|
|
|
|
知性 教育 豊かな学識 (サンスクリット語の詩節) 巧みな言葉は 富の女神までをも誘い (サンスクリット語の詩節) 愛の化身の皆さん! この世界には、二つのタイプの知識人がいます。第一のタイプは完全に物質的な見方をする科学者です。彼らの頭にあるのは、物質的で世俗的な目的と かつて、アスラ(魔神)たちとデーヴァ(神々)が不死の霊水(アムリタ)を手に入れようとして乳海(にゅうかい)を サット・チット・アーナンダ(絶対実在・純粋意識・至福)は、人の本質そのものです。しかし、人はこのことを忘れてしまい、はかない喜びを 人間性という価値とその重要性は、計り知れません。人間的価値が実践されて、初めて人生を取り戻すことができます。人は本当に神の火花です。それゆえ、クリシュナ神は「バガヴァッド ギーター」の中で、「マーマイヴァムショー ジーヴァローカ ジーヴァブーター サナータナ(あらゆる存在の中にある不変のアートマは、私という存在の一部である)」と言ったのです。実際、アンタルヴァーニ(内なる声)は朝から晩まで、人に自らの神性を思い出させようとしています。しかし、人はその内なる声を聞こうとする努力を少しもしていません。人は自らの神性を忘れ、物質的ではかない事物を追い求め、人生の究極の目的から自分を遠ざけてしまっています。名と姿は水泡のように一時的なものです。人は名と姿によって惑わされ、神性という極めて貴重な宝石を見失っています。人には無限の神聖な力が備わっています。赤く熱せられた鉄片は、火そのものよりも役に立つことがあります。身体はこの鉄片に、火は内なる神性に、たとえることができます。それゆえ、人はこの真理を理解し、自らの身体を正しく用いるべきです。 愛の化身の皆さん! この世界において、私たちと共に永遠に留まるのは、真理と善のみです。真理と善の価値は計り尽くせません。ですから、私たちは真理と善を発展させるように努力すべきなのです。名声や名誉を望んではなりません。例えば、私たちは自分たちがテルグのガンジス河の水をチェンナイに供給しているという錯覚に支配されてはなりません。(註:現在インドのS.S.O.ではチェンナイ(旧マドラス)に水を供給する奉仕プロジェクトを行っている。ここではテルグ語地域の尊神からもたらされる水ということで、聖なるガンジス河に例えて表現している)水は人が他に与えるようなものではないのです。それはすべての人に対する自然からの贈り物です。一人ひとりがそれぞれの功罪(プラプティ)に応じて分け前を得ます。人の活動はカーラ(時間)・カルマ(行動)・カラナ(原因)・カルタヴィヤ(義務)がお互いに調和したときにのみ、望ましい結果 を生み出します。したがって、人は誠実な努力をし、適切な時が来るのを待つべきです。行動が実を結ぶとき、人は時と環境に応じてそれを活用すべきです。 青年たち(サイ大学を卒業した男子学生)は、たくさんの良い仕事を行っています。彼らはさまざまな村へ行って、奉仕やバジャンを行い、村人たちを幸せにしています。こうした活動は愛の精神をもって行うべきです。愛よりも偉大なものはありません。皆さんは無私の愛に溢れた人生を送るべきです。 愛の化身の皆さん! 学生の皆さん! すべての身体は電球のようなもので、愛はそのスイッチです。このスイッチを入れたとき、初めて身体という電球が、すべての人に向けて光と幸福を放射することになります。皆さんはスイッチを入れないまま、幸福を享受しようとします。それは不可能なことです。Hridフリ+ Dayaダヤ(慈愛)= Hridayaフリダヤ(ハート)です。皆さんのハートは慈愛に溢れているべきです。皆さんの活動すべてが愛に溢れているべきです。愛に勝る力はありません。いにしえの聖者や預言者は、野生動物のいる森の奥深くに暮らしていたものでした。彼らは何も武器を持っていませんでした。それにもかかわらず、彼らは恐怖という感覚をもつことなく、動き回ることができたのです。彼らの勇気の源は何だったのでしょうか? 彼らは、野生動物から守ってくれるただ一つの武器である「愛」をもっていたのです。 いにしえのバーラタ文化は神聖であり、極めて高貴で、素晴らしく、至福に満ちていました。しかし、皆さんはその偉大さを理解しようとする努力を少しもしていません。実際、皆さんはこのような神聖な文化を軽んじています。皆さんはカースト(世襲的階級)と文化に基づく相違点に惑わされています。実際にはカーストは一つしかありません。それは人類というカーストです。ハートに生じた愛が、真の宗教です。人類全体が一つの家族です。すべての人が兄弟姉妹です。世界全体が一つの邸宅です。このような広い心を発展させたときに皆さんが体験する幸福を、言葉で言い表すことはできません。それゆえ、人類の中に神性を見出すためにあらゆる努力をしなさい。 神の創造は最も素晴らしく、最も神秘的です。夜空には無数の星があります。光の速度は秒速何千マイルものスピードであるにもかかわらず、その星々から発せられた光のいくつかはまだ地上に届いていません。このことから、地球と星との距離が容易に想像できるでしょう。創造そのものがこのように無限であり言語を絶する現象なのです。ですから、創造者がいかに力強く、強大であるかがわかるでしょう! 三界の中で 最も素晴らしく 最も神聖なもの (テルグ語の詩) 単なる言葉だけでは、神の物語を描写することはできません。人は自らの推測に基づいて神を想像し、描写 します。本当のことを言えば、神はあらゆる定義を超えています。この世界にはさまざまなタイプのプラマーナ(体験)があります。それらには、プラティヤクシャ プラマーナ(直接の体験)、アヌマーナ プラマーナ(推測に基づく体験)、ドワイタ プラマーナ(二元性に基づく体験)、そしてアドワイタ プラマーナ(不二一元論に基づく体験)があります。神はこれらすべてのプラマーナを超越しています。 神はアプラメーヤ(計り知れない、定義することができない存在)として知られています。神はあらゆる人のハートの中に、すべての神聖な力と共に存在します。神の美と荘厳さを言葉で言い表すことはできません。神は「ヒラニヤガルバーヤ ナマハー(黄金の母胎をもつ神に帰命し奉る)」といって褒め称えられます。ヒラニヤとは黄金という意味です。それは神のハートの中にあります。摂取した食物のエッセンスが身体のあらゆる部分に行き渡るのと同じように、黄金は神の身体全体に浸透しています。したがって、神は最も美しい存在なのです。神はあらゆる存在の根源的な基盤です。すべてが神の意志に従って起こります。神はあらゆる存在の創造主であるがゆえ、プラジャーパティ(註:創造物の主)と呼ばれます。また、神は最も高い知性を備えているため、ダクシナームールティ(註:「南の像」あるいは「南面 」の意、師としてのシヴァ神を表す)とも呼ばれます。このように神は無数の名を持っています。 人は限られた理解に基づいて、さまざまな名や姿を神として崇拝します。神は、ニルグナム(特定されえぬ
者)、ニランジャナム(純粋な者)、サナータナ ニケータナム( 丘から煙が立ち昇っているのが見えたら、それはそこで火が燃えているしるしです。直接火を見るとき、それはプラティヤクシャ プラマーナ(直接の体験)と呼ばれます。煙だけが見えて火が見えなければ、煙の向こうには火があるだろうと推測します。それは単なる可能性です。これはアヌマーナ プラマーナ(推測に基づく体験)と呼ばれます。ときには、煙のような霧が現れても実際には丘の上には火がない、ということもあり得ます。それゆえ、アヌマーナ プラマーナ(直接の体験)は疑いをもたらします。 人間の中にある神性を直接体験(プラティヤクシャ プラマーナ)するのは、愛のみです。「神はどこにいるか?」という疑問に対し、すぐに出る答えは「神は愛、愛は神」です。同様に、「真理は神」です。真理よりも偉大なものはありません。真理よりも崇高な神性はありません。真理はすべてに浸透しています。国は異なりますが、真理は一つ、ただ一つです。アメリカの真理とか日本の真理とかドイツの真理などというものはありません。こうした区別 をするのは心の狭い人々の性質なのです。私たちの心は狭くも卑しくもありません。私たちは無限なるものの化身です。人は常に自らが真理の化身・愛の化身・至福の化身であることを、自分自身に思い起こさせるべきです。人は霊的な思索や霊的な探求ができる無限の能力を有しています。しかし人は自分の真の本質を理解しているでしょうか? 皿の上にある一握りの海の砂を例にとってみましょう。科学者は砂の色や重さなどから、この砂はどこそこの国のものだと判定します。しかし賢者は全くそのようには考えません。彼らは、砂は神の創造物であり、マーヤー(迷妄)であると言います。このように科学者と賢者の認識の仕方には大きな隔たりがあるのです。科学は半円のようなものです。それはある一点から始まって、別 の点で終わります。それに反して、霊性は源の一点から始まって同じ点に戻ってきます。ですから、それは完全な円となりるのです。それがまさしく神性です。したがって、次のように言われるのです。 プールナマッダー プールナミダム プールナ プールナムダチョヤート
あれも完全 これも完全 このような完全さの化身である神性は、あらゆる人の中に内在しています。しかし、不運にも人は内在する神性を理解しようとする努力を少しもしていません。熟睡しているときに、身体を保護しているのは誰でしょうか? 身体についての知識がなくても身体が完全に機能するのはどうしてでしょうか? 答えは誰も知りません。創造・保護・維持、すべてを担っているのは神です。そのような神聖な力がすべての人に内在しているのです。それにもかかわらず、人は困難に遭うと落ち込み、喜びのときには得意になります。しかし、それが人生のゴールなのではありません。真のゴールとは、喜びや悲しみに左右されることなく、いかなるときにあっても完全な平静の状態を保つことです。喜びとは、二つの悲しみの 愛の化身の皆さん! 愛の化身の皆さん! 今日は私たちの学校の卒業生たちもここに集まっています。彼らはインドのみならず外国のさまざまな地域で、さまざまな種類の奉仕活動に従事しています。そして、こうした活動から彼らは大きな喜びを得ています。ですが、私の考えでは、彼らは地元に留まり、自分の資力の範囲内で、社会に奉仕すべきです。奉仕活動をする上で、他と連携し、奉仕がビジネスになってしまうのは良いことではありませんし、その必要もありません。できる限りそれぞれが自分の村で奉仕活動を行い、村人に幸せを与えるべきです。地方にはさまざまな領域の奉仕活動が幅広くあります。 2、30年前に、私はマイソールのような大都市に移住しないかと誘われました。私のために大きな宮殿を用意するとも言われました。しかし、私には宮殿は必要ありません。私はこの小さな村にいなければなりません。私は生まれたこの地を捨てたことはありません。このような場所であってもなお、私は膨大な仕事をなさなければなりません。そういうわけで、私はプッタパルティから移る話を断りました。当時のプッタパルティは、近代的な設備もない、人里離れた村でした。プッタパルティに来るには、一番近い駅であるペヌコンダで汽車を降りて、そこから牛車で旅をしなければなりませんでした。これが当時の交通 機関だったのです。しかし、今や直行便の飛行機で快適にプッタパルティまで来ることができます。当時、医者にかかるためには、アナンタプールまで行かなければなりませんでしたが、今は目と鼻の先にスーパー スペシャリティ ホスピタルがあります。かくして今、プッタパルティには、このようなあらゆる近代的な設備と便宜が整えられています。ゆえに、住む場所として村に勝るところはありません。 村は国家にとって最も価値ある資産です。もし、皆さんが村人に適切に奉仕をすることができるのなら、それに勝る偉大な奉仕はありません。「村への奉仕は、ラーマ(神)への奉仕」です。町や都市で行われる奉仕には満足できるものはありません。都会の人々は、無関心で自己中心的です。たとえ隣家に泥棒が侵入しても、彼らは気にしません。一方、村では、ほんの小さな事件でも村人全員が集まります。そのような種類の一体性と同朋意識が、村にはまだ存在しています。一体性のあるところに神性があります。神性があるところに至福があります。ですから、皆さんは今住んでいる村の発展のために誠実に働きなさい。このようにして、皆さん全員がそれぞれの村の発展のために働くべきです。皆さんの活動は政治的活動のようになってはなりません。さまざまな種類の人々と関わることによって、それは政治的活動に変わります。私はそのような状態を好ましく思っていません。どこにいても、バジャンに集い、分離状態を許してはなりません。すべてが一つになるべきです。どこにいても、協力と一体性の精神で奉仕活動に従事しなさい。不調和を起こしてはなりません。 長い間、インドは平安に満ちた国で、すべてのインド人たちは大家族のようにまとまっていました。しかし、今の状態はどうですか? 昔は誰かが村を訪ねてくればいつでも、村人全員が訪問者を取り囲んで、親切に相手の暮らし向きについて尋ねたものでした。今日、そのような愛と一体性の精神は完全に失われています。どこに行こうとも相違点が指摘され、些細なことで緊張が生じています。特にインド独立の後は、国のほとんどの地域で暴動や騒乱が起きています。人命の尊厳が完全に失われてしまったかのようです。人命の価値はなくなってしまいました。人々は 故国のすべての村が、あらゆる点で発展すべきです。皆さんは、ハイデラバードやマドラス、アメリカなどから奉仕活動に参加するためにやって来ました。とはいうものの、その必要性はどこにあるのでしょうか? これ(註:プッタパルティの近隣の村への奉仕活動、通 称グラマセヴァ)は、自分たちの商品を売るために、さまざまな地域からさまざまな人々が集まる定期市ではありません。あなたのいるところがどこであっても、あなたの奉仕であなたの住む地域を発展させなさい。ある場所に住む人が別 の場所に行って、その地域に貢献しようとするかもしれません。しかし、この種の異なる出身の人々の交じり合いは、目的そのものの質を低下させます。それは混乱で終わり、堕落に変わります。不必要な差異で、心が混乱したり堕落する余地を与えてはなりません。あなたは常に純粋な心で奉仕活動に従事すべきです。一体性は純粋性をもたらし、次に純粋性は神性へと至ります。それゆえ、この一体性・純粋性・神性という一体不可分の関係を常に念頭に置き、それを達成するように努めなさい。 皆さんが犠牲の精神で共に集まり、共に働くことは差し支えありません。しかし、こうしてさまざまな地域の人々がグラマセヴァのために集うなら、村にとって良いことは起こりません。各々が自らの思いをもっており、いっしょになることで堕落します。そうして、その場所はビジネスセンターになってしまいます。霊性はビジネス活動ではありません。霊性とは神聖な邸宅です。それは一体性につながっています。多様性における一体性こそが、皆さんに幸福をもたらします。皆さんが一体性の原理を培うことを、私は強く望みます。そのとき初めて、皆さんの従事する奉仕活動に価値が生まれ、神聖なものとなるでしょう。あらゆる種類の差別 によって神聖な奉仕活動を汚してはなりません。 小さな例を挙げましょう。金は金鉱に埋まっていますが、それを取り出し、精製することによって純粋な24金となり、大きな価値を得るようになります。しかしながら、それに銅のような他の金属を加えるとその価値は下がってしまいます。それだけではありません。輝きもまた失われます。さらにもっと金属を加えるなら、金の価値は全くなくなってしまいます。私たちのハートは金でできた寺院のようなものです。それはヒラニヤガルバです。決してそのヒラニヤガルバを汚してはなりません。それは常に光り輝いているべきです。 愛の化身の皆さん! 翻訳・監修:サティア サイ出版協会 |
|
|||
(C)Sathya Sai Organization Japan 2003 (C)Sathya Sai Publication 2003 |