サイババの御言葉

日付:2004年10月25日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
ババの御講話より

あなたの実在はあなた自身の真我以外どこにも存在しない


いかなる愛の力によって、地球は地軸も軸受もないのに自転するのか
いかなる愛の力によって、星は地上に落ちることなく天空に留まっているのか
いかなる愛の力によって、海は大地を水没させることなく限度を守っているのか
いかなる愛の力によって、風神は世界中に涼風を吹き渡らせるのか
その愛の強大な力は、まさしくアートマ〔真の自己/真我〕の力なり
愛の力は、最もすばらしく、無類であり、至るところに充満している
創造世界にはすべて、愛が浸透している

テルグ語の詩

愛の化身である皆さん!

人が遍在の真理を見るのに、特別なサーダナ(霊性修行)を始める必要はありません。私たちは、神をブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラといった、さまざまな御名で呼びます。これらは、何らかの空想上の姿をもとに、人間が神に付けた名前です。しかし、実際に誰かそうした姿を見た者はいるのでしょうか? いまだかつて誰も見た者はいません。

この世には唯一なる力があり、その力は至るところに充満しています。それは愛の力です。人間社会は、もっぱら愛によって成り立っています。神性がなければ、人間性はあり得ません。ある程度まで神性との接触を確立した時、初めて人は全知全能の神の力をほんの少しだけ確保することができます。

人はすべての力を含有している

愛の化身である皆さん!

実のところ、一切の力の形態は人間性(マーナヴァットワ)の中に内在しています。人間性に格別な力を授けるのに、特別な媒介は必要ありません。神の力は人間の内部に完全に顕現します。人間の力は、神の力の助けなしには機能できません。ヴェーダの中に四つの大格言(マハーヴァーキャ)があります。

タットワマスィ(汝はあれなり)
プラグニャーナム ブラフマー(不断の融合意識は神なり)
アヤム アートマ ブラフマー(この真我は神なり)
アハム ブラフマースミ(我は神なり)


これら大格言の真髄は、ウパニシャッドとバガヴァッド ギーターの中で詳述されています。ところが、人はこれら大格言の重要性を理解できずに幻惑されています。

人は、自分自身の中に実際にある、神聖な力を認識することができずにいます。人の内にある神性は、自らをエネルギー(シャクティ タットワ)として表現します。今、人は、さまざまな力を獲得して、その力を使って悲しみや苦しみから救われようと、懸命に努力しています。実のところ、悲しみや心配事は神へと到る踏み石です。心配事を重視すべきではありません。注意深く分析するなら、人間の生活の中で、心配事を生まないものなどありますか? 人生は、生まれてから死ぬまで心配事だらけです。この事実を述べるために、私はよく一編の詩を引用します。

生まれることは悩みの種、地上に生きることは悩みの種
この世は悩みの原因、死もまたしかり
幼年期はすべて悩みの種、老年期も同じこと
人生は悩みの種、失敗は悩みの種
あらゆる行為と困難は悩みを引き起こす
幸せもまた不可思議な悩みの種

テルグ語の詩

愛の化身である皆さん!

夢の中で神のヴィジョンを得た、と言う人々がいます。瞑想の中で神のヴィジョンを得た、と言う人々もいます。さらには、英知の目を通して神を見た、と言う人々もいます。これらの主張のほとんどは、人の迷妄の結果です。それらは本物ではありません。自分は夢で神を見たと断言する人々がいます。夢はどこにありますか? 神はどこにいますか? 実際、夢の体験そのものが真実ではありません。夢は幻にすぎません。人々は幻惑されて思い込んでいるのです。その迷妄を一掃した日、人は神の力を得るでしょう。ですから、誰もがそうした幻から抜け出すべきです。

瞑想に座して、自分は誰それの姿を憶念していると思っている人々がいます。また、瞑想中に何か光り輝くものを見たと主張する人々もいます。瞑想とは何ですか? 瞑想とは一意専心(エーカーグラター/内なる普遍なる自己の姿に集中すること)です。それは、幻から解放されて体と心〔マインド/思考〕が完全に静止した状態で、一つの光景(ドルシャ)をありありと思い描くことです。けれども、どこであれ人がいるところには心も存在しています。この世には心が存在しない場所はありません。心は遍在です。

マナ エーヴァ マヌッシャーナーム カーラナム バンダ モークシャヨー
(心こそが束縛と解脱の原因である)


私たちは、自分は幸せだと言います。幸せはどこからやって来るのでしょう? もちろん、外からではありません。幸せは、自分自身のハートから湧き上がってくるものです。心の性質は移り気(チャンチャラー)です。移り気は、私たち自身の特質の中にあるものであり、外から侵入してきたものではありません。

私たちが現象界で維持しているあらゆる人間関係は、幻想にすぎません。あなたが一人の娘と結婚したとします。その時から、あなたはその娘と夫婦関係を維持します。結婚する前から二人ともこの世に存在していましたが、夫婦関係は存在していませんでした。二人が結婚した瞬間から、あなたは、彼女は自分と結び付いたと考えます。このように、それは観念的な関係です。

愛の化身である皆さん!

マーヤー(幻影/幻力/迷妄)でさえ、愛と結び付いています。この世で愛を持たないものを見つけることはできません。愛はこの世のすべてのものの中に存在しています。この世の人々の人間関係はすべて、愛によって確立され、愛によって培われています。その一方で、愛は二人の人間の別れの原因にもなります。

この世にはさまざまな種類のサーダナ(霊性修行)があります。ブラマ サーダナ(迷妄から抜け出すこと)はその一つです。実のところ、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラがサーダナ(瞑想など)の最中に視覚化されることはあり得ません。あなたが瞑想中に見るものはすべて、あなたの感情の反映にほかなりません。ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラは、実際にはこの世に存在していません。彼らはあなたが想像した姿にすぎません。

本当にこの世に存在しているのは、人間性(マーナヴァットワ)です。目の前に存在している人間性を信じることができないなら、たとえ神性を黙想したとしても、どうして神性を発見することができるでしょう? あなたが神性のものだと考えている御名と御姿、すなわちブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラは、実在しません。それらはあなたのマーヤーから生じた蜃気楼にすぎません。すべてのものは人間の内部に格納されています。あなたこそが、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラであり、神性のものだと考えられるあらゆる御名と御姿なのです。すべては自分だということを信じ始めると、どんな種類の心配事の原因も存在できなくなります。あなたが「アハム ブラフマー」(私はブラフマー神である)、「アハム ヴィシュヌ」(私はヴィシュヌ神である)、「アハム イーシュワラ」(私はイーシュワラ神である)と覚ることができれば、どんな疑いの余地もなくなります。これらの御名と御姿はすべて、あなた自身の想像の産物です。この世には人間性より偉大な力は存在しません。

愛の化身である皆さん!

皆さんは、昨夜スワミが自分の夢に出てきた、などと言います。これは正しくありません。私は誰の夢の中にも現れません。あなたが自分の夢にスワミが現れてほしいと熱心に求め、絶えずそのように考える時、その熱烈な願望があなたの夢の中で形をとるのです。神は一つの姿をまとったり、別の姿に変じたりしません。

神が自分に腹を立てていると考える人もいます。この憶測も正しいものではありません。神が誰かには愛を向け、誰かには怒りを向けるということはありません。こういった憶測はすべて、あなた方が自分で勝手に作っているものです。あなた方が神には怒りや他の感情があると思っているのです。そう思う代わりに、あなたがいつも愛の中で生活していれば、他人の中に怒りを見つけることはなくなるでしょう。

実際、あなたの本当の姿は愛です。人間は愛から生まれ、愛によって育てられます。人間だけでなく、すべての生き物は、誕生の瞬間から愛を体験します。この世には愛よりも強い力はありません。地上に存在するどんな力も愛を変化させることはできません。自分はこの力を得た、あの力を得た、という思いに惑わされてはなりません。こういったものはすべて、単なるブラマ、すなわち、妄想にすぎません。ブラマ(Bhrama)はブラフマン(Brahman)ではありません。ブラフマンとブラマは同じものと考えることはできません。

愛の化身である皆さん!

「ディヴィヤートマ」の意味は何ですか? 「ディヴィヤートマ」は「神聖なアートマ」という意味です。アートマは「意識」にほかなりません。そして、その意識は至るところに充満しています。意識の存在しない場所はありません。意識は全知全能です。これに関して心に生じる一つの解釈があります。意識は動くことが可能です。しかし、私たちは、意識は動かないと考えて惑わされます。実際、真の力はあなたの中にしか存在しません。それがアートマ シャクティ(真の自己の力)です。

私たちは、今、アートマは意識であるということがわかりましたね。つまり、アートマ シャクティ(真の自己の力)は、チャイタンニャ シャクティ(意識の力)なのです。これは至るところに存在しています。この力こそが、あなたにさまざまな姿形を見ることを可能にしているのです。

人間の中に存在する計り知れない力は、本来、神のものです。その力は平安と幸福を授けます。あなた方は、その神性の力は何か特別な力だと考えるかもしれません。それは正しくありません。あなた自身の憶念の力が、神性の力という形をとるのです。ですから、まず、生まれ持ったあなたの神性に気づきなさい。書物に書いてあることや、書物であなたが読むことの一切は、実際は真理ではありません。ある種の一時的な力は存在しますが、それらは永遠のものではありません。そのような移ろいゆく力に惑わされるべきではありません。

あなた方はヴェーダを学んでいます。ヴェーダから発せられるすべての音は臍からのみ生じます。私たちは自分自身の臍から出る音を体験しているのです。あなたが丘に行って「おーい!」と叫べば、その音はこだま(反響)となってあなたのところに戻ってきます。それと同様に、善悪は、ほかでもなく、あなたの中から生じるのです。善も悪も、どこか他の場所からやって来てあなたの中に入り込むわけではありません。

あなたは自分の考える通りになる

愛の化身である皆さん!

たとえば、本から抜き出した特定の文章を声に出して繰り返すことを続けるとします。しばらくすると、あなたはそれを暗記するでしょう。しかし、丸暗記した文章はあなたのものではありません。それは単なる反響にすぎません。神の創造世界において、一切は、反作用・反映・反響です。私たちが外界で体験する一切は、内にあるものの反作用・反映・反響にすぎません。ところが、私たちは、その反作用・反射・反響を本物だと考えて惑わされているのです。何であれ、あなたのハートから生じて外界で姿形をとったものが、実際のものです。つまり、その姿形は、すでにあなたが思い描いていたものだということです。たとえば、ラーマ神を特定の姿に想像したとしましょう。そして、目を閉じて、その姿を憶念したとしましょう。あなたは自分の中の思いの反映として、その同じ姿を見ることができます。外界に現されたものはすべて、あなたの内にあるものの反作用・反映・反響にすぎません。

愛の化身である皆さん!

あなた自身が、ラーマ、クリシュナ、イーシュワラ等々なのです。自分はイーシュワラだと考えて、イーシュワラの姿を憶念するとします。あなたはまさしくイーシュワラになるでしょう。

ヤッド バーヴァム タッド バヴァティ
(あなたは自分が考える通りのものになる)


同様に、自分をラーマ、クリシュナ等々だと考えれば、あなたはラーマやクリシュナ等々になるでしょう。

今の人々は瞑想に座しますが、それはただ集中力を養うためで、神の憶念を目的としたものではありません。人々は集中を瞑想だと勘違いしています。これは正しいやり方ではありません。こうした修行の一切は、反作用・反映・反響です。あなただけが実在であり、あなたこそが真理なのです。あなた方は、神を人間の姿でのみ視覚化することができます。人間は、自分よりも偉大な何かを思い描いたり、視覚化したりすることはできません。あなたが万物であり、創造における一切はあなたに内在しています。残念なことに、昨今の人は自分の本性を忘れ、実在していない何かを空想しています。これは迷妄の結果であり、それは実際にはその人自身が勝手に作り出したものなのです。その幻から抜け出た時、初めて人はブラフマン〔神〕を悟ることができるでしょう。

愛の化身である皆さん!

愛が最も重要です。もし熱烈な愛と帰依の心で神に祈るなら、あなたの祈りは必ず応えられます。愛の力はそれほどのものなのです。愛を欠いていれば、俗世においても何一つ達成することはできません。愛は神です、愛の中で生きなさい! 愛がなければ全世界は無になります。ただ愛のみが、姿形をとっているのです。この真理をはっきりと理解しなさい。

あなた方は、自分が瞑想と呼んでいるものをするために座し、空想上の体験を通して自分自身を忘れようとします。もし自分自身を忘れるなら、どうやって真理を思い描くことができるでしょう? 絶えず「私は神である、私は万物である、私は実在である。あらゆる姿形は変化をまぬがれない」ということを自覚しながら生活しなさい。たとえば、赤ん坊は生まれた時は体が小さいですが、その後、成長して子どもになり、少年になり、青年になり、老人になります。これら人生のさまざまな段階におけるその人物の実体は、一人の人間です。「すべては一つ、万人に等しくあれ」――これは、人が身につけるよう努めなければならない教訓です。

愛の化身である皆さん!

あなたの愛の炎を、ゆらゆらと揺れることのない、安定したものにしなさい。愛よりも偉大なサーダナ(霊性修行)はありません。愛こそが、あなたが取り組まなければならないサーダナです。それは神性の修行です。神性は遍在です。あなた自身の真我の中に存在する遍在の神性に気づかなければなりません。それは意識の三つの状態、すなわち、夢を見ている状態、起きている状態、熟睡している状態のいずれにおいても存在しています。人は、その神性を絶え間なく体験するために、懸命に努力しなければなりません。その絶え間ない体験が「プラグニャーナム ブランマー」(不断の融合意識は神なり)と言われるものなのです。それがサークシャートカーラ(真我顕現/神性のヴィジョン)であり、意識の三つの状態すべてを超越する体験です。

愛の化身である皆さん!

皆さんは神性のさまざまな姿を礼拝しています。けれども、あなた自身に生まれつき具わっている神性を忘れることがあってはなりません。実に、あなた方は、神性には非常に数多くの名前と姿形があると考えていますが、神性は唯一であり、不変です。その不変なる永遠の神性は、あなたに内在しています。外側の名と姿はすべて束の間の夢のようなものです。そして、夢は現実ではありません。ですから、そのブラマ(迷妄)から抜け出すよう努力しなさい。そのブラマから抜け出た時、初めてあなたはブラフマン〔神〕を悟ることができるでしょう。

あなたは夢の中で何かを目撃しました。それは何でしょう? それは他でもないあなた自身です。あなたは夢を見ている状態で自分自身を視覚化しているのです。あなたの本性は愛です。ですから、あなたの本性を現しなさい。将来、皆さんが学ばなければならないいくつかの側面があります。未来とは何でしょう? 未来は不確実です。過去は過ぎてしまったことです。重要なのは現在だけです。過去と未来は、どちらも現在の中に含まれています。あなただけが、過去、現在、未来という時の三相すべてに存在しています。

あなた自身に生まれつき具わっている神性を見なさい

愛の化身である皆さん!

神の力と神の顕現は人間に内在しています。それらはどこか他の場所から手に入れるものではありません。こつこつと絶えずサーダナを続けることで、人はこの真理を悟ることができます。あなたの実在は、他のどこにでもなく、あなた自身の中にあります。その実在を見るためには、目を内側に向けなければなりません。反作用・反映・反響――この三つはすべて、あなた自身の中に存在しています。それらは外にあるものではないのです。仮にあなたに、名声があり評判のよい兄弟がいるとします。彼は誰ですか? 彼はあなたの兄弟です。彼は特定の姿をしています。その姿はどこから生じたのでしょうか? 実在から生じました。そして、その実在が彼の本性です。このように、実在から現れた姿が私たちを惑わせて、実在そのものが見えないようにしているのです。

親愛なる学生の皆さん!

もし皆さんが特定の側面をもっと明確に理解したいと望むなら、またいつか私が今まで以上に詳しくあげましょう。皆さんが行っている瞑想のようなものは正しくありません。あなたは一つ御姿を心の中に保ち、その御姿を憶念します。その御姿はどこから来たのですか? それはあなたが自分で作り出したものです。あなたは、神にはこの御姿しかないと考えて、惑わされています。このように、最初から、あなたは惑わされた信念を抱いているのです。その迷妄から抜け出しさえすれば、あなたは真理を視覚化することができます。

神はどこか遠く離れた場所にいるという迷妄のもとに、いつまでも留まっていてなりません。実際、まさに、あなたが神なのです。あなたの姿は神です。あなたの至福は神です。あなたの反作用・反映・反響は、本質的には神です。決して自分は神だという揺るぎない信念からそれてはなりません。つねに、「アハム ブラフマースミ」(我は神なり)という一つの側面を憶念していなさい。「タットワマスィ(タット トワム アスィ)」(汝はあれなり)という大格言の意味は何でしょう? 「タット」は「あれ」、「トワム」は「これ」(汝)です。二つがいっしょになると「アスィ」(同一)となります。二つが一つになるのです。このように、


     タットワマスィ(汝はあれなり)
     プラグニャーナム ブラフマー(不断の融合意識は神なり)
     アヤム アートマ ブラフマー(この真我は神なり)
     アハム ブラフマースミ(我は神なり)


という四大格言は、どれもあなたを、同一の真理、すなわち、あなたはまさしく神であるという真理へと導きます。アーディ シャンカラは、大変多くの方法でこのアドワイタ哲学〔不二一元論〕の偉大な真理を解釈して解説し、ついには、その偉大な真理に帰融しました。

このように、実在はどこか遠く離れた場所に存在しているのではありません。実在はあなたの内部に存在しています。あなたの本性そのものが実在です。どうすればあなたはこの真理を悟ることができるのでしょうか? それは、純粋で、無私で、神聖な愛を培うことによってのみ可能です。愛がなければ、この世で何一つ達成することはできません。愛は全宇宙の根源であり、糧です。愛は神であり、神は愛です。

愛の化身である皆さん!

あなた方は全員、神性の化身です。あなたの姿は神性のものです。あなたと神は一つです。あなたは神と異なっていません。この、一つであることを体験しなさい。真理は一つ(エーカム サット)です。一つであることが真理です。一つであることが神性です。神はあなたと別のものではありません。神はあなたの中に顕れています。残念なことに、あなたはこの真理を忘れています。自分自身の本性を忘れるなら、それは他のすべてを忘れるに等しいことです。自分の実体を忘れてはなりません。自分の実体を忘れずにいて、その実体を瞑想しなさい。つねに、一つの真実、「どこにいようとも、私はつねに神である」を覚えておきなさい。この揺るぎない信念に、断固としてしがみついていなさい。それが、大格言「タットワマスィ」(汝はあれなり)に含まれている真理、神性の不可分なる非二元性です。

「ラーマが私の夢に現れた」、「クリシュナが私の夢に現れた」、「スワミが私の夢に現れた」という思い違いをしてはなりません。これは無知の印です。それらはすべてただの夢にすぎません。どうして夢を実在と呼べるでしょう? 「夢」という言葉そのものが夢の性質を明らかにしています。その体験は、あなたが眠っている間は本当かもしれませんが、あなたが目覚めた瞬間に消えてしまいます。

愛の化身である皆さん!

あなたの愛をしっかりと持ち続けなさい。どのような状況の下でも、愛を手放してはなりません。愛より他に神はありません。まさしく、愛は神です。愛はあなたの道であり、あなたの目的地です。決して愛の道からそれてはなりません。愛の道を歩む上で、もしあなたが何らかの困難を感じたり、明瞭にすべき疑念を抱いたりしたら、私はいつでもあなたを助けるためにそこにいます。

疑念を減らすよう努力しなさい。疑念はあなたを迷妄に導くでしょう。つねに「タットワマスィ」(汝はあれなり)という真理の中に自分自身をしっかりと据えていなさい。この姿〔スワミの体〕こそが目に見える神性の現れであると思うのは、誤った考えです。なぜなら、あなたと神は別個のものではないからです。ブラフマン〔神〕は、まさしく身体に内在しています。ブラフマン〔神〕とアハム〔我/私〕は同一です。二者の同一性を悟るために、サーダナに着手しなさい。それこそが「神への道」です。

もし神を瞑想したいなら、決してあなたの思考が世俗のものによって乱されるのを許してはなりません。あなた自身の本性を瞑想しなさい。あなたの本性は神性です。その神性の中には他の一切が含まれています。このようにして、あなた自身に生まれつき具わっている神性を瞑想するなら、あなたと神性は一つであることを悟るでしょう。実際、その単一性こそが神性なのです。


     タットワマスィ(汝はあれなり)
     プラグニャーナム ブラフマー(不断の融合意識は神なり)
     アヤム アートマ ブラフマー(この真我は神なり)
     アハム ブラフマースミ(我は神なり)


これら四大格言は、個人の魂と至高神の魂は一つであることを力説しているヴェーダの宣言です。ヴェーダは個人の魂にこの真理をはっきりと理解するよう強く勧めています。ですから、人はその唯一性の境地に到達するよう懸命に努力しなければなりません。このサーダナにおいて徐々に進歩していけば、あなたは最終的に目的地に到達するでしょう。仮にあなたが、ある単語のスペル〔綴り〕を身につけたいとします。あなたは何回そのスペルを繰り返すか、考えてごらんなさい。それと同じ方法で、あなたはこのサーダナの道を歩み始めなければなりません。これは神聖なサーダナです。もし四大格言の真の意味を知ることができれば、あなたは真理を悟ることができるでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.37 C19

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