ってきます。優しく甘美に話せば、同じことが返ってきます。無作法な態度で人に接すれば、無作法な態度で振る舞われることになります。したがってすべての人が、年齢や国の別 にかかわらず、優しく甘美に話さなければなりません。教育を受けていようが、無学であろうが、人は優しく甘美に話さなければなりません。人は謙虚さを備えていなければなりません。

教育とは何でしょう?

サイの真の言葉を聞きなさい
修養 良き振る舞い 真実 信仰 献身 規律
これらこそが真の教育である
そのほかはガラクタにすぎない

(テルグ語の詩)

今日、人は自らのダルマを忘れています。自らの義務を果たすことは、規律です。規律がなければ教育が何の役に立つでしょう? 知識のない教育は無益であり、教育のない知識は愚かなものです。したがって、そのような無益で愚かな教育に従っても何の目的も達成されません。人は高い教育と共に、良い態度も培わねばなりません。しかし、今日私たちが目にしているのは高度な学問と堕落した態度です。ですから、皆さんは、高等教育を獲得しても質素な生活を送らなければなりません。それが真の教育です。

かつて、マハートマ ガンジーが一冊の本をかかえて涙を流していたことがありました。ガンジーはその本を読み終えて、その内容がまったく無駄 なものだとわかったのでした。そのとき、一人の英国人がやって来て、なぜ涙を流しているのかをガンジーに尋ねました。ガンジーは「教育の真髄は人格であると信じていましたが、この本はそのような人格形成を促すものではなかったのです」と答えました。

現代教育といにしえの英知の間には大きな隔たりがあります。皆さんが教育を受けている時代は現代かもしれませんが、皆さんの態度や振る舞いはいにしえの英知に基づいたものであるべきです。そのとき初めて、あなたの受けた教育が尊敬に値するものとなるのです。

皆さんは両親を敬わなければなりません。年老いた人が家を訪ねてきたら、敬意をもってお迎えしなさい。優しく穏やかに話しかけなさい。その人に父親の居場所を尋ねられたら、「自分で探してください」と言って無視するのはいけません。これはあなたがしなければならない返事ではありません。礼儀正しく「はい!父は応接間におりますので呼んでまいります」と答えるのです。このように優しく穏やかに話すことで、訪問客はあなたに良い印象をもち、あの父親にしてこの子あり、と感心することでしょう。皆さんは父親の名誉と信望を守らなければなりません。どのようにして守ることができるでしょう? 優しく穏やかに話すこと、そして良き態度と振る舞いをすることによってです。そうでなければ、訪問客はあなたに対して次のような印象をもつことでしょう。「父親は素晴らしく、尊敬できる人だけれど、息子は不良で、態度も悪く傲慢だ。この息子はあの父親にふさわしくない」それゆえ、現代に生き、現代の教育を受けていたとしても、私たちが学ばなければならないことは、謙虚さを培うことです。

学生とはどのような存在でしょうか? 学生とは、教育を受け、謙虚さ・従順さ・規律をもって行動する人のことです。従順さや規律を身に付けていない人は、学生(studentステューデント)ではなく愚か者(stupidステューピッド)です。さまざまな学問を探求する大勢の学生が過ごすキャンパスには、静かで穏やかな雰囲気がなければなりません。今日、年長者は学生のいる場所に足を運ぶことを躊躇します。その理由は、学生が問題を起こすことを恐れているからです。このような事態は以前には考えられないことでした。昔の学生は謙虚さをもって行動していたものでした。彼らには教育を通 して培った識別力がありました。現代の教育には、正直さ・誠実さ・義務感・規律・献身が恐ろしいほどに欠けています。そのような教育がどうして役立つことがあるでしょうか?
  いにしえにあっては、学生は、学生期に入るときに「オーム ナマ シヴァーヤ! オーム ナモー ナーラーヤナ!」という神への聖なる祈りを教えられたものです。近所の年長者はその式典(訳注:ヒンドゥー教徒が学生期に入るときに行う入門式)に招待され、子どもたちに祝福を与えました。ひるがえって、今日、子どもは「メーメー、黒い羊」という童謡を聞かされ学びを始め、その結果 、最終的に社会の黒い羊(やっかい者)となってしまうのです。

いとしい学生の皆さん!
 皆さんは神聖な雰囲気の中で教育を受けています。この雰囲気を後の人生でも引き続き維持していかなくてはなりません。もちろん、現代科学は偉大です。しかし、皆さんの感覚は低いレベルにあります。科学の発達と共に、感覚もまた高いレベルに引き上げなければなりません。現代にあって、私たちは高い生活水準を維持しながら、低いレベルの感覚に甘んじています。これは「エデュケア」の意味するものではないはずです。エデュケアとは、人に生来内在している神性を引き出すことです。皆さんの口から発せられるいかなる言葉に対しても、それが皆さんの受けた「エデュケーション」の結果 なのか、それとも「エデュケア」の結果なのかを「Watch(ウォッチ、注意)」しなくてはなりません。今日、誰もこの「Watch」を実践していません。私はよくこの「Watch」という単語のつづりについて皆さんにお話します。この単語はW・A・T・C・H・という5つのアルファベットからなっており、それぞれが以下の言葉の頭文字を表しています。

W: Watch your Words (言葉に注意しなさい)
A: Watch your Actions (行動に注意しなさい)
T: Watch your Thoughts (思いに注意しなさい)
C: Watch your Character (人格に注意しなさい)
H: Watch your Heart (ハートに注意しなさい)

このように、言葉・行動・思い・人格・ハートに注意し続けることが本当のウォッチです。腕にはめているものがウォッチなのではありません。腕時計(リストウォッチ)は修理に出さなくてはならないかもしれませんが、「WATCH」という言葉は決してさびれることはありません。それは常に思い・言葉・行動を純粋にしてくれます。何と偉大な言葉でしょう! いにしえの教育は人をして崇高で高貴な存在となさしめる上で大きな役割を果 たしていました。

次に、清浄さと純粋さについてです。清浄さと純粋さは教育の最も重要な側面 です。学生の皆さんは、規則的な入浴・清楚で清潔な服装など、身の回りの衛生状態に気を配らなければなりません。「清潔さは神性」です。それゆえ、清潔で純粋でいなさい。幸福で足るを知る生活を送りなさい。常に人を助けなさい。常に人を助け、決して人を傷付けてはなりません。たしかに、皆さんは現代の教育を追い求めることができます。しかし、それと同時に、古の英知をもまた学ばなくてはなりません。この2つは調和され混合されなければなりません。科学的知識の探求はもちろん必要です。しかし、今日、私たちは誤った方法で科学を理解しています。科学はある一点から始まり、別 の一点で終わります。これでは完全な円を描くことはできません。一方、霊性は元の点に戻るために、完全な円を描くことができます。したがって次のように言われているのです。

それは完全であり これも完全である
完全なものから完全なものが取り出されたとき
残されたものもまた完全である

科学は「これは何か? これは何か? 」という探求から始まります。一方で、霊性は「あれは何か? あれは何か? 」という探求で始まります。「これは何か? 」という探求は、感覚への接近を示唆しています。これは科学です。これに対して、「あれは何か? 」という探求は、隔たりすなわち、感覚からの隔たりを示唆しています。それが霊性です。

簡単な例を挙げてみましょう。皆さん(註:ディプロマを取得した学生たち)は、ザンビア・東アフリカなど遠方から、はるばるサイ ババのダルシャンを受けにやって来ました。それほどの遠方に住んでいるがために、皆さんはサイ ババに対して大いなる愛をもつようになり、ダルシャンを熱心に求めるのです。隣の村に住む人に会うにあたって同じような熱心さは見られません。遠くにあるものに興味がくのは自然なことです。「あれは何か? 」の「あれ」とは何でしょうか? 「あれ」とは感覚を超えたもの、すなわち霊性のことです。「感覚の下にあるもの」は汚れています。私たちはそうしたものを求めるべきではありません。私たちは感覚を超越したレベルに至らなければなりません。そのとき初めて、神聖な人生を送ることができます。今日、学生は感覚に支配された状態にあります。彼らは感覚の奴隷になりつつあります。これでは(彼らが受けているのは)正しい教育ではありません。ただ「理学修士(マスター オブ サイエンス)」になるだけでなく、「感覚の主人(マスター オブ センスィス)」にならなくてはなりません。皆さんは感覚を自分の召し使いにしなければなりません。感覚の召し使いになるべきではありません。

『ラーマーヤナ』に出てくるカイケーイ妃について皆さんご存知でしょう。彼女はあらゆる種類の武器に熟達していました。彼女はケーカヤ王国の王様の娘でした。彼女はまたダシャラタ王の妃の中で最も若く、最も王の寵愛ちょうあいを受けていました。彼女は宮殿で自分に仕えさせるため、マンタラーという召使を連れて嫁いできました。しかし、時間の経過とともに、マンタラーが彼女の教師となり、彼女がマンタラーの召使になることに甘んじるようになりました。最終的に、妃はマンタラーの助言に身を任せ、人生を極めて惨めなものとしてしまいました。妃は夫であるダシャラタ王と死別 しました。王は最愛の息子、ラーマとの別れの苦しみに耐えられなかったのです。彼女もまた、自らの息子、バラタの怒りに直面 しました。バラタはラーマを森に追放し、ラーマの代わりに自分が王になるという(マンタラーとカイケーイ妃の)計略を嫌がったのでした。ラーマとシータを森に追放したことで、カイケーイ妃は王国のすべての人から憎まれました。

召使は召使のままで、主人は主人のままでいるべきだというのは、こうした理由によるのです。皆さんは主人であり、感覚は召使です。「マインド(心)をマスター(支配)して、マスターマインド(大いなる智恵者)になりなさい」それが学生の特質です。そのとき初めて、皆さんは真の高等教育を獲得し、それを他の人々と分かち合うこともできるのです。私は教育についてもっと詳細に皆さんにお教えすることができますが、時間も限られています。

皆さんへの私の教えは「質素な生活と高邁こうまいな思い(シンプル リビング アンド ハイ スィンキング)」という原則を中心に置いています。私自身がこの原則に従っています。重要なのは学位 の観点から見た教育ではありません。修養が重要なのです。私たちが修養を積めば、人生は極めて純粋で神聖なものとなります。皆さんに与えられるあらゆる訓練の目的は、皆さんが自立することです。自分の身の回りのことは自分で行わなければなりません。たとえば、食器洗いや洗濯などは自分でしなければなりません。これらは真の学生にとっての義務です。皆さんがこのような良い習慣を培うのなら、それ以上何が求められるでしょうか? これが「質素な生活と高邁な思い」ということなのです。皆さんはこの原則に基づいて高貴な人生を歩まなければなりません。

私はまた、ジュムサイ博士にヒューマン バリューの機関が運営するすべての学校で、自助の原則を実行するよう助言します。この機関の学生は自立した存在にならなければなりません。学習する場・寮・本棚などは常に学生自らが清掃しなければなりません。こうした仕事のために別 途、使用人が雇われることがあってはなりません。私はよく学生に次のようなジョークを言います。「野菜の値段は2アンナなのに、ポーター(運搬人)に支払う野菜の運び賃は4アンナだ」皆さんは野菜の値段よりも高いお金をポーターに支払いますか? そのようなことでお金を無駄にすべきではありません。お金の誤用は悪です。皆さんが学生時代に使うお金は皆さんの親が与えてくれたものです。そのお金はご両親の血と汗の結晶です。皆さんの手元の1ルピー1ルピーを、ご両親の血の一滴であるとして用いなければなりません。出費を減らし、より高位 の教育を目指しなさい。

今日、高等教育を受けるために海外へ行くことを望む学生がいます。そのためには何と多くのお金がかかることでしょう! 巨額のお金を費やして外国にたどり着き、さて、それから何をするというのでしょう? 留学生は勉学に集中してはいません。それどころか、非常に多くの活動に時間を費やし、貴重なお金を無駄 にしているのです。こうした無駄使いのためにお金が足りなくなると、レストランで皿洗いをして収入を補うという手段をとるのです。海外で皿洗いをする代わりに、なぜ自らが生まれた国で、自らの家庭で行わないのでしょうか? そうすれば、両親を助けることになり、両親も幸せを感じるでしょう。

いとしい学生の皆さん! 両親を幸せにしなさい。先生を幸せにしなさい。親と先生に仕えなさい。そのとき初めて、先生から良い教育を受けることができます。

愛の化身の皆さん!
 真の教育は謙虚さを教えるものであるという真実を認識しなさい。この謙虚さを培って初めて、皆さんは理想の学生となり祖国によく奉仕できるようになるのです。暴力が行われている場所からは離れていなさい。そこに行けば、あなたもまた傷を負ってしまうからです。もしできるのであれば、そのような暴力事件を収めるよう努力しなさい。それ以外には、そういった事件からは離れていなさい。あらゆる場所に平安の雰囲気を作り出すよう努めなさい。

いとしい学生の皆さん!
 皆さんは高貴な資質にあふれています。強靭(きょうじん)な肉体と心をもち合わせています。それに加えて、良い人格をも培うよう努めなさい。良い人格を形成することなしに、友人の輪を広げたり、富や権力を手に入れるのは無駄 なことです。皆さんは理想的な学生となり、世界にサティア サイ教育の原理を広め、世界から敬意を獲得しなさい。

 

翻訳・監修:サティア サイ出版協会
出典:http://www.sathyasai.org/discour/2002/d021120.html
((C) Sri Sathya Sai Books & Publications Trust, Prashanthi Nilayam)

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