サティア サイ 海外

       
サティア サイ 海外


 1996年の10月、四回目のパードゥカー祭(*注)が終わり、スッブラマンニャム チェッティアール氏(パードゥカー祭の主催者でシュリ サイ パードゥカー信託の会長)は、天国にいるような無上の喜びを胸一杯に感じながらマドゥライに帰って来ました。ある晩、彼は、ブラフマー神が御者となって七頭の馬を引く黄金の馬車の夢を見ました。馬車には豪華な金の玉座があり、その後ろには、目が眩むような光線を放つ金色の太陽がありました。突然、バガヴァン ババがその玉座の上に現れました。この、彼を虜にしてしまった光景は、何度もその夢に現れました。彼は目が覚めた後も、その光景を忘れる事が出来ませんでした。この体験で、スッブラマンニャム氏はバガヴァン ババの蓮華の御足のもとへ、この夢に見た黄金の馬車を捧げる準備に取りかかりました。

 スッブラマンニャム氏がこの黄金の馬車の計画をバガヴァンにお見せしたとき、バガヴァンは、このようなものは必要ないと言って許可をくださいませんでした。しかし、氏が固い決意と信仰を持った祈りを続けた結果、バガヴァンは世界中の何百万という帰依者のためにと、申し出を聞き入れてくださいました。ついに、スワミは帰依者に対する限りない愛から、シュリ サイ パードゥカー信託のメンバーたちの心からの祈りを受け入れ、シュリ サティヤ サイ スヴァルナ アーディッティヤ パードゥカー ラタム(金色に輝く太陽神の黄金の馬車の意)を作る計画を進める許可をくださいました。

 スワミが許可を下さったことへの感動と、世界中の帰依者からの励ましにより、スッブラマンニャム氏は、このプロジェクトの実現化に心血を注ぎました。彼の精米工場の庭の広いスペースは、他では見られない、幅、高さ共に5メートル半という驚くべき大きさの黄金の馬車を作る作業場となりました。他のチームは様々な種類の作業の準備にかかっていました。家族五代に渡ってこの道に携わっている最高の職人が雇い入れられました。当初、スッブラマンニャム氏は、この巨大なプロジェクトについて不安な気持ちで一杯でした。しかし、バガヴァンに対する揺るがぬ信仰が、迷いを生じた時の救いとなってくれました。やがて彼は、自分が神の神聖なサンカルパ(意志)を実現するための道具にすぎない事を悟りました。助けや協力が適切なタイミングでやって来ました。氏の息子や、疲れを知らず働くメンバーたちも協力し、このプロジェクトは愛の労作となり、工事は満足いく段階まで進展しました。
 
 1997年4月20日、バガヴァン ババはコダイカーナルへの途中、マドゥライにお寄りになりました。スッブラマンニャムと家族の祈りに答えて、バガヴァンはスッブラマンニャムの家に来られ、馬車を引く七頭の馬の中の、完成した一頭を祝福してくださいました。スワミはまた、この工事に携わっている職人たちの技術に満足され、幸せなご様子でした。スワミがマドゥライを訪問してくださった後、プラジェクトは急速に進展し、6ヶ月も経たないうちに工事は完成しました。この道の専門家たちも驚き、推定では3年半から4年はかかる工事だったと言いました。

 次には、この馬車を、タミルナードゥ州から、カルナータカ州を通ってアーンドラ プラデーシュ州まで運ぶ壮大な仕事が待っていました。140人が18台の車両を連ねました。それは、完全に覆いをかけた三台の大型トラック、主任技術者と緊急の時に備えた5人の技術者を乗せたバンも含まれていました。他の車には、このプロジェクトにかかわった職人たち、警護の警察関係者も乗っていました。全行程は二日かかりました。交通量の激しいバンガロールの市内は、警察のジープ4台と、6台のバイクに警護され、車列が無事に通過できるよう、全ての信号機は特別に操作されていました。これも全て、バガヴァン ババとその御名の栄光の恩寵で可能になった事です。黄金の馬車は、何の問題もなく、想像したより早くプラシャーンティ ニラヤムに到着しました。この馬車とともにマンディール(寺院)に安置するために、大理石の荘厳なスッブラマンニャム神(シヴァ神の次男)の像も運び込まれました。

 馬車を入れる小屋はすでにマンディールにありました。それは、マンディールの東側に、黄金の馬車など想像だにしなかった数年前に、すでに車5台分の車庫と共に建てられていました。その大きさも、面積が6m70p四方、高さが6mと、ぴったりの大きさでした。馬車が小屋に無事に納められた時、プロジェクトのメンバーたちは、自分たちがバガヴァン ババの神聖なご意志を実行に移した道具にすぎない事を悟り、任務は完結したという満足感を感じました。そしてそれは、翌日、ババからこのプロジェクトにかかわった全ての人たちに沢山の贈り物とパーダナマスカール(御足への礼拝)をいただくという、特別な恩寵を授かった事でいっそう明らかになりました。

 実は、馬車が完成する数週間前、プロジェクトのメンバーはプラシャーンティ ニラヤムを訪れていました。それは、黄金の馬車をスワミの御足のもとに捧げる予定の第5回目のパードゥカー祭の開催の時期を指示していただくためでした。占星学に基づいてスワミが馬車にお乗りになる吉兆な時を正確に割り出したチャートをお見せしたところ、全能の神はそのチャートの誤りを指摘なさり、予定の午前7時を5分遅らせ、9月22日の午前7時5分に変更するようにとおっしゃいました。スワミはそれと同時に、メンバーたちに、何千年も前に偉大な聖賢シュカによって書かれたヤシの葉の教典『シュカ ナーディ グランタ』を調べるようにともおっしゃいました。メンバーたちは、翌日バンガロール(ベンガルール)ヘ行き、その教典を見る事が出来る人物に連絡しました。その人物はメンバーが参照したい教典の箇所を見つける事が出来ました。メンバーはその説明を聞き、大変驚きました。

 その教典は、シュリ スッブラマンニャム チェッティアールという人物がバガヴァン シュリ サティヤ サイ ババの蓮華の御足に黄金の馬車を捧げ、吉兆の時間である、カンニャー ラグナのローヒニー ナクシャットラ(星宿)のチャンドラ カーラ ホーラー、すなわち、1997年9月22日午前7時5分に、バガヴァンは馬車に乗られるであろうと記してありました。そこには、その瞬間は大変珍しく、50年に一度しかない吉兆の瞬間であり、その瞬間に生まれた赤ん坊は、たとえ貧しい家庭に生まれたとしてもすぐに裕福になるであろうと書いてありました。馬車の寸法も細部の様子も、教典には正確に記してありました。また、同じ人物が、スッブラマンニャ神の像を捧げ、その像は過去に何百人というヨーギ(修行者)やリシ(聖賢)たちが厳しい苦行を重ねた場所に、バガヴァンの手で安置されるであろうと書かれていました。この像は、吉兆な日である、バードラパダ マーサ(インドの太陰暦の月の一つ)のクリッティカー ナクシャットラ(星宿)のクリシュナ パンチャミーのバーヌバーラ(日曜)、すなわち、1997年9月21日の日曜日であると書かれていました。それは、バガヴァン シュリ サティヤ サイババが黄金の馬車にお乗りになる前の日でした。
 
 長く待ち望んだ瞬間がついに来ました。プラシャーンティ ニラヤムの歴史において最も栄光に満ちた日の一つと言える翌22日、40カ国以上から来た帰依者たちがサイ クルワント ホールに集まっていました。バガヴァンはプールナ チャンドラ ホールの西側から黄金の馬車にお乗りになる事になっていたので、その通路の両側には帰依者たちが詰めかけていました。中には建物の上階や、さらには、アシュラムの外の家屋の屋上に陣取っている人もいました。『シュカ ナーディ グランタ』に予言されたとおり、そして、バガヴァン御自身の意志で決められたとおり、何千というという帰依者の喝采の中で、午前7時5分ちょうどにバガヴァンは馬車にお乗りになりました。バガヴァンが玉座にお座りになると、恍惚となったスッブラマンニャム氏はスワミの元に行き、帝王の中の帝王であるバガヴァンに、象徴としての儀式用の杖を捧げました。馬車はサイ大学の学生と、このプロジェクトの主催者である、パードゥカー信託のメンバーによって引かれました。伝統的なインドの楽隊であるナーダスワラム(吹奏楽器)が鳴り響き、ヴェーダの吟唱、バジャンが続く中、馬車は威風堂々とゆっくりと進み、玉座のバガヴァンは手を上げて群衆を祝福なさっていました。馬車がサイ クルワント ホールの入り口にさしかかると、何倍にも増えた帰依者たちは、鳴り響く拍手と「サイ ラーム」を唱え最愛の神を迎えました。馬車がホールに入ると、ババは立ち上がり、帰依者たちに祝福を与えて手を振ってくださいました。その後、ババは馬車から降り、群衆の中を歩いて、周りに神聖な恩寵をお与えになりました。夕方には、群衆たちに御講話を与えて祝福してくださいました。
 
 Sathyam Sivam Sundaram Vol.7 p.114~120より抜粋編集
 
 (ババ様は後日、自分は派手な黄金の馬車には乗りたくはなかったが、ひとえに帰依者の願いを叶え、帰依者を喜ばせるためだけに、自分は馬車に乗ったのですとおっしゃいました。そのおかげで、数多くの帰依者が、至高神にふさわしい黄金の馬車に乗ったババの姿を目にするという恩恵にあずかり、その喜びに浸ることができました。)
 
 *パードゥカー祭
 
 パードゥカーとは履物、足型を意味し、神やグルの履物や足型を本人の象徴として供養礼拝することをパードゥカー プージャー(履物供養)と言う。ヒンドゥー教では身体の中で臍から下は汚れたものとされ、その中でも足は最も汚れた部分と見なされており、それゆえ、足を礼拝することは最大の敬意を表すことを意味する。
 また、パードゥカー プージャーは、『ラーマーヤナ』でラーマが14年間森に追放されることになったとき、ラーマは弟のバラタに国王となって国を治めるようにと命じたが、バラタはラーマ以外に王はいないとそれを拒み、王座にラーマの履物を置いて礼拝しながら、あくまでもラーマの代理として国を治めたことに端を発するとも言われている。 以前プラシャーンティ ニラヤムで行われていたパードゥカー祭では、パードゥカー 信託のメンバーである信者たちが列をなし、銀等で作ったプージャー用の履物をスワミに捧げ、祝福していただいていた。




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