プラシャンティ ニラヤムより
グル プールニマ祭ツアーに参加して
7月22日から、約9日間のツアーに参加した。サイババのもとを訪れるのは、実に4年振りのことである。4年の間に、私も、私を取り巻く環境も、すっかり変わってしまった。二元性の世界に、どっぷりと浸かって生きる現在の私にとって、サイババとは一体何なのか、それを確かめてみたくなったのだ。
かつて私は、サイババのもとに滞在したことがある。その間、毎日ダルシャンを受け、熱心に教えを学び、幸運なことにインタビューも何度かいただいた。それは確かに、ババと私の蜜月に他ならず、まさに甘さそのものより甘い、至福の日々であった。
しかし、日本に帰ってからの現実は、アシュラムのように一筋縄にはいってはくれない。月日を追うごとに、サイババの御教えの通り生きていくことに行き詰まりを覚える私。そして、そこが私の弱いところなのかもしれないが、ついにはサイの教えをすっかり手放してしまったのだった。それ故にか、私の生活はますます混迷を極め、もはや行き着くところすら分からない、という状態。
けれどもサイババへの想いは、郷愁のように私につきまとい、離れないどころか日に日に色濃くなっていく。決着をつけなければならない。そうしなければ、私は何処へも行くことができないのだ。ある種、切実な思いを胸に、私は日本を発った。
4年振りのインドは、日本の目まぐるしさをあざ笑うかのように、何も変わっていなかった。照りつける太陽、褐色の大地。私たちを乗せたバスは、一本道をひた走る。
目的地に近づくにつれ、窓外はにわかに活気を呈してきた。懐かしい光景が広がる。至高の平安の館、プラシャンティ ニラヤムに着いたのだ。ここで初めて私は、その変わりように目を見張った。
ダルシャン ホールは、かつての2倍の大きさだ。しかも、いまだ拡張工事を続けている。人の増え方も尋常ではない。祭りを控えているせいもあろうが、それにしても、だ。
そろそろサイババの話をしよう。毎朝、3時半に並んでもサイババに肉迫することは難しかった。誰が悪いというわけでもないだろうが、籤を引いても後ろの方で、その姿を間近で見るというところまで辿り着けない。けれども私は、近過ぎず、遠過ぎず、そんなところで淡々と眺めているぐらいがちょうど良いのでは、と思っていた。
サイババのパワーは、相変わらず『モノ凄い』としか形容のできないものが感じられたし、その姿を見るだけで、何かゴチャゴチャした思いや、不安が一気に吹き飛んでしまう。
サイババがそこにいる、それだけで十分だった。もし、あの鋭い一瞥で睨まれたり、または笑顔など向けられようものならば、私は間違いなくその場で粉砕してしまうだろう。かつてのような熱い涙を流すかもしれないし、そうなれば帰りのチケットを捨てることにすらなりかねない。良いのだ、何事もなくて…。
決着をつけるつもりで来たのだが、私はすっかり引け腰になっていた。一つだけはっきりしたこと、それは私はサイババから離れることができない、ということだった。
グル プールニマ祭当日、私はすっかり体調を崩してしまい、文字通り死に体だった。最終日のダルシャン、前から5列目、サイババがゆっくり前を通って行くのを私は黙って見送った。何か知らないけれど、ふっ切れた、という気がした。無理を言ってでも来て良かった。特に何があった、というわけでもなかったけど。結局サイババと目が合うこともなかったし、手紙も渡せずじまいだった。それでも、来て良かったと思える。
グル プールニマ祭の前夜、Bro.ジャガディーサン(セントラル ユース コーディネーター)とBro.アニール クマール(サイ大学教授)の講演があった。連日のハードスケジュールでバテ気味の我々(男性グループ)に対し、お二方とも非常にテンションが高い。信仰の底力を見せられた、そんな気がした。その中でBro.ジャガディーサンが、「何かを求めてスワミに祈るのではなく、スワミ、私に何をお求めですか? と祈りなさい」と言っていたのが印象的だった。
「スワミ、私に何をお求めでしょう?」
その答えは、帰国後の日々の生活の中にある。そう確信して、私はプラシャンティ ニラヤムを後にした。
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