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親愛なる生徒諸君! (テルグ語の詩) 今日、人は自分自身を偉大であると考えています。他方で、人間らしさが欠けている者はまったく人間ではありません。真の人間とは人間らしさが現れている人のことです。真の人間とは、サティヤ(真実)、ダルマ(正義)、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)、アヒンサー(非暴力)という五つの人間的価値を実践し、それを他の人々に説く人のことです。これら五つの価値のうち、たとえひとつでも欠けていたならば、人間という名にふさわしくありません。実のところ、人間は非常に知的です。その知性は無限で無比なるものです。しかしそれが人間の振る舞いに反映されていません。 パールヴァティー女神の確固たる献身かつてシヴァ神は激しいタパス(苦行)に没頭していました。パールヴァティーはシヴァ神と結婚したいと思っていました。しかしパールヴァティーの両親はパールヴァティーを思い留まらせようとしました。両親はシヴァ神の姿を次のように表現しながら、パールヴァティーを おぉ、ガウリー(パールヴァティー)! (テルグ語の詩) パールヴァティーは、これらの理屈すべてを無視し、取り合いませんでした。イーシュワラ神(シヴァ神)はパールヴァティーの本質を知っており、パールヴァティーはシヴァ神の本質を知っていたのです。事実、二人は互いに異なるものではありません。シヴァ神はシヴァ
シャクティー アートマカ スワルーパ(シヴァとシャクティーの具現)です。パールヴァティーもそうです。死すべき定めにある普通
の人間が、どのようにしてイーシュワラ神とパールヴァティーの神秘的な本質を理解できるというのでしょうか? 二元的な感覚があるところに疑いが生じます。二元的な その時、パールヴァティーの夫としてシヴァ神は不適格であると助言するため、サラスワティーがその場に現れました。サラスワティーは説明しました。「愛しいパールヴァティー! 世間はこのような奇妙な組み合わせを受け入れはしませんよ。あなたとシヴァ神は相性が良くない。あなた自身がすべてをご存知ですね。この点についてこれ以上詳しく説明する必要はありません。あなたは知っていながらその錯覚に陥ってしまいました。気の毒に思います」。パールヴァティーは 神はすべてに浸透している「イサヴァシャム イダム サルヴァム(あまねく宇宙には神が浸透している)」。シヴァ神の力は宇宙全体に浸透しています。人間の第一の義務は、イーシュワラットワ(シヴァの神性)を愛することです。実は、同じ神の力は、すべての人の体に内在しています。ちょうど人間の体が服で覆われているのと同じように、神もまたマーヤー(迷妄)で包まれています。それゆえ、イーシュワラットワは遍在ですが、目には見えないのです。「イーシュワラ サルヴァ ブータナム(神はあらゆる生き物の内在者である)」という金言に従って、イーシュワラットワは生きとし生けるすべてに浸透しています。このイーシュワラットワは年齢を超越しており、外見とはまったく関係がないのだと、パールヴァティーは説明しました。 パールヴァティーの悲しみラクシュミー女神もまたパールヴァティーがシヴァ神と結婚するのを思い止まらせようとしました。「愛しい人! あなたはとても若くて美しい。あなたの中には偉大な力がある。施し物を求めて家から家へと物乞いに回るような者と結婚したいと望むのは、あなたに似つかわしくありませんよ」とラクシュミー女神は説明しました。パールヴァティーはとても気を悪くし、厳しい口調で「私の夫となる方は物乞いではありません。それどころか、宇宙全体に施しを与えるのがシヴァ神なのです。あなた方が寄ってたかってシヴァ神を中傷するのは失礼千万です」と答えました。他の何人かもパールヴァティーの選択に反対し、問いかけました。「シヴァ神は蛇で身を飾っている。どうしてそんな者に求愛したのだ? そのことを知らないのか?」パールヴァティーは反論しました。「蛇の毒は牙の中にだけあります。しかし人間は体全体に毒を持っているのですよ。人間の見るもの、聞くこと、行動、すべては毒だらけです。あなた方はそのような毒のある人間を善良な者とお考えです。牙を抜けば蛇は誰も害することはありません。しかしアハムカーラ(エゴ)とママカーラ(執着)という二つの牙を持った人間は、何食わぬ 顔で歩き回り、仲間の人間と周りの世界に大変な苦しみを与えているのです。人間は自分を偉大だと考えています。人間は毒に満ちています。どうしてそのような人間を正すことができるというのでしょうか?」 高慢な者は、 (テルグ語の歌) あなたに内在する本質を認識しなさい神はすべての人々から愛されています。すべての人はただ愛だけで生きているのです。実のところ、愛を持たない人は人間ではありません。神と人間の中にある愛は、父と息子の間にある愛に似ています。そのような純粋で無垢な愛から悪意を生じさせるとは、なんとひどい罪なのでしょう。実のところそれは、社会に浸透している悪い性質の結果 です。すべての人間には生まれながらにして神聖な性質を持っているということが認識されたとき、そこにはいかなる差異が生じる余地もないでしょう。すべてはひとつです。すべての人に対して同じように接しなさい。私たちは人生においてそのような変容を成し遂げなければなりません。皆さんは何冊かの教科書を勉強します。ただ本を読むだけでは十分ではありません。それは決して皆さんを助けることはないでしょう。それらの文言の中に含まれている真実を悟り、体験しなくてはなりません。 ライラとマジュヌはすばらしい恋人同士でした。二人の愛は無私の愛であり、それは不滅となりました。二人の神聖な愛を理解できないがために、人々は二人の愛にさまざまな理由付けをし、多くの混乱を生み出しました。 母を神として崇めなさいあるとき、シヴァ神と母なるパールヴァティーが虚空を散歩していました。二人は、自分が座っている木の枝を切っている一人の男が地上にいるのを見つけました。その枝はもう少しで切り落とされるところで、今にも落ちてしまいそうでした。パールヴァティーはとても心配しました。「おぉ、主よ! 大地に落ちてしまわないように、今すぐあの男をお救いください」と、パールヴァティーはシヴァ神に祈りました。イーシュワラ神は答えました。「最初にあの男を見つけたのはお前だ。自分が座っている木の枝を切ることによって、男が落ちてしまいそうなことに気づいたのはお前だけだ。だから男を救うのはお前の責任だ」。するとパールヴァティーは条件をつけました。「スワミ! 普通
、高い所から落ちる人は、その苦しみを表すのに『アンマ(お母さん)!』あるいは『アッパ(お父さん)!』と言います。もしこの男が『アンマ!』と叫ぶなら、私が男を救いましょう。その反対にもし男が『アッパ!』と叫んだら、あなたが男を救わなくてはなりません」。イーシュワラ神はこの提案に同意しました。それと同時に、切られていた枝が折れ、枝に座っていた男は落ちてしまいました。母なるパールヴァティーは男を救う準備ができていました。シヴァ神も準備できていました。しかしその男は『アンマ!』とも『アッパ!』とも祈りませんでした。男はただ『アッヨー!』と泣き叫んだのでした。シヴァ神と母なるパールヴァティーの二人が男を救うために待っていたのに、その男は二人を呼ばなかったのです。私たちがどこにいようとも、そしてどんな状況に置かれたとしても、いつも自分の両親を覚えておかなくてはならないということを、この物語は気づかせてくれます。両親は私たちを絶え間なく守り、導いてくれる生きた神です。ウパニシャッドは「マトゥル
デーヴォ バーヴァ、ピトゥル デーヴォ バーヴァ、アーチャーリャ デーヴォ
バーヴァ、アティティー デーヴォ バーヴァ(汝の母、父、教師、そして客を神として崇めなさい)」と勧めます。皆さんは高い教育を受けているかもしれません。この世界のありとあらゆる分野の知識に精通
しているかもしれません。けれども、皆さんの母親にとって、皆さんは子どもに過ぎないのです。皆さんの母親の祝福は常にあなたと共にあるでしょう。そのような母を 窮地にある人間を守るという慈悲深い心を持っているのは、母なるパールヴァティーだけです。それゆえに私たちは絶え間なくシャクティースワルーピニー(エネルギーの化身)を憶念しなくてはなりません。シヴァ神は父であり、母なるパールヴァティーはシャクティースワルーピニーです。イーシュワラにはそんなにたくさんの自由はなく、帰依者を救うための行動を起こすことはできません。シャクティーが一歩前に踏み出したときに初めて、イーシュワラ神がシャクティーに続くのです。ですから、まずシャクティースワルーピニーを礼拝しなくてはなりません。シャクティーは正に母親です。「マトゥル
デーヴォ バーヴァ(母を神として崇めなさい)!」と言われるのはそのためです。第一位
の地位を与えられているのが母親です。自国でさえも母親と比較されます。「インドは私の母国です」と私たちは言います。誰しもが自分の国を「父国」ではなく「母国」と言います。インドの慣習では、結婚した女性は夫や義理の家族と暮らすために夫の家に引っ越します。その義理の家にいる女性は英語で「mother-in-law(義理の母)」と呼ばれます。しかし母なるパールヴァティーは世界全体にとっての「mother-in-love(愛の母)」なのです。「義理」が世俗に関する言葉であるのに対し、「愛」は人のハートに言及しています。ですから、まず愛を育てなさい。愛はあなたのすべてであると考えなさい。そうして初めて皆さんは実り多き人生を歩むことができるでしょう。皆さんの母親は素朴で社交慣れしていないかもしれません。身体が弱かったり、知的な面
で劣っていたりするかもしれません。けれども母親は母親なのです。母親が弱いとか病気になったというだけで、自分の母親を軽視してはなりません。母親はいつでも自分の子どもへの愛であふれています。帰依者ラーマダースが母なるスィーターに次のように祈ったのはそのためです。「おぉ、母なるスィーターよ!
どうぞ私の状況をラーマに説明し、私をお救いください。人里離れてラーマと楽しくおしゃべりをなさっている時に、どうぞ私の哀れな状況をご説明くださいますように」。帰依者ラーマダースはナワブ
タニシャの下で税務官として働いていました。ラーマダースは人々から集めたお金を使って、主ラーマ、ラクシュマナそしてスィーターのための寺院を建立し、金の宝飾品で神像を飾りました。国庫にお金を納めなかったため、ラーマダースは横領罪で刑務所に入れられました。ラーマダースは刑務所での おぉ、ラーマチャンドラよ! (テルグ語の詩) エゴと執着を取り除かない限り、人生で何かを成し遂げることはできません。謙虚さと忠実さがあれば、どんなことでも成し遂げることができます。道徳、霊性、肉体、さらには政治といった人生のあらゆる領域において、人は献身的に振る舞わねばなりません。そのとき初めて、成し遂げた仕事が栄光のうちに輝くことでしょう。 女性は尊敬されなければならない母親が肉体を離れるとき、そのときもなお母親の魂は自分の子どもとその幸福を気にかけています。ある日、一人の母親が私のところに近づいてきて、こう嘆願しました。「スワミ! 私の娘は皆の言葉に耳を傾けます。しかし重視するのはスワミの言葉だけです。生まれた時から娘は頑固で、私の言うことは聞きません。しかし、一度スワミから娘に話していただければ、娘はスワミのアドバイスに従うでしょう。娘はスワミをとても信頼しています。スワミの言葉に背くことはないでしょう」。このように何人もの母親がやって来て、子どもの代わりに何かしらを祈ります。母親には重要な役割があります。母親よりも上位 にいる神はいません。ですから決して自分の母親を軽視してはならないのです。自分の母親を軽視する人は様々な困難に遭遇するでしょう。女性は尊敬され、愛され、感謝されるべきです。そのとき初めて男性と女性は賞賛される立場となるでしょう。皆さんは偉大かもしれません。高い教育を受けているかもしれません。あるいは無学かもしれません。しかし皆さんは第一の義務として自分の母親を尊敬し、母親の言葉を大切にしなければなりません。 イーシュワラチャンドラ ヴィッディヤーサーガルという名の息子と母親がコルカタ(旧カルカッタ)の近くの小さな村に住んでいました。母親は息子を育てるのに大変苦労をしました。彼らの家には 謙虚さが偉大さをもたらすヴィッディヤーサーガルに偉大な名誉をもたらしたものは謙虚さと従順さだけです。今日でもなお、教科書の中にはヴィッディヤーサーガルの伝記があります。私たちが追い求める教育や、私たちが得る高い学位 の中に偉大さがあるのではありません。私たちに偉大さをもたらすのは謙虚さと忠実さなのです。この世の中には教育を受けた人々がいます。しかしそれが何の役に立つというのでしょうか? 人々が受けた教育から、世界はどんな恩恵を得るのでしょうか? 人をだめにするのは、エゴと執着だけです。この二つを取り除けば、人は真に偉大になることができます。 アーディ シャンカラが北インドで討論旅行をしていたとき、マンダナ ミシェラという名の偉大な学者に会いました。マンダナ ミシェラにはウダヤバーラティーという名の妻がいました。ウダヤバーラティーはアーディ シャンカラとマンダナ ミシェラの討論会の勝者を決める審判と仲裁人に選ばれました。ウダヤバーラティーは真実を神と考えていました。それゆえ、その任務にとても適していたのです。シャンカラは討論でマンダナ ミシェラを打ち負かし、ウダヤバーラティーによって勝者と宣言されました。討論を行う際の条件に従って、マンダナ ミシェラはサンニャース(出家)しなければなりませんでした。それゆえマンダナ ミシェラは出家しました。忠実な妻として、ウダヤバーラティーもまた夫に従い、出家者となりました。 目を開かせたウダヤバーラティーある日、ウダヤバーラティーは沐浴をするため、弟子たちとともにガンジス川へと歩いていました。その途中、ウダヤバーラティーは頭の下にひょうたんを置いてくつろいでいるサンニャーシン(出家者)を見ました。サンニャーシンは、水を蓄えるのにそのひょうたんを使っていました。それゆえ、ひょうたんを大切に守っていたのです。サンニャーシンのひょうたんに対する執着ぶりを見て、ウダヤバーラティーは弟子たちに言いました。「見てごらんなさい! あの男はサンニャーシンと自称しています。しかし、枕として自分の頭の下に置いているひょうたんには執着しているのです」。サンニャーシンはこの言葉を耳にしましたが、その時には何も言いませんでした。ウダヤバーラティーと弟子たちがガンジス川から戻って来ると、サンニャーシンはひょうたんに執着していないことを証明するため、ウダヤバーラティーたちの前にひょうたんを投げつけました。この振る舞いを見たウダヤバーラティーは適切な意見を述べました。「この人の中にはアビマナ(執着)という欠点だけがあると思っていました。今わかったのは、アハムカーラ(エゴ)というもう一つの欠点もあったということです。アビマナとアハムカーラを持つ人が、どうやってグニャーニ(英知の人)やサンニャーシンになれるというのでしょうか?」サンニャーシンにとって、その意見は目を開かせてくれるものでした。放棄の真の心得を授けてくれたウダヤバーラティーに、サンニャーシンは感謝の意を表しました。 カルナを見習いなさいこの世界の中では、さまざまな集団が異なる道を進まなければなりません。クリシュナ神は、英知の道を教え、愛の性質はすべてに共通
であるという真実を確立しました。ドゥリヨーダナやドゥシャーサナといった悪魔のような性質の人々さえも、クリシュナ神は許しました。カルナは邪悪な勢力に加担しましたが、崇高な性質の人でした。それゆえクリシュナ神はカルナの性質を賞賛したのです。カルナにはエゴと執着の (2007年2月17日の御講話より) ※ライラとマジュヌ 純粋で無私なる愛の本質は、ライラとマジュヌの話で説明することができるでしょう。ライラは大変なお金持ちの娘でした。ライラはマジュヌと恋に落ちましたが、両親はライラがマジュヌのような貧しくて若い男と結婚することに賛成しませんでした。ライラは両親の機嫌を損ねたいとは思いませんでした。ライラは崇高な人格の少女でした。ライラはマジュヌが彼女を愛しているかどうか調べてくださいと神に祈りました。耐え難い病からライラを救うため、マジュヌの血を提供できるかどうか調べるために、ライラは二人の召し使いをマジュヌのものにやったのです。マジュヌはすぐさま動脈を切り、ライラにグラス一杯の血を送りました。さらにマジュヌはライラの命を救うためならば自分の命すべてを与える準備ができているという言葉をその召使たちを通 しライラに送ったのです。マジュヌのただひとつの望みはライラが生き延びることでした。召し使いたちがこのメッセージをライラに伝えたとき、ライラはどれほどマジュヌが自分を愛しているかということを悟ったのでした。「私は私のマジュヌへの愛についてしか考えていなかった。私はマジュヌがどれほど私を愛しているか気がつかなかったのです」とライラは言いました。 (2001年6月10日、ベンガルール(1)の病院創立記念式典のご講話より) 訳注:
翻訳:サティア・サイ出版協会 |
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