サイババの御言葉

2010年ババ様御降誕85周年記念サティヤ サイ プレ世界大会用
日付:2004年10月20日・場所:プラシャーンティニラヤム
ダサラ祭期間のアヴァター宣言の日の「I am I」(私は私) に関する御講話A

あなたは誰か? 私は私

平安は消え去ってしまった
真理は乏しくなってしまった
どちらも心〔マナス、マインド〕がその原因
ああ、バーラタ〔インド〕の勇敢な息子たちよ! 聞きなさい!

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん!

バーラタ人というのは、バーラタの国に生まれた人だけを意味するのではありません。バーラタの文化がその母親であり、バーラタの国が父親です。バーラタ人とは、この両親を信じ、この両親のもとで生きる者のことです。

多くの高貴な魂たちがバーラタに生を受け、バーラタ国の偉大な文化に従い、人々に模範を示しました。シュリ・シャンカラーチャールヤ〔アーディ・シャンカラの別名。アーチャールヤは師の意〕はそうした偉人の一人で、バーラタの文化を国中至るところに広め、不滅の名声を得ました。アーディ・シャンカラはアドワイタ〔 不二一元論 ふにいちげんろん 〕の哲学を説きました。シャンカラから四世紀後には、シュリ・ラーマーヌジャーチャールヤ〔ラーマーヌジャ〕が出て、神へのバクティ(信愛)とプラパッティ(全託)を強調するヴィシシュタードワイタ〔条件付不二一元論〕の哲学体系を唱道しました。シュリ・ラーマーヌジャーチャールヤの二世紀後には、シュリ・マドゥヴァーチャールヤが登場し、ドワイタ〔二元論〕の哲学体系を広めて、さまざまな体系の間で揺れ動いていた人々に、信愛の道を強調しました。しかしながら、三つの学派の根底にある根本原理は同一であり、それはアートマタットワ(真我の原理)です。

シュリ・シャンカラーチャールヤのアドワイタ哲学(不二一元論)は、ジーヴァ(個我)とブラフマン(大我)の唯一性を主張しています。シュリ・ラーマーヌジャーチャールヤのヴィシシュタードワイタの哲学〔条件付不二一元論〕は、ジーヴァとブラフマンは異なることを前提としています。シュリ・マドゥヴァーチャールヤは、実際に存在するのは、デーハートマ バーヴァ(肉体意識)、ジーヴァートマ バーヴァ(個別化した神の姿)とパラマートマ バーヴァ(普遍化した魂、至高我)という三つの概念であると論じました。

誰も特定の思想の学派にしがみついたり、他の学派をあざけったりする必要はありません。特定の哲学学派への固執という点については、それは個々人の心の構造によります。シュリ・シャンカラーチャールヤは、「いろいろな布があっても、布の元である糸は同じである」と強調しました。シュリ・ラーマーヌジャーチャールヤは、「布は何本もの糸を織って作られる」と説明しました。人は、ドワイタ、ヴィシシュタードワイタ、アドワイタという三つの哲学学派の背後の根底にある原理を認識しなければなりません。

*飾りは多いが、金は一つ 牛の色は多いが、牛乳は一つ
生き物は多いが、内在者は一つ
国籍は多いが、人間は一つ

アーディ・シャンカラは32歳という短命でした。シュリ・シャンカラーチャールヤ、シュリ・ラーマーヌジャーチャールヤ、シュリ・マドゥヴァーチャールヤが主張した哲学には、ドワイタ、ヴィシシュタードワイタ、アドワイタという別々の名前が付いていますが、この三種の根底にある本質は一つであり、それはアートマタットワです。このことは、さまざまな名前や形をした装飾品のベースとなっている金を例にあげて説明することができます。

人は三つの哲学学派の間にある根本的な一体性を悟ることなく、個々の哲学学派に固執して互いをあざけっており、このことが世界の人々にバーラタという国を大いに誤解させているのです。

エーカートマ サルヴァ ブータンタラートマ
(唯一なるアートマがすべての生き物に宿っている)

この真理を説くために、アーディ・シャンカラはいくつかの例を用いました。シャンカラは装飾品を一つ手に取って、これを作っている金属は金であると説いて、根本原理を詳述しました。これと同じ原理を、シュリ・ラーマーヌジャーチャールヤは別の方法で説きました。ラーマーヌジャは、この飾りの基の材質は金ではあるが、これは鎖の形をとっているのだから、金の鎖と呼ぶべきだと主張しました。シュリ・シャンカラーチャールヤは、アドワイタ哲学を主張する一方で、

*エーカメーヴァ アドヴィティーヤム ブランマー
(神は唯一無二である)


というヴェーダの格言を引用しました。しかしながら、シュリ・ラーマーヌジャーチャールヤは、この考えを認めませんでした。ラーマーヌジャの見解は、ビムバ(物体)〔月や太陽の表面〕がなければ、どうやってプラティビムバ(影像)〔水に映った月や太陽の反映〕が存在することなどできようか、というものでした。ラーマーヌジャはそのようにして、物体と影像の唯一性を説き、それをヴィシシュタードワイタ(条件付不二一元論)と名付けました。

これについてのもう一つの例に砂糖きびの汁があります。砂糖きびの汁は、多種多様な砂糖きびから抽出され、多くの砂糖菓子がその汁で作られています。さて、同一であった砂糖きびの汁が、さまざまな形をとったのです。シュリ・シャンカラーチャールヤが甘い汁と砂糖きびの唯一性を主張したのに対し、シュリ・ラーマーヌジャーチャールヤは汁がとった別の形について詳説しました。

このように、三人の偉大なアーチャールヤ(師)の時代から今日に至るまで、三つの哲学学派の間には多くの議論反論がありました。けれども、現代の学生は三つの哲学学派のどれも信じていません。学生たちはこれらの体系を想像の産物と見なして、ただ脇に置いているのです。

砂糖きびから作られた砂糖は、いろいろなお菓子を作るための主な材料です。甘いのは砂糖です。それと同じように、全宇宙の源であり支えであるのはブラフマンです。どこを見ても、さまざまな姿をとった神(ブラフマン)の顕れが見つかります。姿形は変わるものであり、実際には存在しません。  ブラフマンのみが永遠で不変なる原理です。だからこそ、シュリ・シャンカラーチャールヤは、

ブランマ サッティヤム ジャガット ミッティヤー
(ブラフマンのみが現実であり、世界は非現実である)

と宣言したのです。シュリ・シャンカラーチャールヤ、シュリ・ラーマーヌジャーチャールヤ、シュリ・マドゥヴァーチャールヤという三人の偉大なアーチャールヤは、同じ原理を広めたのであり、それがアートマタットワなのです。

ウパニシャッドは、全宇宙には同じアートマ原理が浸透していると明言しています。真理は、

*エーカートマ サルヴァ ブータンタラートマ
(唯一なるアートマがすべての生き物に宿っている)

イーシュワラ サルヴァ ブーターナーム
(神は万物の内在者である)

イーシャーヴァースヤム イダム サルヴァム
(全宇宙は神で満ちている)


というウパニシャッドの格言に含まれています。

雨、川に流れ込む水、川を支える川底の砂、これらはすべて一つであり、唯一なるものです。すべてはブラフマンです。この宇宙のすべてのものはブラフマンなのですから、何ものも、軽視されたり無視されたりできません。ブラフマンの原理は、英語では「ディヴァイン」〔神〕と呼ばれます。ところが、多くの無知で皮肉っぽい人たちは、ディヴァインは「ディープ ワイン」〔強い酒〕だといって、アルコールを飲んでいます。私たちは、そのようなこじつけには注意を払わず、神性の根底にある甘さはただ一つであることを悟らなければなりません。偉大なバーラタ文化におけるこの唯一性は、古来伝えられてきました。その偉大な伝統を保ちつつ、すべてのものは、それが蟻であろうと動物であろうと人間であろうと、まさにブラフマンであると見なしなさい。

人々の中には、このことに関して、人間と動物は等しいのだろうかと疑問をもつ人もいます。アートマの原理に関する限り、その通りです。しかしながら、動物の行動パターンは人間のそれとは異なります。この面を考えれば、動物と人間は異なるけれども、根底にあるジーヴァ タットワは同一である、と結論付けてもよいのです。ジーヴァ タットワという基盤の上では、決して生き物の間に違いを設けることはできません。したがって、

サルヴァム ブランママヤム ジャガット
(全宇宙はブラフマンで満ちている)


のです。

この真理は簡単な例で説明できます。これは白い布で、あれはサフラン色〔濃い黄色〕の布です。色は違いますが、布は同一です。色は違えば別の使い方をされるかもしれませんが、布は同一です。布は根源です。人は根源の唯一性を認識しなければなりません。ひとたび根源を認識すれば、あらゆる相違は一瞬にして消滅します。残念なことに、今、私たちは名前と形を重要視し、すべての名前と形の基盤と根源を忘れています。その結果、数え切れないほどの困難と悲哀に遭っているのです。

アーディ・シャンカラは、アドワイタの原理を、有名な「バジャ ゴーヴィンダム」という歌で次のように美しく説いています。

バジャ ゴーヴィンダム バジャ ゴーヴィンダム
ゴーヴィンダム バジャ ムーダマテー
サンプラープテー サンニヒテー カーレー
ナヒ ナヒ ラックシャティ ドゥクルンカラネー

(ゴーヴィンダの御名を唱えよ、ゴーヴィンダの御名を唱えよ、
ゴーヴィンダの御名を唱えよ、ああ、愚か者よ!
最期の時が近づいたとき、
文法の規則はおまえを助けに来はしない)

最期の時が近づいたら、神の御名以外、何ものも皆さんを助けることはできません。ですから、神の御名を唱えなさい。それゆえ、シュリ・シャンカラーチャールヤは、世界に訓戒し、目覚めさせ、教えたのです。

人がこの物質界で人生という逗留期間に直面する悲しみや困難、そして、神の恩寵に庇護を求める必要性をさらに説くために、シュリ・シャンカラーチャールヤは次の四行詩を作りました。

プラナピ ジャナナム プラナピ マラナム
プラナピ ジャナニー ジャタレー シャヤナム
イハ サムサーレー バフドゥスターレー
クルパヤー パーレー パーヒ ムラーレー

(おお、神よ! 私はまた生死の輪廻に捕らえられてしまいました
私は母の胎内に横たわるという激しい苦痛を味わっています
世俗の生という大海を渡るのは大変困難です
どうか私にこの大海を渡らせて、解脱を授けてください)

これに関して、何度も何度も生まれては死ぬことを まぬが れられないというのはどういうことか、分析しなければなりません。デーハ(体)は生死の繰り返しを被りますが、アートマは永遠です。アートマが内在者として体の中に留まっている限り、体には意識があります。アートマが体を離れた瞬間に、体はジャダ(不活性)になります。この現象が死と呼ばれているものです。この真理を悟ることができずに、人は自らを悲しみにさらしているのです。生と死は外側の姿形だけのものであり、アートマのものではありません。

これにまつわる短い話があります。昔、哲学を学ぶ息子がいて、ヴェーダを習っていました。ヴェーダの学習を修了するころ、息子の母親は四十年の生涯を終えました。母親は四十歳で肉体を離れたのです。息子は深い悲しみに浸っていました。すると、グルが息子を呼んで、こう説いて助言を試みました。

「おまえは誰を母親だと考えているのだ? 体か? そうではない、体はおまえの母親ではない。おまえは母親が去った遺体のことを嘆き悲しんでいる。体はおまえの目の前にあるじゃないか。ならば、なぜ涙を流しているのだ? 体を離れたのはチャイタンニャ シャクティ(意識の力)だ。つまり、チャイタンニャ シャクティは、おまえの父親と母親を表しているのであり、姿形への礼式や執着を表しているのではないということだ。むろん、いくらかの間は肉体の姿との関係が存在するというのは事実だ。しかし、それが過ぎると体は存在を終える。この真理を悟るとき、おまえは肉体との関係の無益さを理解するだろう」

物体は異なるかもしれませんが、物体の根源と支えはただ一つです。同じ根源がさまざまな名前と姿をまとうのです。変化を免れないものである名前と姿への依存心を大きくしてはなりません。ムーラーダーラ タットワ〔根本原因の原理〕に基づいたこの簡潔な真理は、高度で仰々しい哲学として、さまざまな人々にさまざまに説かれてきました。それは多少の誤解を与えきました。実際には、シュリ・シャンカラーチャールヤのアドワイタの哲学と、シュリ・ラーマーヌジャーチャールヤのヴィシシュタードワイタの哲学の背後にある根本的な原理は、同一です。

愛の化身である皆さん! 学生諸君!

今日、私たちは、それほど偉大で崇高な哲学を、とても軽々しく考えています。シュリ・シャンカラーチャールヤの哲学は、実際には深遠であり、偉大な真理を簡潔で美しい詩で表現しています。この根本的な哲学を完全に明らかにするには、どれほど多くの説明をしても不十分です。

シュリ・シャンカラーチャールヤは、「バガヴァッドギーター」のすばらしい解説書も書いています。そのギーターの解説書の中で、アーディ・シャンカラは、ドワイタ〔二元論〕の中にはアドワイタ〔不二一元論〕があり、アドワイタの中にはドワイタがあると説いています。加えて、アドワイタとドワイタの概念の中には、ヴィシシュタードワイタ〔条件付不二一元論〕も含まれています。ですから、三つの哲学学派はすべて、同じゴールへと導くものであり、それらの根本的な意味は、

ブランマ サッティヤム ジャガンミッティヤー
(ブラフマンのみが真実であり、世界は非現実である)


というものです。

全世界は無数の名前と姿を含有しているように見えます。そうした名前と姿の網にかかってはなりません。名前と姿が脇に置かれ、根本的な源が確認されたとき、初めて真理を認識することは可能となるのです。そして、その真理とは、

プラグニャーナム ブランマー
(常時統合意識はブラフマンである)


です。これは、

プラグニャーナム ブランマー
(常時統合意識はブラフマンである)


です。この意識とは、

アヤム アートマ ブランマー
(この真我は神である)


です。マハーヴァーキャ(大格言)「タットワマスィ」を分析するなら、それは皆さんを、「私はそれである」そして「それは私である」という気づきへと導いてくれるでしょう。この真理を悟ることができたとき、皆さんは「私」の原理が、この宇宙のすべてのものに、一体性の原理として横たわっていることを見いだすでしょう。私たちは、普遍なる「私」の原理を認識しなければなりません。

この件に関する議論反論にのめり込んで時間を無駄にするのは、不毛な行です。皆さんが悟らなければならない唯一の様相は、「私はブラフマンである」というものです。誰かが皆さんに、あなたは誰かと尋ねたとき、適切な答えは、「私は私です」、「私は言葉です、私は姿です、私は名前です」というものでしょう。「私」が、すべてを表し、すべてを説明しています。あなたは誰かと尋ねられたら、自分の名前を答えてはなりません。名前は体に付けられた名前を表しています。あなたは体ではありません。ですから、「私は私です」と答えなさい。誰も皆、この一体性の状態に到達するよう努力すべきです。

ヴェーダーンタの概念は、終わることのない議論反論へとつながります。そこに入り込んではなりません。常に「私は私」という自覚のもとにいるようにしなさい。「私」の原理は名前と姿を超越しています。それは、ブラフマタットワという唯一無二なる実在を表しています。

あなたは誰かと尋ねられたら、皆さんは「私は私です」と答えなさい。同じように、あなたが誰かにあなたは誰かと尋ねても、相手の答えは「私は私です」というものでしょう。ですから、すべては「私は私」なのです。皆さんが「私は私ではない」と考えるときにだけ、いくつもの疑問が生じるのです。

親愛なる学生諸君!

皆さんは最終的に「私は私」という固い決意をしなければなりません。自分を体と同一視して、「私は子どもです」、「私は若者です」、「私は老人です」等々と言うべきではありません。こうした相違は年齢という要因に関するものです。老年期の次の段階は何ですか? それを知る人は誰もいません。一方、「私」の原理は、子どもにも若者にも老人にも存在しています。これは根本的で不変なる原理です。ですから、誰かに尋ねられたら、「私は私です」と答えなさい。相手がこの原理を理解できなくても、気にしてはなりません。皆さんは自分の原理をしっかりと持ち続けていなさい。そのような固い信念があるときにのみ、皆さんは人生で何でも達成することができるのです。哲学的概念は、いくつでもどのようにも説明することができます。それにはさまざまな意味が含まれます。

1940年10月20日、私は初めて自分の真の実体を明かすために、次のように宣言しました。

私は実はサイであることを知れ
世俗的な関係を捨て去り
私を拘束しようとする努力をやめよ
世俗的な執着は、もはや私を縛りつけられない
どれほど偉大な人であれ、誰にも私を留めておくことはできない

(テルグ語の詩)

私がこの宣言を10月20日にしたために、人々はこの日を大々的に祝っています。日付を過度に重視して、こうした日を誕生日やアヴァター宣言の日等々として祝おうとすべきではありません。

あるとき、クリシュナ神の妃、ルクミニーが、こう言ってクリシュナを自分の宮殿に招きました。

「スワミ! 今日は私の誕生日です。どうか夕食にいらしてください」

その場に居合わせたクリシュナのもう一人の妃、サティヤバーマーが、そのことに腹を立てました。サティヤバーマーはこう主張しました。

「今日があなたの誕生日だというのなら、今日は私が嫁ぎ先の家に入った日でもあります。クリシュナはその日、私の首に婚姻の ひも 〔マンガラスートラ〕を結んでくださいました。ですから、今日クリシュナは、私の家こそ訪問なさるべきです」

こうして、その日は、二人の妃が口論する日となってしまいました。一方、クリシュナ神はというと、両方の家を訪れる支度を整えました。クリシュナ神はそれらに違いを見なかったのです。このように、人は神性の中にある一体性の原理を認識しなければなりません。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Dasara Discourses 2004 C3

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