サイババの御言葉

日付:2010年1月30日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
アーンドラ・プラデーシュ州ユースキャンプにおけるババの御講話

同一のアートマがすべての生き物に宿っている


愛の化身である皆さん!

夫のサティヤーヴァンが死ぬと、サーヴィトリーは死の神ヤマを追いかけて行って、夫を生き返らせてほしいと懇願しました。ヤマの両足にしがみつきながら、サーヴィトリーはねばり強くヤマと言い合いました。自分が負わなければならない大きな困難を物ともせず、サーヴィトリーはついにヤマの情けを勝ち取って、夫の命を救いました。

真理は最高の守護者

チャンドラマティーはもう一人の偉大なインド女性です。チャンドラマティーは荒れ狂う森火事を真実の力で鎮火させました。夫であったハリシュチャンドラ王の言葉を守るため、チャンドラマティーは多くの試練と苦難に耐えて、全世界に理想の女性としての輝く手本を示しました。チャンドラマティーはどのようにして真実を貫くことができたのでしょう?

聖仙ヴィシュワーミトラがやって来たとき、ハリシュチャンドラ王はこう聖仙に尋ねました。

「おお、尊き聖仙よ! 私は貴方に何をして差し上げられましょうか? 何でもおっしゃってください。私はそれを差し上げましょう。私の命をお望みならば、命さえも差し上げましょう」

すると、ヴィシュワーミトラは言いました。

「そなたの王国を我に与えよ」

すると、すぐさまハリシュチャンドラは、王国をヴィシュワーミトラに譲り渡しました。それから、宮殿の中に入って、妃のチャンドラマティーに言いました。

「もはや、この宮殿は我らのものではない。宮殿は聖仙ヴィシュワーミトラの所有物となった。我らには一切何の権利もない」

チャンドラマティーは喜んで夫の命じることに従い、こう言いました。

「あなたが聖仙と交わした約束を守るためならば、私はこの命さえ手放す覚悟です」

ハリシュチャンドラの王国を布施として受け取った後、ヴィシュワーミトラはさらにダクシナー(師への謝礼金)さえも要求してきました。ヴィシュワーミトラに一切を譲り渡してしまったのですから、ハリシュチャンドラにはもう何も残ってはいませんでした。そこで、ハリシュチャンドラは一ヶ月の猶予を懇願しました。ハリシュチャンドラは妃のチャンドラマティーと息子のローヒターシュワと連れ立って、空手で宮殿を後にして聖都カーシーへと向かいました。ハリシュチャンドラはカーシーで妻子をとあるブラフミンに売り渡しましたが、その代金はダクシナー代には到りませんでした。ヴィシュワーミトラがしつこく残金をせがみ続けるので、ハリシュチャンドラは、もはや自分の身を売るという選択しかありませんでした。

ハリシュチャンドラが身売りした人物は火葬場の主人でした。主人はハリシュチャンドラに、遺体を焼きにきた人たちから税金を取り立てる仕事をあてがいました。

チャンドラマティーと息子が身売りしたブラフミンは、二人を家に連れて行くと妻にこう言いました。

「おまえのために使用人を連れてきた。おまえの仕事を全部やらせたらいい」

チャンドラマティーは料理と台所の掃除をあてがわれました。それでも、チャンドラマティーは自分の身の上を明かしませんでした。

ある日、家の主人が、ローヒターシュワを自分の二人の子どもといっしょに森へダルバ(礼拝の儀式に使う草)採りに行かせました。ダルバを採っているとき、ローヒターシュワは蛇に咬まれてしまいました。いっしょに草採りに行った者たちがローヒターシュワの遺体を家に運んできました。チャンドラマティーは息子の亡骸を見て深い悲しみに沈みました。

チャンドラマティーは、その日の家事を終えたら夜に息子の亡骸を火葬場に運んでもよいという許しをもらいました。そこはハリシュチャンドラが管理人として働いている火葬場でした。ハリシュチャンドラはチャンドラマティーに遺体の焼き代を要求しました。お金は持っていませんとチャンドラマティーが答えると、ハリシュチャンドラは何人たりとも税金を払わずして遺体を焼くことはできないと言って、強く支払いを求めました。ハリシュチャンドラは、チャンドラマティーが身に着けていたマンガラスートラ(婚姻の証の首輪)を売って税金を払うようにと言いました。するとチャンドラマティーは、

「このマンガラスートラは、私の夫以外、誰の目にも見えないはずです!」と叫びました。

チャンドラマティーは、すぐさまその焼き場の管理人はハリシュチャンドラその人であると理解しました。チャンドラマティーは問いました。

「あなたはハリシュチャンドラではないのですか? 私たちのいとしい息子が死んだということが、おわかりにならないのですか?」

ハリシュチャンドラはわが子の遺体を見て悲嘆にくれました。しかし、ハリシュチャンドラは真実の誓いを立てていたため、妻にマンガラスートラを売るようにと言いました。ハリシュチャンドラがそう口にするや、シヴァ神が二人の目の前に現れました。シヴァ神は、言語に絶する苦しみを味わうことになっても二人が一切の妥協なく真実(真理、サティヤ)を貫いたことを褒め称えました。

万物は真理から生じ、真理に帰融する
この宇宙に真理が存在しない場所などあろうか?
この清らかで穢れなき真理を見よ

(テルグ語の詩)

一切は真理から生じます。私たちを守護しているのは真理です。シヴァ神はハリシュチャンドラに言いました。

「そなたの真理がそなたを守ったのだ」

それから、シヴァ神はローヒターシュワを生き返らせました。その時、ヴィシュワーミトラもその場にやって来て、ハリシュチャンドラに言いました。

「私は、そなたが真理に固く立脚しているかどうか試すために、事のすべてを行ったのだ。王国はそなたに返す」

ハリシュチャンドラはシヴァ神の祝福を得た後、妻と息子と共に王国に戻りました。三人の帰りを待ちわびていた全国民が、それに歓喜しました。誰もが幸せでした。そして、事のすべてを神のリーラー(神聖遊戯)として楽しみました。

一つの神聖原理が全世界に浸透している

現代人は自分の富や財産を自慢に思い、そのすべてを稼いだのは自分であり、すべては自分のものだと考えています。けれども、自分がそれらを得られたのはひとえに神の恩寵によるものだということを忘れているのです。神は姿をもたず、生死を超えています。生あるものには死もあります。一方、神には生も死もありません。同様に、ブラフマー神とヴィシュヌ神とシヴァ神という三位一体には、生も死もありません。神には来たり去ったりするようなものは何もありません。神は遍在です。

人々は自分の幸せや悲しみは神のせいだと思っています。けれども、神は幸せも悲しみも与えません。どちらも神のせいではありません。もし、そう思わないなら、それはすべて皆さんの想像です。もし、今日あなたが誰かをぶてば、あなたは後でその人か、あるいは別の人にぶたれるでしょう。もし、今あなたが誰かを傷つければ、あなたも同じように傷つけられるでしょう。つまり、人は誰もが自分の行為の報いを被ることになっているのです。あなたが体験することはすべて、あなたがしたことの反動、反映、反響以外の何ものでもありません。神はそれには何の関係もありません。あなたがすることはすべて、あなたに返ってきます。ですから、善を見て、善をなし、善を味わいなさい。神は何もあなたに与えませんし、何もあなたから受け取りません。神は何にも、どんな時にも、干渉しません。

誰であろうと、皆、自分の行為の報いに直面しなければならない
将来、自分の前途に何が横たわっているかを知ることができる者は誰もいない
ただ確かなことは、誰もが自分の行為の報いを刈り取らねばならないということ
並外れたラーマですら、シーター妃との別離という苦難に遭い、普通の人間のように泣いた
並外れたパーンダヴァ兄弟ですら、追放の身となり、森で暮らした

(テルグ語の詩)

あなたの悪い行いがあなたの難儀の原因なのです。この真実を理解することなく、人々は自分の受難について神を責めます。あなたの損失や獲得、幸せや悲しみ、生や死を神のせいだと考えるのは、大間違いです。神は永遠の照覧者です。何についても神を責めてはなりません。あなたの望みが叶うのも、叶わないのも、あなた自身に責任があるのです。人は皆、自分が体験することはすべて自分に責任があると考えなければなりません。

神はどこか遠く離れたところにいるのではありません。神を探しに行く必要はありません。あなた自身が神なのです。ウパニシャッドは「アハム ブランマースミ」(我は神なり)と明言しています。誰かがあなたの名前を尋ねると、あなたは「私はこれこれしかじかです」と答えます。あなたが持っている名前は、生まれたときに両親から付けられたものです。それは本当の名前ではありません。あなたはつねに、「アハム ブランマースミ」(我は神なり)、「タットワマスィ」(我はそれなり)、「アヤム アートマ ブランマー」(この真我は神である)と返答しなければなりません。あなたはどんな名前や場所にも制限されていません。蟻にもブラフマンにも宿っている同一のアートマ原理が、あなたにも内在しているのです。アートマは無形です。アートマには生も死もありません。アートマは過去にも現在にも未来にも、すべての時に存在しています。自分はアートマの化身だということを、いつも自分自身に念を押していなさい。「神はデーヴァ(神)で、私はジーヴァ(個々の魂)だ」という幻想におおわれていてはなりません。ジーヴァとデーヴァには何の違いもありません。全世界に一つの神聖原理が浸透しているのみなのです。

この世の関係は実在しない

この世のあらゆる身体的な関係は、あなたが自分で作ったものです。結婚すると、あなたは、

「彼女は私の妻です。私は彼女の夫です」と言います。実際、彼女はあなたの妻ではなく、あなたは彼女の夫ではありません。自分の幻想のせいで、あなたは彼女を自分の妻だと考えているのです。妻や夫などというものが存在しないとき、どうやって誰かを自分の息子だなどと呼ぶことができるでしょう?

エーカットワム サルヴァ ブータートマ
(同一のアートマがすべての生き物に宿っている)

ところが、あなたは何千万もの生き物はそれぞれ異なると考えているのです。1という数字の次に0を置くと10になります。もう一つ0を置くと100になります。1の後に0を三つ付けると1000になります。さらに0を足していくなら、値は増え続けます。けれども、1は1であり続けます。結婚すると、あなたは二人になります。一年か二年もすれば娘や息子が生まれます。そうするとあなたは、「私は夫で、彼女は私の妻で、この子は私の息子で、この子は私の娘です」と言います。けれども、夫や妻や息子や娘という関係はすべて、あなたの幻想にすぎません。こうしたこの世の人間関係は、あなたが自分で作ったものです。皆さんは夫と妻としてしばらく時を生きるかもしれませんが、この世を去るとき、誰が夫で、誰が妻ですか? あなたの欲望はあなたの人間関係を基盤にしています。そうした欲望は生じては去っていきます。欲望がなければ人間関係も存在しません。欲望が満たされとき、人は互いの顔さえも見ないと言われています。

皆さんは『バガヴァッドギーター』や『バーガヴァタ』や『ラーマーヤナ』といった聖典を読みます。それらを読んでいると、映画のスクリーンに映るさまざまな場面のごとく、いろいろな出来事が心の目に浮かんできます。実際、あなたが映画のスクリーンで見るものは人形芝居にほかなりません。本当は、役者の誰も死んではいませんし、泣いてもいません。皆さんは、今はこのことを理解していないかも知れません。40年前、映画女優のカンチャナ・マラ(1923−1981年)が私のところにやって来ました。皆、彼女の名前を聞いたことがあるでしょう。彼女は私に言いました。

「スワミ! 私はもう映画で演じたくないのです」

私がその理由を尋ねると、彼女はこう答えました。

「スワミ! 銀幕の生活は現実の生活とは違います。銀幕の上では、ある俳優は王、ある俳優は召し使いです。でも、その二人の間には本当の人間関係は存在しません。そんな人形芝居を見て泣く人もいれば、笑う人もいます。悲しくなる人もいます。私はそうした人形芝居の一部でありたくないのです」

この世もそれと同じように、人形芝居ではありませんか? この世の人間関係はすべて、銀幕の人形芝居と同じく、本当のものではありません。

この世では、誰もが、私の父、私の母、私の娘、私の息子、私の義理の息子等々と言います。けれども、実際にはそのような人間関係は存在しません。存在するのは一つの神聖原理だけです。

エーコーハム バフスヤム
(一なるものが多になろうと意志した)

皆さんは今、私は椅子に座っていて、自分は床に座っていると思っています。しかし、実際には、私は椅子に座っていませんし、皆さんは床に座っていないのです。私たちは皆、同じ場所にいます。皆さんは、神は高い場所にいて、自分は低い場所にいると思っています。これは肉体レベルでの一種の劇です。私は皆さんと分離していませんし、皆さんは私と分離していません。両者は一つです。私たちは皆、同一の宇宙の姿の一部です。皆さんは、小麦のプディングやアーモンドのプディング、グラブジャムーンといったデザートを作ります。別の名前で呼んでも、デザートの中に入っている砂糖は同じです。それと同じく、万物は同一の神聖原理の具現なのです。

この世のレベルでは、あなたは誰かを自分の敵対者と見なし、その人は自分を憎んでいると考えます。そうする代わりに、もし、あなたがその人に挨拶すれば、その人もあなたに敬意を示すでしょう。皆さんは、肉体レベルではある人を他の人とは違うと見なすかも知れませんが、本当は、両者には何の違いもありません。見方を変えれば、すべては一つであることに気づくでしょう。人々は私に尋ねます。

「スワミ! どうやったら集中力を伸ばすことができるのですか? どうすれば神を見ることができるのですか?」と。

けれども、神はあなたの内にいるのです。あなたが神なのです。

心の目を育てよ

あなたは一人ではなく三人います。あなたが自分だと思っているあなた、他人があなただと思っているあなた、そして、本当のあなたです。この三つの状態は、それぞれ、ドワイタ(二元論)、ヴィシュシュタアドワイタ(条件付不二一元論)、アドワイタ(不二一元論)を表しています。神は自分から分離しているという感情を心に抱いてはなりません。あなたの感情を変えるべきです。あなたが「これは私の体です」と言うとき、次に「私は誰か?」と自問すべきです。あなたが「私の体」と言うなら、それは、体とあなたは分離していることを意味します。同様に、あなたが「私の心」と言うなら、あなたは心ではありません。体と心はあなたから分離しています。体と心はあなたの道具でしかありません。「私」とう原理は、これらすべてから分離しています。

あなたが自分の小さな「私」(I)を切断(―)すれば、それはキリスト教徒が礼拝する十字架の象徴(十)となります。ギーターや聖書やコーラン等々といった聖典はどれも、同一の真理を示しています。

エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ
(真理は一つ、しかし、賢者はそれをさまざまな名前で呼ぶ)

同一のアートマ原理が万物に内在しているのです。アートマ原理を実感認識した者は神に到達します。もし、人類の唯一性を実感認識したければ、自分に内在しているアートマが万人に内在していることを認識すべきです。万人に神性を見るためには、あなた自身の生来の神性を認識すべきです。ところが、あなたは生来持っている神聖原理を認識することなく、外を見ています。外を見るなら、表面的な形しか見えません。目を閉じて内を見なさい。あなたが生来持っている神聖原理を見たいなら、心の目を育てるべきです。あなたに見えるのは、あなたが光を当てたものだけです。内を見るなら、あなたは自分自身を見ます。

人々の中には「神は存在しない」と言う者もいます。これは大きな間違いです。神は存在します。神はどこにいるのでしょう? 神はフルダヤヴァースィ(心に住まう者)です。自分が外しか見ていないから、あなたは神を内に見ることができないのです。神はなぜ、あなたに目を与えたのでしょう? 外にあるものを何でも全部見せようとして、神はあなたに目を与えたのでしょうか? 外にあるものを全部一つひとつ見ていたら、自分が生来持っている神聖原理を見ることはできません。あなたの耳も同様に、内なる声だけを聴くべきです。

生来の神性の自覚を高めよ

どうすれば真我顕現を得られるのでしょう? まず、真我への信頼を持ちなさい。そうして初めて真我の満足が得られます。真我の満足は真我への犠牲へとつながります。真我への犠牲を育んだとき、初めてあなたは真我顕現を得ることができるのです。真我顕現を得ると、「私」と「私たち」の間にあったあらゆる区別は存在しなくなります。

すべてはあなたの内にあります。外には何もありません。あなたが間違った側面を見ているとき、すべては間違って見えます。目を閉じて自分自身を見なさい。あなたの目を内側に向けて、「私は誰か? 私は誰か?」と自問しなさい。呼吸はあなたに正しい答えを与えてくれます。この真理を悟るには、自分の心を超越しなさい。(ここでスワミはご自分のハンカチを見せながら、お尋ねになりました)

これは何ですか? これは布です。これは布であるだけでなく、糸の束でもあります。糸の束であるのみならず、綿でもあります。綿がなければ糸は得られず、糸がなければ布は得られません。綿が布の基であるのと同じように、呼吸をしているときに生じるソーハムという音がすべてのものの基です。それは、シャブダ ブランマーマイー(音の具現)、チャラーチャラマイー(可動性と不動性の具現)、ジョーティルマイー(光の具現)、ヴァーングマイー(言葉の具現)です。ですから、まず自分の呼吸を観察し、「ソーハム、ソーハム」(それは私、それは私)という音に耳を傾けなさい。「ソー」は「それ」(神)を意味し、「ハム」は「私」を意味します。このようにして、呼吸はあなたに毎瞬毎瞬あなたの神性を気づかせているのです。これは最高の霊性修行です。ところが、皆さんは自分の呼吸に注意を払うことができずに、外に見るものに心を奪われているのです。

すべてはあなたの内にあります。幸せも悲しみも、天国も地獄も、解脱も。神はどこにいますか? 神はあなたの中にいます。あなたは神です。私が皆さんに「あなたは誰ですか?」と尋ねると、皆さんは「私はハイデラバードから来たシュリーニヴァーサです」だとか、「私はハイデラバードから来た何々です」などと言います。シュリーニヴァーサはどこで生まれましたか? 彼はその名前を持って生まれたわけではありません。シュリーニヴァーサというのは彼の両親が付けた名前です。

それと同じく、皆さんは自分を人間と呼んでいます。人間は神聖さの象徴です。それが皆さんの実体です。皆さんは、自分はディヴァイン(神)だと悟る代わりに、ディープワイン(濃いワイン)に溺れています! その一切は皆さんの迷妄です。ワインを飲めば人は酔います。同様に、迷妄に溺れている人は自分の実体を知ることができません。「人間」という言葉は何を意味しますか? 神を意味します。

人間的価値は何を意味しますか? 人間的価値は、真理、正義、平安、愛、非暴力という神の性質を意味します。これらは人間に真の価値を与えます。これ以外、この世のすべては実在しません。これら人間的価値を悟れば、あなた自身が神になります。これら人間的価値はすべてあなたの中から生じます。愛はどこから生じますか? 愛はあなたの中から生じます。真理はどこから生じますか? 真理も同様にあなたの中から生じます。人間的価値は本を読むことでは得られません。多くの人が本を読んでいます。弁護士は何十巻もある本を読みます。薄い本であれ、分厚い本であれ、本の基になっているのはアルファベットです。本で得る知識は外から来ますが、人間的価値はあなたの中から生じます。その五つの価値は、五つの元素、五つの感覚器官、五つの生気と同じように、あなたの内にあります。カーマ(欲望)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)、モーハ(迷妄、愛執)、マダ(高慢)、マーッツァルヤ(嫉妬)といった悪い性質は外から来ます。皆さんは分厚い本を書くことができるかも知れませんが、真理とは何か、平安とは何かを、言葉で言い表すことができますか? 人は、「私には平安がない。私には平安がない」と言いますが、平安はあなたの内にあるのであって、どこかよその場所にあるのではありません。目を内に向けるなら、平安を味わうことができます。あなたは平安と真理と愛と犠牲の化身です。これらはあなたが吸収すべき価値です。

皆さんは、セヴァ(奉仕)をして、私はこれをやったとか、あれをやったと言います。セヴァとは何を意味しますか? 自分自身を知ることが本当のセヴァです。あなたが自分自身を知るなら、それは万人にとっての奉仕となります。皆さんは、誰かが自分に職をくれた、誰か他人が自分に話しかけた、誰かが自分を虐待した、誰かが自分を殴った、などと考えます。これらはすべてあなたの想像が作り出した迷妄です。想像をやめない限り、真我を悟ることはできません。想像をやめれば、真我への信頼が育ちます。不必要な想像にふけっているなら、世界はカンチャナ・マラが指摘したような人形芝居以外の何ものでもないという、この世の実体を悟ることは決してできません。実際、全世界は反動、反映、反響であるのみです。

心を神に集中させよ

小さな例をあげましょう。ある牧童が、よく丘陵地の森に行って牛たちに草を食んませていました。あるとき、牛が草を食んでいる間、牧童は歌をうたい始めました。すると突然、それをまねた声が聞こえてきました。牧童は誰かがが自分の物まねをして、からかっているのだと考えました。牧童は、「そこにいるのは誰だ? どうして僕の歌を繰り返すんだ?」と叫びました。すると、また牧童が言ったことをまねた声が聞こえました。牧童は大変いらだちました。家に帰ると牧童は母親に事の次第を報告しました。母親は次のように言って牧童の恐れを和らげました。「私のかわいい息子よ! 怖がらなくてもいいんですよ。おまえが聞いたのは、ただのこだまです。それはおまえが出した音の反響にすぎません。おまえの声をまねた人など誰もいないのですよ」牧童は事実を理解しました。

これと同じように、人々は他人が自分をからかっている、自分を苦しめていると想像しています。それらは自分の感情や思考の反映以外の何ものでもありません。それはあなたのところに戻って来た、あなた自身の感情や思考です。悲しみについて考えるなら悲しみを得ます。怒りについて考えるなら怒りを得ます。こうした反動、反映、反響のすべての原因はあなた自身であり、他の何ものでもありません。あなたの悲しみや幸せの責任はあなたにあります。他の何にもその責任はありません。(ここでスワミはハイデラバードの青年の一人に「あなたの名前は何ですか?」と尋ね、青年はラヴィ・キランという名前を答えました。)

ラヴィ・キランはあなたの両親に付けられた名前です。あなたの本当の名前は何ですか? あなたの本当の名前はアートマ(真我)です。迷妄というあなたの重荷を、徐々に減らしていくべきです。より少ない荷物で、より軽快になれば、旅は楽しくなります。

すべては反動、反映、反響だと理解するよう努めなさい。あなたが何を話そうと、それは反響となってあなたに戻って来ます。同様に、あなたの行動も反動という形であなたに戻ってきます。あなたがどこを見ても、あなたは自分自身の反映を見るのです。 太陽に顔を向ければ、あなたの影はあなたの後ろにできます。反対に、太陽に背を向ければ、影はあなたの前にできます。一方、太陽が頭上にあるときには、影は足の下にできます。これと同じように、あなたの心を神に向ければ、マーヤーという迷妄はあなたの後ろに来ます。けれども、あなたの心を神から遠ざけるなら、マーヤーという迷妄はあなたの正面に来て、あなたはその餌食となります。あなたの心の焦点をぴったりと神に合わせるなら、マーヤーはあなたの足の下に来て、完全に鎮圧されます。ですから、完全に集中して自分の心の焦点を神に合わせなさい。そうすれば、心があちこち揺れ動くことはなくなります。あなたの心が定まらず、揺れ動いているならば、あなたは迷妄の餌食となります。

多くの人が、集中を実践して瞑想を試みます。瞑想とは何を意味しますか? 瞑想とはただ足を組んで目を閉じて座ることですか? いいえ、違います。瞑想とはまったく無思考で座ることです。自己を見つめること、それが真の瞑想です。一方、心が一つの場面から別の場面へと移動し続けるなら、それは瞑想ではありません。それは人間にふさわしいことではありません。それはむしろ、猿の心のしるしです。多くの人は、猿の心を固定することなく、瞑想という行を始めます。そのような人は、決して瞑想の状態に到達することはできません。自分自身を見つめなさい。真我に集中しなさい。自分の心を観察し、心が働いているかどうかを見なさい。あなたの心は何か良いことや悪いことを考えていますか? 善悪という二元性を超越し、自分の心を固定しなさい。

多くの人が、礼拝や儀式や苦行といった霊性修行に従事しています。どんな霊性修行に従事するかは重要ではありません。最も大切なのは、心が定まっているということです。(ここでスワミはもう一人の青年に「あなたの名前は何ですか?」と尋ね、青年は「ゴーラップディ・サイ・プラサード」と答えました。)

ゴーラップディはあなたの苗字です。それはあなたの家族が付けたものです。けれども、あなたは自分をその名前に限定すべきではありません。他人に自己紹介するとき、皆さんは「私はかくかくしかじかです」と言うかも知れません。けれども、心の核心においては、自分はその名前や姿を超越しているのだと考えるべきです。

皆さんは私をサイ・ババと呼びます。この名前は皆さんが私に付けたものです。私には特定の名前はありません。皆さんがどんな名前で呼ぼうとも、私は返事をします。ラーマ、クリシュナ、ゴーヴィンダ、ナーラーヤナといった名前はすべて、皆さんが付けたものです。皆さんはラヴィ・ヴァルマといった芸術家たちが描いた絵を見て、「これはラーマ、これはクリシュナ、これはシヴァです」と言います。けれども、ラヴィ・ヴァルマはラーマやクリシュナやシヴァを見たのでしょうか? いいえ、彼はそのどれも見ていません。彼はプラーナ(神話聖典)の描写を基にして、想像で絵を描いたのです。ラヴィ・ヴァルマは、ラーマを弓矢を操っている姿に描き、クリシュナを頭に孔雀の羽を一本着けている姿に描き、シヴァを三つ目に描きました。

人々は内的意味を理解することなくプラーナを読んでいます。心で何を考えようと、あなたはその反映を見るのです。(ここで青年の一人が、もっともっとセヴァ活動に従事するために、必要な力をお与えくださいとスワミに懇願しました。)

黄金たちよ! 力は与えたり受け取ったりするものではありません。力はつねに皆さんの内にあります。(ここで、一人の青年が「スワミ、私たちはスワミがいっしょにいてくださるなら、たくさんの良い仕事をすることができます」とスワミに言いました。)

もちろん、私はいつも皆さんと共にいます。皆さんが私に何を求めようとも、私はいつも、「イエス、イエス、イエス」と言うでしょう。

翻訳:サティア・サイ出版協会
出典:Sanathana Sarathi 2010年3月号より

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