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真理・正義・愛・平安を失えば (テルグ語の詩) 愛の化身である皆さん! 皆さんは、第一に人間(マーナヴァ)という言葉の意味を理解しなければなりません。人間の目標は何でしょう? それは自分の欲望を満たすために力を尽くすことでしょうか? 世の中で出世することでしょうか? 感覚的な楽しみを満喫することでしょうか? 人生には、喜びと悲しみが入れ混じっています。一方だけを経験して、もう一方を経験せずにいることはできません。同胞である人間を助ける準備のない人が、どうして幸福と平安を手に入れることが期待できるでしょうか? 誰でも人生の浮き沈みを経験しなければなりませんが、それらは過ぎ行く雲のようなものです。困難は人生の一部です。誰もそれを逃れることはできません。ですから、人は喜びと悲しみを同じ心で扱わなければなりません。苦しみの中に喜びがあり、喜びの中にも苦しみがあります。喜びに有頂天になったり、苦しみにふさぎ込んだりするべきではありません。人生において進歩向上するためには、平常心を培わなければなりません。社会が進歩するためには、平等の精神が非常に重要です。人は、喜びと悲しみ、利益と損失、勝利と敗北において、平常心を保つようにすべきです。しかし、人間はあらゆる快適さや快楽を楽しむにもかかわらず、わずかな困難すらも耐え忍ぶことができません。ほんの少しの問題にも心が乱されて、ふさぎ込んでしまいます。 裕福な人に、幸せですかと尋ねると、どんな答えが返ってくるでしょうか? おそらくその人は、次のように答えることでしょう。「私にはお金がたくさんあって、子どもたちも安定した生活を送っています。私の家にはさまざまな家具や、便利で快適な設備が整っています。生活に必要なものは何でもそろっていますが、心の平安だけはありません」。どうすれば心の平安が得られるのでしょう? 自分の神性に気づいたときに、初めて心の平安が得られるのです。私たちはどうして平安を体験することができないのでしょう? どこが間違っているのでしょう? 私たちは、いつも他者に向かって「あなたは誰ですか?」と尋ねますが、「私は誰だろう?」と、自らに問いかける努力をしていません。そこが間違っているのです。いったん私たちが本当の自分に気がつけば、苦しみや困難から永久に解放されます。ですから、何よりも先に、私たちは本当の自分を知るための努力をすべきです。本当の自分を知らないままに、それ以外のすべてのことを知っても、それがいったい何の役に立つでしょう? 雨が降らないときに種を 「神は万物の内在者である」、「宇宙全体に神は遍満している」と聖典に書かれています。人間としてこの世に生まれたのは、もって生まれた神性を体験するためであって、世間的な楽しみを満喫するためだけではない、ということに私たちは気づかなければなりません。もって生まれた神性を体験するためには、霊性の道を歩まなければなりません。霊的な展望に欠けている人は、人間と呼ばれる資格がありません。実際、それは神を あるとき、ナーラダ尊者がヴィシュヌ神に、不滅の命を得るための王道は何ですかと尋ねました。するとヴィシュヌ神は、「私が万物に内在していることに気づくことです」と答えました。万物の内に神の火花が存在しています。人間は単なる死すべき存在ではありません。人間の本質は神なのです。個人の魂(ジーヴァ、個我)と神(デーヴァ)とが共存しています。個々の魂は陰極で、神は陽極です。ヴィシュヌ神はナーラダに、次のように言いました。「私は人々の間を動いて世界を守るために、人間の姿をとらなければならない。私は、万人の内に、アートマ(真我)として存在している。人が絶えずアートマの原理を黙想するとき、私は自分の姿を顕現する」。 アートマの神聖な原理が、すべての人に内在しています。この真理に気づく人は、宇宙万物に遍満する神を体験します。神はあなたの内におり、あなたと共にあり、あなたの周囲にも、あなたの上にも、あなたの下にもいます。しかしながら、あなたが否定的な感情を手放さない限り、この真理を知ることはできません。神はあらゆる場所にいます。あなたは神を探す必要はありません。神があなたの内にいることを強く信じる心を培いなさい。神には特定の形はありません。神はすべての名前と形を超越しています。 皆さんは、人間として生まれた以上、社会の幸福のために力を尽くさなければなりません。皆さんは社会の一員であり、あなたの幸せは社会の幸せに左右されます。ですから、社会のためになる活動に携わりなさい。 愛の化身である皆さん! 肉体は五元素によってできており、いつかは必ず滅びてしまう (テルグ語の詩) 「私のアートマは死んでいる」と言える人がいるでしょうか? 肉体は、時間がたてば滅びてしまいますが、アートマは永遠です。私たちは、井戸や、貯水池や、川や海に、太陽が映っているのを見ることができます。水がなければ、光の反射はありません。一人ひとりの人間は、同一のアートマが反射しているのが見える、川の流れにたとえることができます。太陽は一つですが、それぞれの国に別 々の太陽が存在しているかのように見えます。インドが昼のときは、アメリカは夜であり、その逆のことも言えます。国が異なれば、太陽が異なった時間に現れるかもしれませんが、それは同じ一つの太陽です。私たちはそれを、インドの太陽とか、アメリカの太陽などと呼ぶことはできません。同様に、神は一つです。真理は一つです。愛は一つです。愛に生きなさい。あなたが、愛と真理という、双子の兄弟のような真理を守っていれば、あらゆるものの内に神の顕れを体験するでしょう。 神とは誰でしょう? 実は、あなた自身が神なのです。ですからすべての人が、「私は神である」という確固たる確信を培わなければなりません。そのような揺るぎない確信を培えば、エゴや憎しみの付け入る隙がなくなります。あなたは神であり、あなたの同胞である人類もまた神なのです。このような一体性と平等性の原理を身につけなさい。あなたが誰かほかの人を傷つければ、実際は自分を傷つけているのです。勝利と敗北は人生というゲームの一部です。だれも他者を非難したり責めたりしてはなりません。誰かが努力をして失敗したときは、その人の心を あなたは誰ですか? 皆さんは、自分は肉体だと考えています。しかし、あなたは肉体でも心でもありません。人間の身体は水の泡のようなものです。どうしてあなたは、そのような移ろいゆく肉体と自分とを同じだと考えることができるでしょうか? あなたは、「私は心です」と言うかもしれません。心は、欲望の束以外の何者でもありません。あなたは、いつかはすべての欲望を手放さなければなりません。ですから、心と自分とを、同じものだと考えてはなりません。今日の人間は、際限のない欲望をもっています。そのような人の心は、一瞬一瞬揺れ動くので、猿のような心(モンキーマインド)と呼ばれます。あなたの心が猿のように振る舞うことを許してはなりません。あなたは人類の一員です。ですから、いつも安定した心を保ちなさい。絶えず、自分は人間であることを思い出しなさい。「神は人間の姿の内にあります」。肉体意識を手放して、絶えずあなたが神であることを意識しながら生きるようにしなさい。 私たちは神殿を建てて、神聖な偶像を安置し、それを礼拝します。その偶像はどこから来たのでしょう? それは皆さん方が自分で造ったものです。皆さんは、人間が造った偶像に礼拝を捧げますが、人間の内にいる神を礼拝する準備はできていません。あなたに生まれつき備わっている神性に気づかなければ、ただ単に偶像を崇拝しても、何の意味もありません。すべての人が、自分の内にあるアートマの原理を心から尊重しなければなりません。アートマを深く信じる心を、自分の生命を支える呼吸と見なしなさい。偶像に対する信仰は一時的なものです。あなたは、ティルパティに行けばヴェンカテーシュワラ神の姿をした神を崇めます。そして、「ヴェンカテーシュワラ神は私たちの家の守り神です」などと言って、ヴェンカテーシュワラ神を褒め称えます。皆さんは、ブリンダーヴァンへの聖地巡礼をするときは、クリシュナ神の姿をした神を崇めます。また、アヨーディヤーでは、ラーマ神の姿の神を崇めます。でも本当は、ヴェンカテーシュワラ神も、クリシュナ神も、ラーマ神も、サイ ババも、すべてが同じ一つの神なのです。どのような名前で神を呼んでも、神はそれに応えます。神はいっさいの差別 をしません。皆さんは、名前と形の違いに惑わされてはなりません。アートマが一つであることに対する、揺るぎない信念を培いなさい。「宗教はたくさんありますが、その目指すところは一つなのです」。 愛の化身である皆さん! 皆さんは今日、ある人を悪人だと言って非難したかと思えば、明日にはいい人だと言ってその人を誉めそやすかもしれません。善と悪はあなた自身の考えです。あなたの心がそうした判断の原因です。実際は、人間の本質は常に善なのです。人として生きることは非常に神聖です。だからこそ、「神は人間の姿の内にいる」と言われるのです。自分はただの死すべき存在に過ぎないと考えて、自分自身を軽く見てはなりません。あなたはまことに神そのものなのです。あなたが人間に似せて描いた神を崇拝するという事実そのものが、人間が本質的に神であることを証明しています。名前や姿を必要以上に重視してはいけません。内在する神の原理を理解しなさい。 もしあなたが獣のような振る舞いをしていれば、人間として生まれることが何の役に立つでしょう? 皆さんはすべてを捨てて修行僧(サニヤシ)になる必要はありません。人間の内に神を見なさい。神は万物に浸透しています。神が特定の場所に限って存在していると言うことはできません。神がいない場所は存在しないのです。 いくつもの手と足と目と頭と口と耳をもって、 私たちは稲を育てますが、 籾は、脱穀や精米の過程を経て米になったとき、初めて食用に適したものとなります。米は、プリホーラ、チトラーンナム、チャッケラ ポンガリ、パーヤサムなどのような、種々の料理を作るのに使われます。米の粉は、イドゥリやドーサを作るのに使われます。このように料理の名前が異なっていても、どの料理も、米が主要な食材である点は変わりません。ちょうど籾が米に姿を変えたように、私たちの心も、サムスカーラと呼ばれる精錬の過程を経て、浄化されなければなりません。 皆さんは、物質的な観点から見ているために、惑わされています。皆さんは、ものの見方を変えなければなりません。神が世界を変えることを期待してはなりません。神は皆さんに、あらゆるものを、自然のままの姿で与えました。しかし、皆さんは、利己的な欲望のためにそれを汚しています。こうしたすべてのことの根本原因は心です。ですから、心を滅却しなさい。そうすればすべてがはっきりするでしょう。 愛の化身である皆さん! 少年期は、他の子どもたちとの他愛のない遊びのうちに過ぎ、 (テルグ語の詩) 人は、自分の若さを誇りに思い、マーヤー(迷妄)の罠にはまってしまいます。最期が近づくにつれて、彼はあらゆる楽しみや快適さを手に入れてきたにもかかわらず、いまだに心の平安を得ていないことを悔やみます。人は、少年期、青年期、中年期、老年期等々、人生のさまざまな段階を通 ります。ところが、年をとっても、彼のうちには何の変革も見られません。世界を変えようと努力する代わりに、人間は自分のものの見方を変える努力をすべきです。私たちは、物の見方を変えたとき、初めて真実を見ることができます。世界は何も悪くありません。神が創った世界は完全であり、誰もそれを別 なものと取り替えることはできません。神は、何かを意志するだけで、この世界にどんなことでも引き起こすことができます。 私たちは、肉体の力や活力が備わっている限り、遊戯や歌に参加して楽しむことができるかもしれません。しかし、どんなことでも、限度を超えてそれに浸るべきではありません。年齢が進むにつれて、肉体にはある種の変化が生じます。ここにいる皆さんは、M・S・スッブラクシュミー女史がいかに素晴らしい歌い手であったかを、誰でも知っています。ところが、老年になると、彼女の思う通 りには声が出なくなりました。彼女がこのことを私に話したとき、私は、彼女が声を使い過ぎたので、そのような境遇に陥ったのだと言いました。 皆さんの声と視力は、時がたてば必ず変化します。皆さんは肉体に頼っているので、動揺や不安に苦しめられます。肉体に頼る代わりに、アートマの、変わることのない、永遠の原理を頼みとしなさい。食べ物や飲み物に、必要以上に重きを置いてはなりません。人格を、あなたの命を支える息吹と見なしなさい。もし人格に欠陥があれば、あなたは人生において数え切れない困難に直面 するでしょう。 神は「サット」と呼ばれます。それは、変わることのない永遠の原理のことです。異なった宗教に属する人々は、それをさまざまな名前で呼びます。回教徒は、「アッラー ホー アクバル」と言って神を褒め称えます。彼らは、神こそが唯一の避け所と考えています。回教徒であれ、ヒンドゥー教徒であれ、すべての人にとって、神は唯一の避け所なのです。皆さんは、深く酒に浸るのではなく、神に浸るようにしなければなりません。いったんラーマをあなたの神と受け入れたのであれば、一生かけてラーマを深く思い続けるようにすべきです。しかし最近、人間は移り気になりました。ある日、彼はラーマ神の絵を祭壇に掲げて、ラーマの御名を唱えながら、神を礼拝し始めます。ところが、その人の願いが叶えられないときは、翌日には、ラーマの絵はクリシュナの絵と取り替えられてしまいます。 昔あるところに、シヴァ神の帰依者が住んでいました。彼は毎日、「オーム ナマ シヴァーヤ」という神聖な五字のマントラを唱えながらシヴァ神を礼拝していました。ところが、しばらく経つと、彼はシヴァ神がに何の恩恵も与えてくれなかったように感じました。そこで彼は、シヴァの絵を戸棚に入れて、祭壇にはラーマの絵を飾りました。最初は、彼はある程度の平安を感じることができました。しかし、相変わらず望みは叶えられないままなので、落ち着かない気持ちになりました。彼は、ラーマの絵も同じ戸棚に入れて、グルの助言に添って、クリシュナの絵を礼拝し始め、「ゴーパーラ クリシュナ」と言って、絶えず神の御名を唱え続けました。しばらく経つと、彼は、クリシュナ神すらも何もいいことをしてくれないと感じるようになりました。ある日、女性の帰依者がやって来て、「ラーマやクリシュナを崇めても何の役に立つでしょう? デーヴィプージャ(女神様に捧げる儀式)をしたほうがいいですよ」と言いました。 彼は、彼女の助言に従って女神の絵を祭壇に置いて、その絵を礼拝するようになりました。プージャを行っているとき、彼は、線香の香りが他の神々の絵が置いてある戸棚のほうに流れているのに気づきました。そこで彼は、線香は女神のためのもので、他の神々はその香りを楽しむ権利はないと考えて、戸棚から神々の絵を除けようとしました。たちまち彼の前に女神が姿を現して、次のように言いました。「おお、愚か者よ! あなたは何日かの間シヴァを崇めていたが、そのうちにラーマを崇めるようになり、しばらくするとまたクリシュナに宗旨変えをしました。明日になっても私の絵が捨てられないという保証はどこにあるでしょう? これは本当の帰依ではありません。最後の息を引き取るまで、一つの名前と一つの姿に心を定めて深く思い続けるようにすべきです。さまざまな困難にも心を動かさず、霊的な生活を続けなければなりません。神聖な感情でハートを満たしなさい。そうして初めて、あなたの人生は救われるのです」。もしあなたが人生において進歩向上したいと願うなら、決して神の御名を忘れてはなりません。一つの御名から次の御名へと心を移してはなりません。心を一つの御名と一つの姿に集中させなさい。 「人間の束縛と解放をもたらす原因は心です」。心が揺れ動くのは、あなたが欲望を抱えているからです。ですからあなたは、欲望を手放したときに、初めて平安を手に入れることができるのです。ただ単に慈善行為をするだけでは、崇高な人物になることはできません。一心に帰依をして、自らを神に捧げなさい。そうして初めて、平安と幸福を手に入れることができます。あなたの欲望をコントロールしなさい。あなたの思いをコントロールしなさい。そうすれば、すべてをコントロールできるようになります。 愛の化身である皆さん! 真我(アートマ)の化身である皆さん! 愛の化身である皆さん! 愛の化身である皆さん! 愛の化身である皆さん! 翻訳:サティア・サイ出版協会 |
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