サイババの御言葉:遍在の神性意識を体験せよ

日付:2005年3月8日午前・場所:プラシャーンティ ニラヤム
マハーシヴァラートリの御講話(上)より

遍在の神性意識を体験せよ


カイラーサ山の神が その御姿を顕した
頭に三日月を飾り、もつれた巻き毛からは ガンジスの冷水がほとばしる
眉間には燦然と輝く第三の目
青紫色の首は艶やかな黒イチゴのごとき光沢
腕輪とベルト代わりに大蛇を巻きつけ
全身を神聖灰ヴィブーティで覆っている
額にはクムクムの赤い点を飾り
赤らんだ唇は キンマの実の汁でさらに赤く
耳元にはダイヤをちりばめた金の耳輪が揺れる
浅黒い全身は、まばゆいばかりに神の光輝を放っている

(テルグ語の詩)


シヴァラートリの意味や重要性を認識しようと努力してきた人は誰もいないようですが、実は、シヴァラートリという言葉自体が、その意味を明らかにしています。「シヴァ」は吉兆を意味し、「ラートリ」は夜を意味します。ですから、シヴァラートリは「吉兆の夜」を意味します。ここで、「シヴァとは誰なのか?」という疑問が起こります。シヴァは、すべての生き物に浸透している神性意識にほかなりません。このシヴァットワ(神性意識)は、人間だけでなく、鳥や野獣や動物たちにも同じように浸透しています。

実際、私たちの生活の一瞬一瞬はシヴァラートリであると見なすことができます。シヴァラートリを年に一日の特別な日まで待つ必要はありません。

シヴァ意識は人知を超えている

愛の化身である皆さん!

シヴァ意識は至るところに浸透しています。どうしてシヴァラートリを一定の時間や一定の場所に限定できるでしょう?

サルヴァタッ パーニパーダム タット サルヴァトークシ シロームカム
サルヴァタッ シルティマローケー サルヴァマヴルッティヤ ティシタティ

その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している

(バガヴァッドギーター13章13節より)


もし私たちが、ひとたびこの側面を注意深く分析すれば、周りで目撃しているあらゆるものは、ほかならぬシヴァ意識であるということが明らかになるでしょう。

シヴァとは、もつれた髪と虎の毛皮をまとったあの特定の姿を意味しているのではありません。どこを見ようとも、どんな姿に出くわそうとも、子供であれ老人であれ、男性であれ女性であれ、いかなる姿の中にもシヴァ意識は光り輝いています。すべてに浸透するシヴァ意識を、描写したり、特定の時間と場所に限定することなど、どうしてできるでしょうか?

人々は特定の舞踏の型に沿ってシヴァ ターンダヴァ(シヴァ神とパールヴァティー女神の宇宙の舞)を描きます。しかし、これはただの象徴であって、本当のシヴァ ターンダヴァを描いているのではありません。言葉で説明することも、心(マインド)で理解することもできない、人知を超えたシヴァ意識を、人間が描写することなどできるでしょうか?

シヴァ神をムッカンティ(三つの目の神)として描く人々もいます。私たちの目は二つだけです。しかし、シヴァ神には第三の目もついています。人は過去と現在を知っているだけで、未来を見ることはできません。それができるのは神だけです。したがって、第三の目、すなわちグニャーナ ネートラ(英知の目)で未来を見ることができるシヴァ神は、ムッカンティと呼ばれるのです。

神はさまざまな人に、さまざまな方法で描写されています。神はさまざまな姿をまとっていると述べられています。にもかかわらず、その描写はどれも、神を完全に説明しきれていません。各人が、自分の想像で神に特定の名と姿があると見なして、神を表現します。名も姿もない無相の神は、遍在であり、至るところに浸透しています。神は、アヴァンマーナサゴーチャラ(言葉で説明することも、心で理解することもできない者)であり、アプラメーヤ(計り知れない者)なのです。そのような神を描写できる人がいるでしょうか?

一つだけ神のしるしが存在します。それは意識です。その神性意識は、どのような姿の中に浸透しようとも、そのものの姿をとります。それは犬の姿でも、カラスの姿でも、鶴の姿でも、また人間の姿でもあり得ます。それゆえ、イーシュワラットワ(イーシュワラ意識)は神性意識と表現されるのです。この神性意識は、すべての人間に浸透しているのみならず、昆虫や鳥や獣や動物たちにも浸透しています。この神性意識に与えられた名前の一つがシヴァットワ(シヴァ意識)なのです。したがって、シヴァットワをムッカンティやトリネートラ等々といった名称によって描写するのは正しいことではありません。シヴァットワは、あらゆるものに浸透している神性意識を意味します。実際、このホールに座っている信者は、全員シヴァ神の化身です。

サルヴァム シヴァマヤム
(この外界で目撃するすべてはシヴァ神の顕現である)


シヴァットワは、三界、すなわち地上界、天上界、冥界のすべてに充満しています。シヴァットワは、時の三相のすべて、すなわち過去、現在、未来のすべてに存在しています。シヴァットワは、言葉で言い尽くせないものです。どれほど長い時間をかけても、シヴァットワを描写するには不十分です。

遍在で、至るところに浸透している神の名前と意識を、さまざまな名前と姿で表現することによって礼拝している人々もいます。あらゆるものを包み込む神の愛が生き物の間に区別を設けないのと同様に、神性意識は区別をしません。私たちだけが、地上での人間関係に基づいて、私の父、私の母、私の兄弟、私の姉妹など、人々を区別するのです。実際には、生き物はすべて、神の具現です。神はあらゆる名と姿をまとっています。皆さんは神なのです。

あるとき、シヴァ神の妃パールヴァティーが、シヴァ神に尋ねました。

「至るところに遍在しているといわれる神性意識を、人間たちはどうやって悟ることができるのでしょうか?」

イーシュワラ(シヴァ神)は、自分に内在しているのと同じ意識があらゆる生き物に浸透しているのだと答えました。シヴァ神はまた、その意識はパールヴァティーの肉体の細胞一つひとつにも浸透していることを説明しました。人間が説明することはできません。人間はそれを体験しなければなりません。

かつて、パールヴァティーは、自分の息子のヴィナーヤカがイーシュワラ神のすぐ側にいたにもかかわらず、ヴィナーヤカを見つけることができませんでした。パールヴァティーは、イーシュワラ神のすぐ近くという神聖な場所以外のあらゆる所で、ヴィナーヤカを探していました。なんと奇妙なことでしょう! それと同様に、今日の人間は、自分自身が神聖なアートマの化身であることを知らずに、あらゆる場所に神を探しているのです。

属性のない神の唯一性を悟りなさい

イーシュワラ神は、一度も髪を手入れしませんでした。自分の髪を自然にもつれたままの状態にしていました。イーシュラワ神のもつれた髪の束、第三の目、灰にまみれた体――すべては自然の状態、自然な色のままでした。しかし、それらは見る人によって違って見えました。シヴァ神の体の色や輝きを描写できる人などいるでしょうか?

あるとき、ラクシュミー女神とパールヴァティー女神の間で、イーシュワラ神とヴィシュヌ神の風貌(ぼう)について口論が起こりました。その口論の最中に、ラクシュミーはこう尋ねました。

「パールヴァティー! どうしてあなたは、身だしなみもきちんと整えず、火葬場の灰を体中に塗りたくっているような、変わったお方に求愛なさったの?」

パールヴァティーは気分を害し、鋭く言い返しました。

「アンマー(お母様)! あなたのご主人、ヴィシュヌ神は、蛇のシェーシャ(多頭の蛇の王)の上に寝そべっていらっしゃいます。それに、肌の色が青いですわ。ご主人の習慣を改めるとか、肌の色を変えるといった努力をなさってはいかがですか?」

こうして言い争っていると、サラスワティー女神がその場にやって来ました。そして、次のように言って忠告しました。

「ご主人たちには、いくらか外見上の違いがあるかもしれません。けれども、私には二神に何の違いも見えません。ご主人たちの御姿には、どちらも同一の神性意識が浸透しています。私にはそれが実感できます。あなた方はそれがわからないために口論をお始めになったのです。ですから、外見の違いなどすべてお忘れなさい」

この種の卓越性は、サラスワティーにのみ内在しています。こういった体の見かけの違いはすべて、人間の心の中に存在しているだけで、神は無属性です。信者たちが、神にさまざまな名前や姿や属性があると見なしているのです。

偉大な画家ラヴィ ヴァルマーのように、信者たちは自分の想像に基づいて、さまざまな姿の神を絵に描きます。神の姿は皆さんの思うとおりになります。人々は神の姿をルッドラ(シヴァ神の激しい様相)やシャーンティ スワルーパ(平安の化身)として描写します。しかし、神はいつでもシャーンティ スワルーパであるのみです。神は常に喜びにあふれ、微笑んでいます。そうした平安の化身である神を別の姿で想像するのは、信者たちの作りごとにすぎません。もし仮に、そのような幻想を抱いていたとしても、人はそれらを取り除かねばなりません。

人は、神への愛を培うことにより、神性を悟らなければなりません。神を縛っておくことができるのは愛だけです。そのような神聖な愛を通して、神の唯一性を悟らなくてはなりません。もし、属性を持たぬ神を描写しなければならないとすれば、それは次のようになります。

エーカム、ニッティヤム、ヴィマラム、アチャラム、
サルヴァディー サークシブータム、
バーヴァティータム、トリグナラヒタム

不二、永遠、純粋、不変、
知性のあらゆる働きの目撃者、想像を超越しているもの、
あらゆる心の状態を超越するもの、三グナ〔浄性、激性、鈍性〕を超越するもの


人々は、こうした無属性の神にさまざまな属性があると考えて、とても嬉しく感じています。これは正しいことではありません。神の唯一性を認識しなければなりません。たとえ詩人やラヴィ ヴァルマーのような画家たちが、想像力の豊かさで神をさまざまな姿に描写したとしても、この点に関して混乱があってはなりません。詩人や画家によって描かれたさまざまな姿がどのようなものであったとしても、神は一者であるのみです。

たとえば、ヴィナーヤカ神(ガネーシャ神)は、あなたがどこを見ても唯一者として現れます。ヴィナーヤカはいかなる属性も有していません。グナ(属性)を持っていない者が、ガナパティ(ガネーシャ神、群の主の意)です。ガナパティの上に立つ導き手はいません。だからこそ、ヴィナーヤカ(偉大な導き手)と呼ばれるのです。このように分析していくと、神のものと見なされている各々の御名の一つの意味が明らかになります。ヴィナーヤカには自分より上に立つ導き手がいないため、ブラフマー神、ヴィシュヌ神、マヘーシュワラ神でさえ、ヴィナーヤカを礼拝するのです。

愛の化身である皆さん!

今日、人々は、名前も姿も属性も持たぬ神に、異なった名前や姿があると考えて、人間同士の相違の程度を大きくしています。これは重大な過ちです。神は信者たちによって分割されています。神の唯一性がきちんと理解されず、その結果、無駄な論争や反対論争が起こっています。ラーマであれ、クリシュナであれ、イーシュワラであれ、ヴィシュヌであれ、これらはすべて、信者たちが神のものだと考えているさまざまな名前にすぎません。しかし、神はただ一つです。こうした名前は、自分の満足のために神のものだと見なしている名前にすぎません。しかし、神にはどのような差異もありません!

最善のサーダナ(霊性修行)は、神性の一体性を悟り、神を唯一者として崇めることです。けれども、皆さんは自分の好きな姿をした神を崇めてかまいません。そうすることに何の異論もありません。しかし、さまざまな名前と姿の根底にある一体性を決して忘れるべきではありません。クリシュナ神を崇めればラーマ神が怒る、ラーマ神を崇めればクリシュナ神が怒る、と考えるのは誤解です。信者たちはそのような違いを感じていますが、ラーマ神やクリシュナ神にはそういった違いはありません。

神がそのようなネガティブな感情を抱くことはありません。相違やネガティブな感情を持つのは人間だけです。実のところ、神性にネガティブな感情が入り込む可能性はあり得ません。神はもっぱら、すべてにポジティブです。

親愛なる学生の皆さん!

いかなる相違も、ネガティブな感情も、神のせいにしてはなりません。皆さんは何であれ、自分の好む名前と姿で神を崇めても差し支えありません。万が一、皆さんが神性に何らかの相違を見つけたなら、それは皆さんのネガティブな感情に誤りがあるのであって、神に誤りがあるのではありません。それゆえ、一意専心の信愛をもって神を崇めなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.38 C3
サイ ラム ニュース136号(2011年1・2月号)pp.4-10掲載

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