サイババの御言葉

日付:2004年8月28日・場所:プラシャーンティ ニラヤムのサイ クルワントホールにて
オーナム祭の御講話

神の愛のみが私たちを悲しみから救う

おぉ、人間よ! 汝はただ汝の腹を満たすために大変苦労している。
汝は様々な分野で無数の種類の知識を獲得する。
神を忘れて、朝から晩まで世俗的な知識の獲得と富を獲得することに
すべての時間を費やすことで
どれほど偉大な幸福を獲得したのか
汝自身、内省し問うがよい。

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん!
 飢え、乾き、喜び、そして痛みは人間にとってとても自然なものです。それらは次々に起こります。食べ物は人間にとって不可欠です。しかしお腹を満たすことが人間の存在のすべてでも、最終目的でもありません。人はアハラ(食べ物)を食べるために生まれて来るのではなく、アーナンダ(至福)を体験するために生まれて来るのです。アーナンダに気がつかず、アハラを追いかけることに自分の時間とエネルギーを費やす者は、最終的に自分の人生を無駄 に費やしてしまいます。お祭りを祝う目的は至福を体験するためであり、単に御馳走を食べるためではありません。肉体には食べ物が必要だということは疑いようもありません。しかし、人生は食べ物だけのためにあるのではありません。この真実を忘れて、人間は食べ物と物質的快楽のために不正義な道を歩んでいます。肉体は五大元素でできており、一時的なものです。心(マインド)は思いと欲望の束にすぎません。肉体と心に過度に執着すべきではありません。至福を体験するために努力すべきです。

愛の化身である皆さん!
 人間の肉体は愛から現れました。ですから、私たちは食べ物のためではなく、神の愛のための一生を送るべきです。しかし、人はこの真実を理解していません。人は夜明けから夕暮れまで自分のお腹を満たすために大変苦労しています。人は肉体という贈り物を、本来の目的のためには使用していません。この肉体は汚物の巣窟であり、病気になりやすく、時々変化することがあります。そのような永遠ではない肉体に対して執着を育て、肉体的な喜びのために努力するのは何と馬鹿げたことでしょう?

愛の化身である皆さん!
 私たちは、私たち自身を救済するように人生を送らねばなりません。私たちは神を愛し、神だけを熱望するべきです。あなたの愛は神にのみ向けられるべきで、肉体に向けられるべきではありません。私たちの言葉、行為、そして呼吸そのものはアートマを体験するために意図されているのです。時々、肉体は病気に苦しむでしょう、しかしそれは過ぎ行く雲のようなものです。人間はアートマの永遠なる真理に到達するために生まれました。人の一生はアンナーンヴェシャナ(食べ物の追求)ではなくアートマヴェシャナ(アートマの探求)のために意図されています。アンナーンヴェシャナは病気の原因を与えます。それは過ぎ行く雲のように来ては去ります。そのような過ぎ行く雲について落胆するのは、何と馬鹿げたことでしょう? 私たちはアートマの永遠なる至福を体験するために生まれてきたという真実を、絶対に忘れてはなりません。

愛の化身である皆さん!
 皆さんは聖なるオーナム祭を祝うために、そして、スワミの居る所で喜びと至福を体験するために、はるばるケーララ州からここにやって来ました。とるに足らない事で熱意を弱めさせてはなりません。目の前に立ちはだかるどのような障害も不自由さも気にせず、勇気と信念をもって前進しなくてはなりません。数分前、皆さん全員が祭りの喜びに浸っている時、突然鼻血が出始めました。私は部屋の中に入って血を拭い、そして元気に、まるで何事もなかったかのように出てきました。どうしてこのような神聖なお祝いを、そのようなつまらない事によって中止できるでしょう? 私たちはそのような小さな肉体的不快さによって自信をなくすべきではありません。それらは本質的に束の間のものであり、そのようなものに心を惑わされるべきではありません。病と苦しみは肉体にとって自然なものです。時々、太陽でさえ雲に覆われます。しかし雲は太陽の輝きを減らすことができるでしょうか? いいえ、そんなことはありません。太陽が雲に影響されないのと同じように、皆さんも病や苦しみに影響されずにいるべきです。そのような勇気と信念と決意を育てれば、皆さんはいかなる苦しみにも気が滅入ったり落胆したりすることはないでしょう。

愛の化身である皆さん!
 神聖な行為を行うことによって、私たちの時間を神聖にするべきです。これが今日、私たちが学ばなくてはならない霊的な教えです。訪れる困難と苦しみを克服して初めて、私たちは超越的な至福を体験することができるのです。決して困難を恐れてはなりません。勇気をもってそれに立ち向かいなさい。そうして初めて皆さんの中に人間性が開花するのです。一度、アートマの至福を体験すれば、困難や苦しみに悩まされることはなくなります。

愛の化身である皆さん!
 喜びあふれるお祝いの只中で、私の肉体のささいな不調が皆さんに不安を引き起こしました。決して不安や心配につけ入る余地を与えてはなりません。皆さんの恐怖と不安を鎮め、喜びを与えるために私はすぐに戻って来ました。この世界では、多くの困難が私たちのもとにやって来ます。本当のことを言えば、それらは単に不安を引き起こすだけであって、あなた方に害を及ぼすことはできないのです。

オーナム祭はケーララ州の最も神聖なお祭りです。皆さんはこのお祭りの意義とメッセージを理解し、それを実践しなくてはなりません。オーナム祭は私たちの喜びを他の人々と分かち合うための機会です。困難を体験せずに幸せを体験することはできません。「Na Sukhat Labhate Sukham」(誰も幸せから幸せを引き出すことはできない)。幸せは困難に出会って価値を得るのです。克服できそうもない困難でさえ、勇気と自信をもって立ち向かえば、薄い霧のように消え行くことでしょう。問題は山のように見えるかもしれませんが、皆さんの心の中に恐れと不安が入り込む余地を与えてはなりません。心は狂ったサルのようなものです。それは困難によって簡単に動揺します。ですから、やって来る困難を払いのけなさい。決してそれが優勢になるのを許してはなりません。心は霊性の道に障害として立ちはだかるマーヤー(迷妄)のベールです。心の奴隷になってはなりません。心を征服しなさい。そうして初めて、皆さんは神へ到達できるのです。しかし、皆さんはマーヤーにほかならない心の気まぐれに夢中になっています。心の命令は無視するべきです。私たちは、心は人間の最も重要な側面 であると考えています。しかしながら、心の気まぐれと思いつきに流されてしまうと、皆さんは危険と困難に導かれます。自分を心に服従させてはなりません。

愛の化身である皆さん!
 心をコントロールする者は真のマニシ(人間)です。心をコントロールできない者はまったく人間ではありません。もし、皆さんが気まぐれな心の持ち主であり、とるに足らない問題に落胆するのであれば、どうして自分自身を人間と呼ぶことができるでしょう? 過度に心配することなく、心が見せかけている問題を克服するために努力するべきです。この世界には神の愛よりも偉大なものはありません。ですから、私たちは神へ向かう道に障害として立ちはだかる心を超越しなくてはならないのです。

愛の化身である皆さん!
 あなた方は愛より生まれ、愛によって維持されています。愛に満ちた人生を送ることにより、あなたの人生を神聖なものにするべきです。愛を人生の基礎そのものとして扱いなさい。とるに足らない問題に屈服するのであれば、あなたは人間と呼ばれるにはふさわしくありません。小さな蟻でさえ、立ちはだかる障害を克服することができます。問題は人間だけに限ったことではなく、鳥や獣や昆虫でさえ問題を抱えているのです。

聖者ティヤーガラージャは唄いました。

おおラーマ、あなたはチーマ(蟻)からブラフマーまで、
すべてのものに浸透しておられます。
あなたはシヴァの中にも、
ケーシャヴァ(クリシュナ)の中にもおられます。
どうぞ私の面倒を見てください。

(テルグ語の詩)

一匹の蟻の中に存在する同じ神性が、人間の中にも存在します。同様に、困難もまたすべてにとって共通 のものです。蟻が経験する苦しみは人間のそれと似ています。あれほど小さな生き物である蟻でさえ苦しみに耐えることができるのに、なぜ人間は同じことができないのでしょう? 人は食べ物と習慣に影響を受け、それにより自分の心の奴隷になってしまったのです。それが、人が苦しみに耐えられない理由です。私たちは不屈の精神で人生の難局に立ち向かい、困難を払いのけなくてはなりません。決して困難に脅されてはなりません。勇気をもって困難に立ち向かい、それらを克服して初めて皆さんは神に到達できるのです。

愛の化身である皆さん!
 神の愛以外に何も求めるべきではありません。愛より優れたものはこの世界には存在しません。あなた方は金、銀、ダイヤモンドなどを最も価値あるものとして考えます。事実、いわゆる価値あるものすべては人を迷わすためにあるのです。私たちはそのような世俗的な所有物に関心をもつべきではありません。代わりに心を神に焦点を合わせるべきなのです。神を自分のゴールとして日々の活動を行いなさい。そうして初めて、あなた方の人としての生を受けた目的が達成されるのです。私たちは神の恩寵を獲得するために努力すべきであり、困難と損失によって妨げられてはなりません。神を味方に付けたとき、成し遂げられないものはありません。あらゆる困難と苦しみはたちまちの内に消え去ります。そのような全能の神が私たちに内在するというのに、なぜ私たちはとるに足らない事を心配する必要があるのでしょう? 愛は困難を克服するための勇気を私たちに与える神の力です。愛の力で何ごとも成し遂げることができます。私たちは罪を恐れるべきであって、困難を恐れるべきではありません。私たちは、ダイヴァ プリーティ、パーパ ビーティ、そしてサンガ ニーティ(神への愛、罪への恐れ、そして社会の中の道徳)を発展させなくてはなりません。罪への恐れを育てる代わりに、私たちは罪の奴隷になっています。神の中に拠り所を求める代わりに、私たちは困難に自分自身を屈服させています。社会の中の道徳は神への愛へと導き、それは罪への恐れへと導きます。それ故、私たちは社会の中の道徳を維持し、自分自身を神へと捧げなくてはならないのです。

ティヤーガラージャはかつて祈りました。「おお、神よ! 私は罪への恐れについて深く心配しています。私はあなたの愛に全託することができません。どうぞ、あなたの神の愛の前にひれ伏すための信念と強さを私にお授けください。困難に対する恐れを克服する力を私にお与えください」私たちは自分の人生においていったい何を成し遂げたでしょう? 絶え間ない神の憶念の目的とは何でしょう? 絶え間なく神を憶念する者は、自身を罪深い行為から遠ざけ、神への愛を育てることができます。神への愛をもつこと以上にすばらしい幸運はあり得ません。人はその偉大な宝を得るために努力しなくてはなりません。人は悲しみや、サーダナ(霊性修業)で遭遇する困難に妨害されてはなりません。

愛の化身である皆さん!
 神への愛というすばらしい幸運を手にするために、皆さんはここに集まりました。決して悲しみと困難に征服されるべきではありません。悲しみと罪は霊性の道における障害物です。それらはまるで波のようなものです。水の中に入り泳ぐには、押し寄せる波をかき分けなくてはなりません。そうして人は前に進むのです。これと同じように、人生の流れの中で、もし前に進みたいのであれば、悲しみと罪という押し寄せる波をかき分けなくてはならないのです。子どもから大人まですべての人が、神の愛を獲得するために努力しなければなりません。この神の愛のための苦闘は人間の人格を形作ります。人格とは何を意味しているのでしょう? それは背丈や体重、強靭な体を意味するのでしょうか? いいえ、そう考えるのは間違っています。悲しみと困難に妨げられることなく、人は勇気をもって前進し、神の愛を獲得するために困難に挑まなくてはなりません。それが人格の本当の意味です。事実、神はすべての人にこのような人格をすでに与えているのです。不幸にも私たちはこの真実に気づかずにいます。「Person/パーソン」(人)という言葉は、神から人に与えられた偉大な神の力、という意味を含んでいます。私たちの祖先はこの神の力を「Persona/ペルソナ」と呼びました。これは一人ひとりの人間に与えられた神の偉大な贈り物です。私たちはこのすばらしい宝を保護することができません。悲しみや困難は来ては去って行く雲のようなものです。なぜそれを恐れる必要があるでしょう? 私たちは人格の中に、内在する永遠なる神の本質をもっているのです。ですから、潜在する神性を絶えず意識している限り、まったく何も恐れる必要はないのです。勇気と信念をもって前進し、人生の目的に到達しなさい。皆さんが様々な不安の時を経験するのは、このような勇気を教え、神への信仰を強めるためにほかなりません。

愛の化身である皆さん!
 スワミは、少し前にスワミが体験した肉体的な苦痛を、皆さんが大変心配していることを知っています。皆さんはこの肉体をとても心配しています。結局のところ肉体の本質は物質なのだという事実を理解し、納得しなさい。肉体は水の泡のようなもので、心は狂ったサルのようなものです。この狂ったサルを恐れる必要はありません。これらの過ぎ行く雲を心配すべきではありません。それらは来ては去る訪問者のようなものです。私たちは神以外の何ものでもないアートマ タトワ〔アートマの真の性質、アートマの本質〕にしっかりと定着しなくてはなりません。アートマ タトワに対する完全な信頼を育てなさい。それさえあれば、あなたはあらゆる方法で守られるのです。

愛の化身である皆さん!
 神は、神の意志によっていかなることでも行うことができます。すべての力をもつ神が常にあなたと共に、内に、周りに居るのに、どうして恐れる必要があるでしょう? 大きな勇気と信念を身につけて進みなさい。この世界で、神への信仰ほど力のある勢力はあり得ません。

愛の化身である皆さん!
 この子ども達は〔※お祭りの始めにスワミの御前で踊りと劇を披露したケーララ州のヴァルビカスの子ども達〕、みんな神の前で神聖な瞬間を過ごすためにここに集まりました。彼らは本当に幸運です。彼らの幸運は彼らの両親が獲得した功績の結果 なのです。(ひとりの少女を指差されながら)ここに小さな女の子がいます。彼女は少し前、グループダンスプログラムに参加しました。彼女は練習の中で大変な集中力を培ったので、踊っている間、自分のステップをグループのほかの少女たちと常に合わせることができました。(スワミは金の鎖を創り出され彼女の首にかけられました。)

愛の化身である皆さん!
 もし、もう一度皆さん全員が子どもになることができれば私はとても幸せです。子どもは怒り、情欲、嫉妬、うぬ ぼれ、そしてエゴという悪い性質をもつことは決してありません。イエス キリストはいつも子どもたちの無垢な性質を喜んでいました。ある時、イエスは群集の中にいた一人の母親のひざから小さなこどもを抱き上げて言いました。「私はこの小さな子どもが大好きです。彼女は神のすべての資質をもっています。純粋でエゴもなく、完全な至福の中にいます」子どもは本質的に神です。大きくなるにつれ、子どもは過度の欲望、執着、怒り、嫉妬などといった悪い性質を育ててしまいます。年令を重ねるとともに、悲しみと困難もまた増します。ですから、人は自分の欲望をコントロールできるよう努力すべきなのです。それは欲望に上限を設けること(節制)です。もし、このコントロールを身につけることができれば、あなたは神の力の影響下にあります。さもなければ、あなたは欲望の力に惑わされ、決して出ることができない渦巻きにはまってしまうことでしょう。単純で純粋無垢な子どもは、神への道です。

愛の化身である皆さん!
 私はあなた方に、少なくとも一日に一分間、子どもになってほしいと思います。皆さんは子どもの特徴である気高い性質を見習うべきです。たとえば、あなたが欲望に悩まされているとすれば、欲望はあなたの気高い性質にふさわしくないとみなして追い払いなさい。そうして初めて、あなたは胸を張って歩けるのです。数分前、私の鼻はひどく出血していました。もし、私がこの肉体の病に無力に征服されていたならば、それはもっと悪化していたことでしょう。ですから、私はこの肉体の困惑を無視することにし、この身体に何が起こるか気にせず、しっかりと真直ぐに立っていました。私は顔を洗い、すぐに講話をするために戻って来ました。そもそも、この肉体とその中の血液循環は、私たちが摂取する食べ物のみにより栄養を与えられ、育てられているのです。もし、自分自身の体をコントロールできないのであれば、私たちの生きる目的とはいったい何なのでしょう? どこにいようとも私たちは肉体を自分のコントロール下に置かねばなりません。そうして初めて、私たちは本当の人間となり、神に、より近づくことができるのです。肉体と心をコントロールすればするほど、あなたは神のより近くに行けるのです。

事実、愛はあなたをより神の近くへと連れて行く唯一の特性です。愛よりも偉大なものはありません。愛は神の属性です。愛は神です。愛の中に生きなさい。この高貴な性質を培うならば、あなたは人間と呼ばれるに値します。この神の愛はすべての人に、いいえ、すべての生き物の中に循環している血液のようなものです。もし、私たちがこの普遍なる愛を培うならば、すべての人間だけでなく生きとし生けるすべてのものを愛することができるのです。愛は神です。神は愛です。ですから、愛を込めて、すべての人を心の中に受け入れなさい。誰に対しても怒りや嫌悪感を見せてはなりません。

愛の化身である皆さん!
 すべての人に浸透する愛の本質は一つであり同じものです。これについては反対する余地もありません。このような普遍的な愛を培うとき、それはあなたの息吹きそのものになり、神にとってより愛おしいものになるのです。ですから、そのような純粋で汚れのない無私の愛を培いなさい。隣の子どもを自分の子どものように愛しなさい。みんな愛の化身なのです。この神聖なオーナム祭のメッセージは愛です。このお祭りは、この愛のメッセージをすべての人間に広げるために行われています。事実、私たちはこの神聖な愛を培い、他の人々と分かち合うために生まれてきたのです。もし、この努力を怠れば、私たちの一生は無駄 になってしまいます。
 数分前、私が鼻血を出していた時、何人かの医者たちは私に絶対安静にし、講話をするために出て行くべきではないと忠告しました。私はなぜかと尋ねました。医者たちは、もし私が行って話すなら、再び出血が起こるだろうと説明しました。そして私は「いいだろう、どうなるか見てみることにしよう!」と返事したのです。このように私は勇気と自信をもって問題に真正面 から立ち向かいました。このように、困難な状況に遭遇したとき、私たちは残念に思ったり、落胆したりするべきではないのです。私たちは勇気をもってそれに立ち向かわなければなりません。そうして初めて私たちはその状況を克服できるのです。

愛の化身である皆さん!
 肉体的または精神的な苦しみに遭遇したときはいつでも落ち着きを失ってはなりません。落胆してはなりません。代わりに、その問題に真正面 から立ち向かい、あなたに勇気と自信の感覚を教え込むようにしなさい。間違いなく人生には、悲しみや困難を経験しなくてはならない状況が起こります。愛する両親がこの世を去るとき、私たちは深く悲しみます。そのような困難な状況において、取り乱す代わりに、この肉体という贈り物を与えてもらったことへの感謝を両親に表し、勇気をもってその試練に向き合うことを勧めます。

愛の化身である皆さん!
 話が長くなって皆さんが不便を感じていなければよいと願います。私がこの長い講話を行っているのは、皆さんの中に勇気を与えるためです。私が鼻血に苦しんでいるとき、子どもたち全員が隣の部屋で心配そうに待っていました。私は子どもたちに「心配はいらない。私は外へ行きこの病のために強い薬を飲もう。それは困難な状況に直面 した中での私の勇気と自信なのだよ。実は、この勇気が私の本当の強さなのだ。さあ、行こう!」と言いました。子どもたちは皆、血のついたタオルを集め、それを見て私はとても心が痛みました。それらのタオルを洗えば、血痕はすぐに消えてしまいます。それと同様に、神の愛だけが私たちの悲しみを洗い流すことができるのです。ですから、そのような神の愛を培いなさい。皆さんのあらゆる悲しみと困難は取り除かれることでしょう。

(バガヴァンは「プレーマ ムディター マナセ カホー」のバジャンでご講話を終えられました。)

 

翻訳・監修:サティア サイ出版協会
http://www.sssbpt.org/Pages/Prasanthi_Nilayam/Onam_Discourse.htm

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