貧しいことは美しいこと
シスターたちの唱えるアッシジの『聖フランシスコの祈り』が、カルカッタの街に
朝を告げます。蒸し暑い、質素な聖堂。窓は開け放たれ、目を覚まし始めた町の喧騒が時折祈りの声をかき消していきます。
ミサにあずかる人々の後ろで、いつもひっそりとひざまづいていた一人の小さな老
女はもういません。彼女の少し丸みを帯びたその背中を、祈りの日々の刻まれた皺だらけの手を、人々を惹きつけて止まなかった笑顔を、私たちは二度と目にすることはできないのです。ただそこには、ほぼ半世紀という長い年月の間、変わらず在り続けた何かが、厳しく優しい空気の中に今も確かに在るだけなのです。
その老女はいつも言っていました。貧しいことは美しいことだと。貧しい人の一人
一人はイエス キリストその人なのだと。いつのときも彼女はその一人一人の中に神
を見、心から献身していました。そして、様々な機会に小さな体験談を通して彼らの素晴らしさを語りました。
「8人の子持ちのヒンドゥー教徒の家族がこのところ何も食べていないと聞き、私
は一食に十分なお米を持ってその家に行きました。そこには目だけが飛び出している
子供たちの飢えた顔があり、その顔がすべてを物語っていました。母親は私からお米を受け取ると、それを半分に分け、家から出ていきました。
しばらくして戻ってきたので「どこへ行っていたのですか」と尋ねると、母親はニ
ッコリ笑って「彼らもお腹を空かせているのです」と答えたのです。『彼ら』という
のは、隣に住んでいるイスラム教徒の家族のことで、そこにも同じく8人の子供がおり、やはり食べるものがなかったのでした。この母親はその事を知っていて、わずかの米の一部を他人と分け合う愛と勇気を発揮したのです。自分の家族が置かれている状況にもかかわらず、わずかの米を分け合うことの喜びを感じていたのです。富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合う、それが彼らの素晴らしさです」
そして、彼女は言いました。何もないところにこそ、真の自由があるのだと。
「ある女性が私の手を取って、たった一言「ありがとう」と言って死にました。私
があの女性だったら、きっと「苦しい」「助けて」と言っていたでしょう。彼女は私が与えたものよりも、もっと大きなものを私に与えてくれました。貧しい人は我慢強く、優しいのです。それが彼らの偉さです」その信念こそが、世界中の人々の心を動かした彼女の『偉業』のすべてを支え続けました。
「何をするかと決める計画などはありませんでした。苦しんでいる人々が私たちを
必要としている、と感じた時それに対処したにすぎません。神様はいつも何をするべきか教えてくださいました」
「もし、これが私の仕事だというのなら、私が死んだら終わってしまうでしょう。でも、これは神様の仕事。私が死んでも終わることはありません」
その言葉通り、40万人を超える路上生活者と36万人を超えるハンセン病患者
を抱え、世界最悪の都市と呼ばれるカルカッタの街中へ、今日もそして明日もシスターたちは出掛けていきます。このベンガル地方のうだるような暑さの中で彼女たちの来訪を待ちわびる愛おしい人々と、限りない愛を分かち合うために。
誕 生
旧ユーゴスラビアの古都スコピエ。1910年8月27日、様々な人種と様々な
宗教が同居するこの街に一人の女の子が生まれました。彼女の名前はアグネス ゴン
ジャ ボワジュ。
教養ある父と信心深い母、優しい姉と兄、何不自由のない裕福な家庭でアグネスは育ちました。イスラム教のモスクやビザンチン風のギリシア正教会、そしてカトリックの教会、その間を母は彼女を連れて様々な奉仕活動へと出掛けました。
「良いことは淡々としなさいと、母はよく言っていました。貧しい人を助けるのは
当然だと。母はまず、神に接するきっかけを与えてくれました。そして何よりも、神を愛することを教えてくれたのです」
ある日、神父が聞かせてくれた話を通して、12歳のアグネスは初めてインドという国を意識し、貧しい人々のために働く使命があることを知りました。自分も宣教師になって貧しい人の力になりたい。しかし、愛に溢れ、互いに強い絆で結ばれた家族と過ごす幸せは、その後しばらく彼女の決心を鈍らせていました。
決 心
18歳の時、アイルランドに本部をもつ、ロレット修道会が修道女をインドに派遣
して、宣教にあたっていることを聞き、アグネスは自らの一生を神に捧げるために家を離れる決心をしました。
洗礼名はテレサ。貧しい人々に仕え、そして多くの人々に愛された「小さな花」、「リジューの聖テレジア」に因んで付けられました。去りがたいほどに愛しいスコピエでの日々、しかし迷いはありませんでした。
「家族と離れるのは辛いことでした。でも、その時から信仰が揺らいだことはあり
ません。すべて神の御心だったのです。選んだのは神様でした」
インドへ派遣されたシスター テレサは20年間聖マリア高校での教育に携わりま
した。地理を担当し、ユーモアを交えた教え方はとてもわかりやすく、生徒からの信頼は絶大でした。彼女の周りにはいつも生徒の笑顔がありました。神様は愛しいものを手放した者に、またさらなる愛しいものをお与えになる。テレサは自分を「世界一幸せな修道女だ」と思っていました。
ある日、食料を調達するために、同僚のシスターと一緒にテレサは学校の外へ出ま
した。当時のベンガル地方は、500万人の餓死者を出した大飢饉の後遺症が癒えないまま、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が衝突を繰り返していました。そして、非暴力主義を貫き、ヒンドゥーとイスラムの共存を心から願ったインド独立の父マハートマガーンディーが暗殺され、独立一周年でのこの悲報は世界中に衝撃を与えていました。
度重なる争いのなかで傷ついた人々は、住み慣れた土地を追われ、難民となってカルカッタへと流れ込みました。人々の苦しい生活を目の当たりにしたテレサの心は、修道院の頑丈な壁の中でひっそりと営まれる平穏な日々への疑惑と不満で乱れていました。
「インドには貧しい人が無数にいます。路上に行き倒れ、貧困と飢えと病に冒された、孤独な人々…。この違いは何? 私たちはみな同じ神の子なのに。かつて、ガーンディーはキリスト教宣教師に言ったではありませんか。『もし救いを唱えるのなら、自らも貧しさの中に身をおけ』と…」