H2Hより抜粋 By Mr.B.K.Misra

       
愛は忘れること

 プラシャーンティ ニラヤムの小学校の訪問日に、私は構内に座っていました。学校中が祭日の喜びにあふれていました。子どもたちは両親や親族に面会したり、ふざけ回ったり、ゲームに興じたり、シーソーに乗って上がったり下がったり、ブランコに乗ったり、象の鼻に似たすべり台の出口からすべり出てきたり、そのすべての光景はまるでおとぎの国のようでした。二人の先生が子どもたちに目を配りながら歩き回っていました。
 そのとき突然、私はある興味深いシーンを目撃したのです。私から少し離れた場所で、2年生くらいの少年が目をこすりながら泣いていました。年長の少年が近づいて、その少年になぜ泣いているのかわけを尋ねました。その少年が片手で目をこすりながら、もう一方の手で指をさした先を見ると、1人の先生が2人の子どもたちをたしなめていました。年長の少年は尋ねました。
「どうして?なぜ君が泣いているんだい?」
「先生があの子たちを叱っているからだよ」と、その少年は答えました。
「先生は君じゃなくて、あの子たちを叱っているんだよ。なのに、なぜ君が泣くんだい?」
「あの子たちは僕の友達なんだ、同じクラスなんだ・・・」
 少年はしくしく泣きながら言いました。年長の少年は、なんと言って慰めてよいのかわかりませんでした。

 それから場面が変わりました。先生は叱っていた2人の幼い生徒のうち、1人の男の子を抱き上げると、自分の肩に乗せました。きっとその子の目に涙を浮かばせたくなかったのでしょう。さっきまで泣いていた少年は、いきなり喜んで飛び上がりました。この予期せぬ変化に戸惑ったのは年長の少年です。年長の少年は尋ねました。
「いったい何が起こったの?君は何をそんなに喜んでいるんだい?」
「見て、先生は僕の友達が大好きなんだ、先生が僕の友達を肩車しているよ」
その少年は2、3歩飛び跳ねて、駆け出して行きました。

 私は言葉を失い、仰天してしまいました!なんという完璧な、他者の涙と笑顔との一体感であったことでしょう!

 数日前、私はバガヴァン ババの謎めいたメッセージを読みました。それは「愛は忘れることです」というものでした。なぜ愛が忘れることなのか、私には意味が理解できませんでした。一体だれが、何を忘れるというのでしょう?どうしてそれが愛になり得るのでしょう?思いやりにあふれるバガヴァンは、「忘れる」という言葉の意味を明らかにしてくださいました。それは、自分自身を忘れることであり、分離感を忘れることであり、自分と他者を同一視すること、これこそが愛の目的なのです。この幼い少年は、友達の涙や笑顔と自分自身を完全に同一化していました。それゆえ、自分は叱られていないことや、自分は愛されていないことはすっかり忘れて、友達が叱られていることや、友達が愛されていることを、自分自身も体験していたのです。それは完全な自己消失であり、エゴ(自我)の消滅でした。

 ですからバガヴァンは「愛はエゴレスネス(自我がないこと)であり、エゴはラブレスネス(愛がないこと)である」とおっしゃるのです。「真の愛とは、最愛なる者の内に私が生きる時、最愛なる者の内で自分自身を忘れる時、川が海に流れ込み、海という大我の中で、分離した川という小我を忘れる時です」

 バガヴァンはちょっとしたポエム(詩)をお書きになり、それは目に見える形で私に大きな教訓を授けてくれました。学びの喜びは尽きることがありません。この出来事の後、私は数週間ものあいだ歓喜の大海に浮かんでいました。

 しかし、これで終わったわけでありませんでした。バガヴァンは教訓の一部を授けて満足なさることはありません。バガヴァンが教えてくださるレッスンが制限されることはあり得ないのです。この出来事の数週間後、ダサラー祭がやってきました。ヴェーダ プルシャ サプターハ グニャーナ ヤグニャ(ダサラー祭の期間に行われる供犠)が執り行われていたある日のことです。プールナチャンドラ大講堂で、私は興味深いシーンを見せられました。

 ヤグニャは続いており、人々は講堂に入ってきて座る場所を確保しようとしていました。1人の父親が、3歳くらいの女の子と一緒に入ってきて、私のそばに座りました。その子は丸々と太った少女で、笑うと可愛いえくぼがありました。親子は腰を下ろし、父親は娘を自分の隣に敷いたマットの上に座らせようとしました。しかし、少女は地面に座ることを嫌がりました。少女は片手を父親の首に回し、父親の膝の上に座りました。それから少女はプールナチャンドラ大講堂の天上の壁を見上げ、それぞれの絵画について父親に尋ね始めました。

 しかし、その間ずっと少女は父親の膝の上で、父親の首にしっかりとしがみついていたのです。私はその光景を見て興味を抱きました。その少女から目が離せなくなったのです。しばらくすると、少女は絵を見るのに飽きたのか、今度は父親の首に両腕を回して、父親の肩に自分の顔をうずめました。

 そのとき、私はひらめきました。バガヴァンは私に、この前の教訓の続きを見せてくださっていたのです。ただ、こうして父親にしがみつくことさえできれば良いのです!ラーマクリシュナ パラマハンサはよく弟子たちに言ったものでした。「おまえたちのドーティ(腰巻)の端を、非二元論で結んでおくがいい。そうすればどこへ行こうと安全だ」と。それはつまり、人が非二元論の知識の中に立脚するなら、サムサーラ〔浮世〕の魅力は何の影響を及ぼすこともないという意味です。

 シュリ ラーマクリシュナは、言葉の比喩を用いて大事な教訓を理解させましたが、バガヴァンは目に見える光景の比喩を用いて、計り知れない深遠な教訓を授けてくださったのです。もし私がこの子どものように父親にしがみついてさえいれば、安楽と自立を求めて世俗の誘惑に道を譲るのをやめ、父親の膝から降りることを拒むなら、私はすっかり安全なのです。

 私はこの世という数多くの絵画に興味を抱くかもしれません。しかし、片手をしっかり父親の首に巻きつけて、父親が説明してくれる言葉に耳を傾け、永遠に両手で父親にしがみつく覚悟を決め、この世界から目を転じて父親の中に身をうずめます。すると私の全存在は、この世のあらゆるものを遥かに超えて、真実である父〔神〕だけに集中するのです。言うまでもなく、私の目とハートは喜びに満ちあふれました。

 これは、「真の愛」に続いて、「全託」のすばらしい教訓でした。愛は全託であり、全託は愛なのです。

 H2Hより抜粋 By Mr.B.K.Misra 




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