サイババの御言葉

日付:2002年12月25日・行事:2002年クリスマスの御講話・場所:プラシャーンティ ニラヤム
バガヴァン シュリ サティア サイ ババ様の御講話

愛と道徳−現代に必要なもの

プライドを捨てて すべての人を愛しなさい
怒りを取り除き すべての心配を取り除きなさい
切望を制することが富に至る道である
貪欲を避けることは喜びへの王道である

(サンスクリット語の詩節)

愛の化身である皆さん!
 この世にあるすべてのものには、サット(存在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)、ルーパ(姿)、ナーマ(名前)という五つの側面 があります。存在と意識と至福は、すべてのジーヴァ(個我)の三つの永遠の特性です。名前と姿は一時的なものです。人間は、真の自己を忘れて、名前と姿を実在するものと信じ、はかない世界を永遠のものと信じて人生を送っています。神はすべての特性と感情を超越しています。人間が、神が特性や感情を備えていると考えるのは、むしろ不思議なことです。すべての人にとって、神の無限の愛と真理と慈悲を知るのは、何よりも大事なことです。人間は本質的には神でありながら、自己に内在する神性を忘れたために、魔物のような振る舞いをしています。すべての人間には決断力と器用さという性質が備わっています。これらの美徳を崇高な目的のために活用する人のみが真の人間です。

神のへそには、宇宙的な力が存在しています。ですから、神はヒランニャガルバ(註:黄金の宇宙卵、純粋な神の愛が最初に形として表れたもの、宇宙の始めから終わりまでのすべてがその中に詰まっているとされる)として知られています。神は神々しい光と輝きに満ちているので、美と栄光の化身であると言われています。人間としての生涯は最も崇高なものです。なぜなら、人間にはヒランニャガルバの原理が備わっているからです。神はまた、全宇宙の創造者でもあるので、プラジャーパティー(註:「至高の神そのものであるヒランニャガルバ」の意味)としても知られています。神の原理を理解するためには、一つひとつの神の御名の内的意味とその意義とを理解しなければなりません。神は様々な名前を持ち、それぞれの名前が深遠な内的意味を持っています。大昔のわが国の人々が子どもたちに、何らかの神の名前を付けたのは、そのような理由からなのです。

今日、人間は、神を捜し求めており、神の性質を探ろうとしています。神が自分の内にいるとき、どこに神を捜し求める必要があるでしょう? 神は愛の化身です。真実は神の姿そのものであり、神の本来の性質でもあります。真理を守ることよりも偉大なダルマは存在しません。しかし、今の人は、真理の意味を理解することができません。人は、自分の欲望を満たすために、非真理を真理と見なしています。まず第一に、人間は、サッティヤム(サティア、真実)、グナーナム(グニャーナ、知識)、アナンタム(アナンタ、無限性)に他ならない自分の真の特性を理解するように努めなければなりません。神は、人間は本質的に神であるという真理に目を開くように、ヴェーダ、シャーストラ、プラーナ、イティハサという聖典を、人間に贈りました。この世において、すべての人間には真理と正義と愛が備わっています。人間はサット、チット、アーナンダの化身です。これらの特性は、まことに神聖です。サット(存在)とは、変わることのない永遠のものです。チットはチャイタニヤ(意識)です。アートマ(真我)は、神の別 名です。ブラフマ(神)はアートマの同義語です。それは、すべての人の内に、チャイタニヤの形で存在しています。このチャイタニヤの原理を理解する人のみが、真の人間です。サット・チット・アーナンダとサッティヤム・グナーナム・アナンタムは、言葉は違いますが同じ意味を持っています。

この世には、無神論、二元論、不二一元論、条件付不二一元論等々、様々な思想の学派があります。ケーシャヴァという神の御名は、様々な神の名前の中でも最も重要なものです。すべての哲学の本質は、この名前に含まれています。それは、三つの音節から成っています。すなわち、「カ」+「イーシャ」+「ヴァ」であって、それぞれ、ブラフマ、イーシュワラ、ヴィシュヌを表しています。ですから、ケーシャヴァは、創造(ブラフマ)と維持(ヴィシュヌ)と破壊(イーシュワラ)の原理を象徴しています。人間は、ケーシャヴァという神の御名を黙想し、その意義を理解すれば、真の自己(真我)を理解することができます。

我が国の太古の聖賢たちは、神を理解するために深い研究と探求を行いました。最終的に、彼らは、「私は、10億の太陽の光をもって輝き、タマス(無知の暗闇)を超越した至高の存在を見た」と世界に宣言しました。彼らは、神のビジョンを得るようにと、人間に熱心に勧めました。そのときから、人間は神を信じるようになったのです。しかし、時の経過と共に、人間の信仰心は段々と弱まっていきました。人間は神を信じていないために、悲しみに支配されているのです。

回教徒からはアッラーとして知られる神は
キリスト教の求道者からはエホヴァとして知られている
ヴィシュヌの礼拝者たちからは蓮華の目を持った神として知られ
シヴァを崇める者たちからはシャンブーとして知られている
どのような方法で崇められても 神は喜んでそれに応え
名声と富の恩寵を授け 幸福と喜びを降り注ぐ
それが唯一者であり 至高の真我である
彼をパラマートマと知るが良い

(テルグ語の詩)

神は一つですが、多くの名前を持っています。様々な宗教が生まれましたが、すべてが同じ神に通 じています。

宗教はたくさんありますが 目標は一つです
衣類はたくさんありますが 毛糸は一つです
装飾品はたくさんありますが 金は一つです
牛はたくさんいますが ミルクは一つです
生き物はたくさんいますが 呼吸は一つです
身分はたくさんありますが 人間は一つです

(テルグ語の詩)

ですから、誰でも、もし自分の本当の性質を探求していけば、真実を体験することができます。イエスは高貴な魂でした。彼は、自分が神の子であると宣言しましたが、決して自分が神であるとは言いませんでした。イエスが生まれたとき、東洋から三人の立派な賢者たちが、星に導かれてベツレヘムの牛小屋にやって来ました。そこには、飼葉おけの中に幼子イエスが寝ていました。彼は神々しい光を放っていました。三人の中の最初の一人が「この子は神を愛するだろう」と言いました。二番目の賢者は、「彼は神に愛されるだろう」と言いました。三番目の賢者は、「彼はすべての人を愛するだろう。彼は神と異なるところはない」と言いました。神を愛する人は、神の使いです。神が愛する人は神の子です。一体性の原理を理解する人は、神と一つになります。これが、聖書に書かれた言葉の内的意義です。あなたが考えるあなたと、他の人が考えるあなた、そして本当のあなたがいます。皆さんは、このような言葉の意味を理解すべきです。

その子は、母マリアによって育てられました。父親は、大工として働いていました。エルサレムでお祭りがあったとき、子どものイエスは両親に連れられてお祭りに行きました。彼らは群集の中に子どもを見失い、どこにも見つけることができませんでした。母マリアは、当然、大変心配しました。とうとう彼らは、祈るために神殿に行きました。驚いたことに、二人は若いイエスが神殿から出て来るのを見つけました。子どもはずっと神殿にいて、ラビ(ユダヤ教の司祭)の神聖な講話を聞いていたのです。心配した母親は、子どもをつかまえて、彼がそれまで何をしていたのかを聞くために、いくつかの質問をしました。子どもは答えました。「お母さん。なぜ恐れていたのですか? 僕はずっと神様の御手の中にいました。僕は神殿の中で、ラビが神様の御言葉を説明するのを聞いていたのです」このように、イエスは非常に小さいときから、神に心を向けている子どもでした。

そのうちに父のヨセフが他界しました。マリアは息子に言いました。「もうお父さんが亡くなられたのだから、私たちが食べていくために、お前はお父さんの仕事を継がなければなりません」ところが、少年は父親の職業を継ごうとはしませんでした。母親もまた、若いイエスの自然な心の促しに反対しようとはしませんでした。ある日、若いイエスは、一人で誰もいない丘に登りました。母親は大変心配しました。それどころか、息子がいないので、ふさぎ込んでしまいました。イエスは座ってずっと神を瞑想していました。しばらくして、彼は帰ってきました。帰る途中に、彼は、ガリラヤの海辺で心配している何人かの男たちに出会いました。若いイエスが彼らに何を心配しているのかと尋ねると、彼らは漁師で、そのときまで何日も網に一匹も魚がかかっていないのだという答えが返ってきました。イエスは言いました。「私について来なさい。一匹も魚のいない海があるだろうか?」イエスは漁師たちを連れて彼らの船に乗り込み、海の中ほどに出て、ある場所で網を打つように言いました。彼らがたいそう驚き、またとても喜んだことに、漁師たちの投げた網は魚で一杯になりました。この出来事によって、漁師たちの心には、大きな信仰が生まれました。ですから、信仰は人間にとって欠かせないものです。

信仰があるところに愛があります
愛があるところに真理があります
真理があるところに平安があります
平安があるところに至福があります
至福があるところに神がいます

イエスは、彼らに、そのような大いなる信仰を教えることができました。その漁師たちの一人は、イエスによってペテロと名付けられました。彼には、イエスに対する熱烈な愛と信仰が育ちました。そのときから、漁師たちは定期的にイエスを漁に連れて行き、夜になって漁から戻ると、イエスが彼らに霊的な事柄を説明するようになりました。ペテロの父親が亡くなったとき、彼の母親は悲しみで一杯でしたが、イエスは次のように言って彼女を慰めました。「死は生命の衣に過ぎません。あなたはなぜ涙を流すのですか? 死は人が衣を着替えるようなものです。ですから悲しむのをやめなさい。このような肉体は来ては去って行きます。ですから、このようなはかないものごとに心を向けることによって、思いを無駄 にしてはいけません。この肉体の中に住んでいる存在こそが、本当の神なのです。」

肉体は五大元素によって作られており
遅かれ早かれ必ず滅びてしまう
しかし 内在者は生まれることも死ぬこともない
彼には何の執着もない
実を言えば その内在者こそは
まことに真我(アートマ)の形をした神そのものなのである

(テルグ語の詩)

イエスはこうして真理を説き、周囲の人々に自信を植え付けました。このように、その漁師たちの村は、イエスと共に幸せな時を送っていました。その頃、ローマ人たちの収税人であったマタイという人が、仕事でその地域をよく訪問していました。彼は、そのような訪問の際には、いつもイエスの話を聞き、彼の教えを書き留めていました。そしてとうとう、彼はイエスの弟子になりました。

そのうちイエスは、彼の教えに対する様々な困難や抵抗に遭うようになりました。人間の身体をまとっている人は誰でも、そのような人生の浮き沈みを避けることはできません。困難がなければ、人間は存在することができません。生の後には死が訪れ、それと同じ確かさで、喜びの後には悲しみがやって来ます。「人は、悲喜・得失・勝敗の中で平常心を保つべきです」楽しみは、苦痛と苦痛の間に訪れます。人間の一生は、至高の実体を探求するためのものであり、ただ単に食べて飲んで子孫を増やすためのものではありません。すべての人間は、自分の内的特質を知り、自分が本当は誰なのかを理解するための努力をしなければなりません。イエスはそのような神聖な真理を説いていました。ですから彼は、同時代の人々の間で、非常に有名になりました。世の中で有名になれば、当然妬みやうらやみを向けられます。妬みや、尊大さや利己主義は、よこしまな傾向であり、ついには破滅をもたらします。誰もそのような傾向を持っている人を許さないでしょう。

あなたは、決して他者を非難したり侮辱したりしてはいけません。人が平等心を養ったときに、初めて人間性が花開くのです。今日の人間が言いようのない苦しみを味わっているのは、人間的価値が欠如しているからです。本質的にものを燃やす力を備えているものは、火と呼ばれます。同様に、人間的価値を備えている人のみが人間なのです。人間的価値が欠如している人は、まったく人間などではありません。皆さんは高度の教育を受けて、高い地位 を占めているかもしれませんが、もし人間的価値が欠けているとすれば非人間的だと見なされます。ですから、まず第一によこしまな性質を取り除くようにしなさい。

きょう、メッセンジャー オブ サティア サイ(アナンタプール女子大の卒業生の組織)の人々が、設立記念日のお祝いをしています。彼女たちは、嫉妬や、怒りや、憎しみのようなよこしまな傾向に付け入るすきを与えてはなりません。外国で働いているメンバーたちは、模範的な生活を送っています。きょう、皆さんは、日本とアメリカから来た、我々の学校の卒業生たちの話を聞きました。彼女たちの思いや気持ちは崇高です。彼女たちの話は甘さに満ちていました。先ほどスピーチをした日本から来た女性は、博士号(Ph.D.)を持っています。彼女たちは極めて優秀ですが、謙虚で従順に振る舞っています。彼女たちの帰依と全託は、見習うべき価値があります。もし人が、嫉妬心や、人の悪口を言うような悪い傾向を手放さなかったとすれば、学問上の立派な資格や博士号は、いったい何の役に立つでしょうか? 私は本当にそのような行動を嫌います。愛と熱意と神聖な気持ちを持って、皆さんは人類に奉仕をするためにサティア サイの名前の下にオーガニゼーションを設立しました。間違いなく、多くの善い仕事が行われています。しかし、崇高な気持ちが汚されて、悪感情にならないように気をつけなさい。私は、仕事にはあまり重要性を置きません。私にとって重要なのは、皆さんの質です。あなたがどこにいようとも、――森の中でも空の上でも、町の中でも村の中でも、あなたは崇高な性質を育てなければなりません。嫉妬は非常に悪い性質です。嫉妬を持った人々にとって、人生は円滑に行きません。嫉妬は実際、生きながらの死です。これに加えて、もしあなたが人々の悪口を言うという悪い性質を持っていれば、必ずあなたは苦しみます。あなたはどうして他者のあら捜しをするのですか? そうする代わりに、自分自身の悪い性質を批判しなさい。あなた自身の悪感情と悪い想念を取り除きなさい。あなたは、他の人が悪い性質を持っていると考えて、そのような中傷を広めるべきではありません。私が繰り返しアドバイスを与えているにも関わらず多くの人には何の変革も見られません。

私は、この5、6年の間の彼らの行動にはつくづくうんざりしています。オーガニゼーションを設立しても何の役に立つでしょう? 皆さんは、サティア サイ セヴァ センターやバジャン グループを持っています。皆さんは社会奉仕に携わり、スタディー サークルを行っています。しかし、もしそのような奉仕が、ハートの中の愛によって支えられていないのであれば、何にもなりません。愛は神です。愛に生きなさい。そうする代わりに、人々はお互いに対する憎しみを育てています。そのような人々は、見せしめの罰を受けるに値します。と言うのも、他の人々もまた、そのような邪悪な人々のためにけがされているからです。皆さんが悪い性質を取り除くのであれば、私は、皆さんにどんなものでも与える準備ができています。私の命すら与える覚悟があります。皆さんがサティア サイの名前を使うのであれば、オーガニゼーションはどれほど崇高な働きをしなければならないでしょうか! 皆さんは、社会においてどれほどの尊敬を受けなければならないでしょうか! 誰であれ、サティア サイの名の下にオーガニゼーションを設立する人は、真理の原則を守らなければなりません。サティア サイの旗印の下に働いていながら、もしあなたが真理の道を踏み外したとすれば、いったい何になるでしょう? あなたが、愛を培い、真理と道徳の道を歩くとき、初めてオーガニゼーションは発展し、繁栄するのです。ですから、少なくともきょうから、真理と愛と道徳という特質を育てなさい。これこそがあなたの最初で最大の務めです。神聖なオーガニゼーションの名の下に、悪魔のような活動に携わるのは間違っています。

神は、サッティヤ ダルマ パラーヤナーヤ ナマハー、サッティヤ スワルーパーヤ ナマハー、プレーマ スワルーパーヤ ナマハーなどのような、いくつかの名前で崇拝されています。このような名前には多くの意味があります。神は愛の化身です。実際、人間自身が神の愛の化身なのです。愛こそが最大の特質です。もしあなたが、愛を培わなければ、人生には何の意味もありません。人の悪口を言ったり、陰口をきいたりすることは、非難されるべき性質です。過去においては、女性は悪い傾向の影響を受けることがありませんでした。ところが、今では女性すらも、このような病気の例外ではなくなりました。なんという恥ずべきことでしょう! 私の考えでは、これは現代の教育の結果 によって起きたひずみです。

教育や知能があるにもかかわらず
愚かな人は真の自分を知らず
卑しい心の人間は自分のよこしまな性質を手放さない
現代の教育は ただ議論をもたらすのみであり
完全な英知をもたらすことはない
世俗的な教育を受けても
あなたに不滅の命をもたらさないのであれば
それがいったい何の役に立つだろう?
あなたを不滅の存在にする知識を手に入れなさい

(テルグ語の詩)

よこしまな性質と結びついた教育では、何にもなりません。大事なのは教育ではなく、善い性質と、立派な人格と行動です。

もしあなたが、悪い性質を持った人々と交われば、あなた自身も悪くなります。悪い仲間から離れなさい。善い仲間に加わりなさい。そして、日夜有徳の行為に励みなさい。この三つの原則は、人間にとって最も大事です。カルナはマハーバーラタにおける偉大な戦士でした。実際、彼は戦場においてはアルジュナをしのぐほどでした。このような事実にもかかわらず、どうして彼は悪名を付けられたのでしょう? それは、彼がドゥリョーダナやドゥシャーサナのようなよこしまな心の持ち主と関係していたからです。最後に彼は、戦場で悲惨な死に方をしました。彼がマスターした偉大な武器も、どれひとつとして彼を救うことができませんでした。ですから、もしあなたの心が正しい方向に向けられていないとすれば、あなたの受けた教育は、ほとんど何の役にも立ちません。したがって、学生諸君、男子学生諸君、そして女子学生の皆さん! 崇高な性質を培いなさい。美徳が伴わずに富を獲得しても、何の役にも立ちません。

余分な富はエゴをもたらし
エゴは 多くのよこしまな性質へと導く道路を敷設する
富が去ってしまえば エゴも蒸発してしまい
その結果よこしまな性質も消えてしまう

(テルグ語の詩)

偉大さは富を手に入れることの中にはありません。崇高な性質を培うことこそが、この上なく重要なのです。口数を減らしなさい。あなたがおしゃべりをすればするほど、あなたは悪い性質を身に付けやすくなります。もしあなたが、美徳を培い、自分の行動を変革して善いものにしないのであれば、奉仕団体に入ってもまったく意味がありません。中には、優しく話すのに心の奥には悪意が潜んでいる人がいます。そのような分裂は、あなたをどこへも導きません。あなたはまず、心の中に柔らかさと甘さを育てなければなりません。「フリッド」+「ダヤ」=「フリダヤ」と言われています。あなたのフリダヤ(ハート)は、ダヤ(慈愛)に満ちていなければなりません。あなたのハートが、愛と慈悲に満ちているときに、初めてあなたはマーナヴァ(人間)と呼ばれる資格があるのです。

イエス キリストは、そのような崇高な性質を養いました。彼は愛する心で、何人かの貧しい窮乏生活を送っている人々を保護しました。事実、そのような境涯にある何人かの人々が、彼に保護を求めたのです。その過程の中で、彼は何人かの敵の激しい怒りを買いました。皆さんは何らかの困難を経なければならないとしても、人々を助けるべきです。決して他の人々の悪口を言ってはなりません。それは、同じアートマが、すべての生き物に浸透しているからです。もしあなたが、他の人をののしれば、それは自分自身をののしることと同じです。もしあなたが彼らを好きでないのなら、彼らから離れていなさい。しかし、決して彼らをののしってはなりません。もしあなたが悪い性質を取り除かなかったとすれば、どれだけ善い事をしても何の役にも立ちません。もしあなたが他の人々に善い事をすることができないのであれば、少なくとも、善い言葉を語りなさい。あなたは常に親切なことをしてあげられるとは限りませんが、いつも親切な話し方をすることはできます。もし誰かが苦しんでいるのを見つけたら、その人を助けるように努めなさい。きょうはその人の番ですが、明日になれば、あなたが苦しむ番がやって来るかもしれません。このことをいつも心に留めておきなさい。いかなる人も、痛みや苦しみを避けることはできません。常に万人の幸せのために祈りなさい。そのような意味合いにおいて、初めてローカ サマスター スキノー バヴァントゥー(すべての世界のすべての人々が幸せでありますように!)という祈りが唱えられるのです。

あなたのハートは、ヒランニャガルバへと作り変えられるべきです。あなたが善い感情を培ったとき、初めてあなたは善い人になることができます。あなたは偉大な人である必要はありませんが、善い人になるように努力すべきです。あなたはすべての人の愛を勝ち得なければなりません。神に祈る言葉の一つに、ヒランニャガルバーヤ ナマハーというものがあります。神はすべての人に愛されています。神は常に幸せで至福に満ちています。彼は、どんな人をも憎みません。神がすることは何であれ、あなたのためです。すべての人が、他者に対してそのような神聖な愛を培わなければなりません。常に真理と道徳の道を歩きなさい。道徳のない国家は必ず衰退して滅亡します。皆さんは、愛国心を持つだけでは十分ではありません。それと同時に、皆さんは道徳心も持たなければなりません。道徳に関する講義をするだけでは間に合いません。あなたの一つ一つの行いが道徳に満ちていなければなりません。

愛の化身である皆さん!
 神は、単なる甘い言葉だけでは動かされません。あなたは、甘い言葉を行動に変えなければなりません。あなたは、演壇の上で講演をするときは偉大な英雄(hero)であるかもしれませんが、もしあなたが、それを行動に移すことにかけてはゼロ(zero)であれば、何の役にも立ちません。皆さんは実生活における英雄でなければなりません。それこそが私に幸せを与えてくれるものです。イエス キリストとマホメット(ムハンマド)は、非常に崇高でした。彼らはどのようにしてあれほどの偉大さと善良さを手に入れることができたのでしょう? それは、彼らの善行によってのみ成し得たことです。ですから、皆さんは、偉大さと共に、善良さも手に入れなければなりません。実際、善良さは偉大さよりも素晴らしいのです。このインドの地には、何人かの偉大な魂が生まれました。聖ティヤーガラージャは、彼が書いた有名なキールタン(歌)の中で、「何人か偉大な魂の持ち主がいる。私は彼ら全員の前にひれふす」と歌いました。偉大な聖者であったティヤーガラージャ自身が、そのような謙虚さを示したのです。彼は、偉大な作曲家でもありました。彼は、彼が作ったあるキールタンの中で、神の偉大さを次のように描写 しました。

あなたはあらゆる説明と人間の理解を超えています
あなたの栄光と輝きを推し量ることができるでしょうか?
私はあなたの恩寵を待ち続けてきました
おお、神様! 私の祈りを聞き 私をお救いください
あなたは師の亡くなった息子を蘇らせたお方です
あなたは大蛇カリヤを退治し ヴァースデーヴァとデーヴァキを解放し
ドゥローパディをはずかしめからお救いになられた方です
あなたは クチェラの願いをかなえ 醜いクブジャを美しい姿に変えました
あなたはパーンダヴァを守り 16,000人のゴーピカたちを救いました
あなたは このようなすべての説明や 人間の理解を超えておられます
クリシュナ様! ブラフマ神でさえ あなたの栄光を表現することはできません
私はあなたの恩寵を求めて祈り続けてきました

(テルグ語の歌)

人の心の奥から神聖な感情が湧き上がるとき、それは偉大な帰依の詩となって表現されます。

愛の化身である皆さん!
 今日、皆さんは世界中どこにも平安(Peace)を見出すことはできません。断片(Pieces)が見えるだけです! 実際、人々は、ハートを壊して断片化しています。そうであれば、どうして平安を得ることができるでしょうか? この問題には、ただ一つの解決策があるだけです。神を愛しなさい。神を信じなさい。神に全託しなさい。あなたの人生のすべてを神に捧げ、あなたのすべての行動を、神への捧げ物として進めなさい。あなたのすべての行動を、他の人の役に立つものにしなさい。常に助けなさい。決して傷つけてはなりません。あなたは、自分が問題のない人生を送っていると言うことはできません。次の瞬間に何があなたを待ち構えているか、誰も予測することはできません! もしあなたが、常に幸せでありたいのであれば、他の人々の幸せを祈りなさい。これこそが真のサーダナ(霊性修行)です。霊性とは、単にバジャンを歌い、何らかの礼拝の儀式を行うことではありません。崇高な性質を培いなさい。常に他の人々の役に立ち、善い評判を得るようにしなさい。イエスは、自分の肉体を十字架の上で犠牲に捧げたことで、あれほどの名声を得ました。皆さんもまた、そのような大いなる犠牲の準備を整えておかなければなりません。もしあなたが、犠牲(ティヤーガ)をあきらめて感覚の快楽(ボーガ)に浸っていれば、病気(ローガ)になってしまいます。実際、ティヤーガ(犠牲)こそは真のヨーガ(神との合一)であり、ボーガ(感覚の快楽)はローガ(病気)なのです。ローガの犠牲者になってはいけません。ティヤーガ(犠牲)を培い、ヨーガ(神との合一)を達成しなさい。

親愛なる学生諸君!
 愛の性質を身に付けた人は誰でも、他の人々から決して憎まれることはありません。あなたに愛があれば、野生の動物すらあなたを傷つけないでしょう。太古の偉大なリシ(聖賢)たちは、深い森の中で、野生の動物たちに混じって平和な生活を送っていました。野生のけものたちは、お互いには戦いましたが、彼らはこのようなリシたちには何の危害も加えませんでした。それはどのような理由からなのでしょう? リシたちは、愛という武器を一つ持っていただけでした。そして、この愛が彼らを野獣たちから守ったのです。実際、これらの野獣たちも、このような偉大なリシたちを慕っていました。人間が獲得しなければならないのは、この愛という偉大な武器です。原爆や水爆ではなく、愛のみが私たちを守ることができるのです。私自身の例を考えてごらんなさい。私は愛という唯一の武器を持っています。このため、地球の隅々に至るまで、あらゆる場所から何百万人もの人々が私の周囲に集まっています。私は皆さんに、何か招待状を送ったことがあるでしょうか? いいえ。純粋でけがれのない私の愛のみが、皆さんをここに引き付けているのです。実際、私のハートそのものが非常に強力な磁石なのです。その磁石に備わっている力のために、このように「鉄粉」がこの場所に引き付けられるのです。磁石に引き付けられるためには、鉄にはさびとほこりがついていないようでなければなりません。中には、「スワミは自分のことを強力な磁石だと言っているが、彼は我々を引き付けることができない」と考えます。欠陥は、彼ら自身にあるのみです。彼らの心はさびついています。彼らは、自分の心をきれいにしたときに、初めてスワミの愛の磁石に引き付けられるのです。どうすれば心にたまった「さびやほこり」を取り除くことができるでしょう? さびやほこりを愛でこすって磨くことによって、初めてそれができるのです。インド人であろうと外国人であろうと、すべての人が愛によって心を純粋にしなければなりません。そして、その愛はまったく私心のないものでなければなりません。そのような無私の愛を培えば、あなたは全世界を引き付けることができるのです。エゴは愛のないことであり、愛はエゴのないことです。ですから、愛に満ちた人生を送りなさい。

バガヴァンは、「プレーマ ムディタ マナセ カホー ラーマ ラーマ ラーム」というバジャンで御講話を締めくくられました。

 

出典:http://www.sathyasai.org/discour/2002/d021225.htm
((C) Sri Sathya Sai Books & Publications Trust, Prashanthi Nilayam)

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