サイラムニューズ NO.75  

サイの御教え



講 演
神と人の性質、私たちの目的と
私たちの計画、 時間、時間、時間

S S O 世界第一地区世話人 マイケル G ゴールドスティン

 
       
        心の準備

 謙虚さと愛をもって、バガヴァン ババ様の蓮華の御足にお 祈り申し上げます。尊敬するゲ ストの皆さん、そして兄弟姉妹 の皆さんにサイ ラムとご挨拶申し上げます。今日、この記念すべ き日に皆様とご一緒できますことを幸せに思いますと共に、シュリ サティア サイ オーガニゼーション ジャパンの25周年記念に参加する機会を与えていただきましたことを大変感謝しております。
  私たちは今日、このよき場所におります。実は、私たちは、 この神のくださった素晴らしい地球上に、一つの目的をもって生きるためにいるのです。それはお互いに愛しあい、高めあい、また無私の愛と、絶え間ない神の実感を意識するためです。これが今日私たちがここに集まった目的であり、私たちが神に授かった人生を生きる目的なのです。

 バガヴァン シュリ サティア サイババ様の帰依者とし て、誠実で真剣な霊的修行者として私たちは時間の重要性を認識しています。今日ここに私たちに与えられている時間も、また神がくださった人生の時間も実に限られています。ですから一番重要なことに焦点を当てましょう。それは、『神と人の性質、私たちの目的と私たちの計画、時間、時 間、時間』ということです。
  今こそ、視野を広くし、人間として生を受けてから天国に召される間の構想を練るときです。それはこの世とその混乱の中に分け入り、マーヤー( 迷妄)という妄想から抜け出るためです。今こそ、私たちに内在する神性を実感することに向かって前進するときなのです。
  今日、私はそのようなことをお話しするつもりでいます。しかしその前に私は自分に準備はできているのかと問わねばなりません。『準備ができている』とはどういうことでしょう。最近、スワミは私に『準備ができている』ということについて大変深く、そして辛辣(しんらつ)なレッスンをお与えくださいました。これは皆さんにも、そして私たちが常に行っているすべてのことにも当てはまることです。
  あるとき、私はプラシャンティ ニラヤムにいました。そ して、ある対立的な問題を抱えて頭が一杯でした。オーガ ニゼーションに関するいくつかの事柄において自分の意見に固執して、兄弟たちと仲違いをしていたのです。この日、スワミは御講話をされる予定になっており、ダルシャ ンに出て来られました。スワミは優雅に人々の間を歩き、 愛を降り注いでおられました。通 常、スワミが御講話をされるときは、事前に一人か二人の人が選ばれて御講話の前に短い話をする習慣になっています。この日、私はその話し手に選ばれる光栄には預かっていませんでした。スワミは歩いてダルシャンを与えておられました。そして、驚いたことにスワミは私の所へ来られてこう言われました。 「ゴールドスティン、あなたは今日、話すのですか? 」そして私は言いました。「スワミ、もしそれがスワミの御意志で あれば私はお話します」するとスワミは、「準備はできていますか? 」と言われました。そして、私は「スワミ、もしそれがあなたの御意志であれば私は準備ができるでしょう」と答えました。そしてスワミはそれ以上何も言わず、ダルシャンを続けるために歩いて行かれました。少ししてからまたスワミは来られ、私に「準備はできていますか? 」と 言われました。そしてまた、私は言いました。「スワミ、もし それがあなたの御意志であれば私はお話します」そしてスワミはマンディールの御自分の部屋に入ってしまわれました。しばらくして、スワミは御講話を与えるために出て来られました。御講話を与えるために正面 に座ろうとする寸前に、三度目に私のところへ来られて、また聞かれまし た。「準備はできていますか? 」私はこのとき、期待で一杯でした。私はスワミがスワミの前で話すために私を選んでくださるに違いないと思い、全くその気になって、「スワ ミ、準備はできています」と答えました。するとスワミは私に顔を近づけて言われました。「準備ができているというのは、内面 の状態のことだよ」
  その瞬間、私はその意味が分かりました。準備ができているということと『それにふさわしい』ということは同じことなのだと。
  私は『準備ができている』と思っていましたが、心の中は乱れていました。言葉は思いと感じることと行うことを反映していなければなりません。そこで初めてあなたは準備ができ、ふさわしい者になるのです。サイ オーガニゼーションに関する意見の相違と混乱で心の中は一杯で、私には平安と愛について話す準備はできていませんでした。私の内なる世界は平和で調和のとれた状態ではなかったのです。その私がどうして平安と愛について話すことができるでしょう。お分かりだと思いますが、私は準備ができていなかったのです。そして言うまでもなく、その日私は話しませんでした。簡単な言葉や文章で、スワミは色々な段階の多くのレッスンを与えてくださいます。これが神の性質です 。
  私がこのことを皆さんにお話ししているのには理由があります。なぜなら多くの方々が自分たちのサティア サイ オーガニゼーションに強い思いをもっておられることを知っているからです。私は皆さんに自分の内を深く見つめ、あなたの師である良心に、この気持ちは霊的か、自我はないか、ふさわしいものかと尋ねることをお勧めします。 常に言えることですが、私たちはオーガニゼーションの問題やミーティングの結果 のすべてをこの世的な体験ではなく、霊的体験にしたいと望んでいます。
  さて、今日の私のマントラをもう一度唱えましょう。『神と人の性質、私たちの目的と私たちの計画、時間、時間、時間… 』

遍在の神

 神についてはどうでしょう?  神が御自身を人間に知らしめようとするとき、そこには目的があります。それは、人間を高めて、神の資産と人の生涯の目的を人間が理解できるようにするためです。神は色々な形で御自身を人に知らしめます。自然は、私たちが自分の神性を見つけるために、 神によって創造されました。それは『かくれんぼ』のようです。しかし、神は遍在ですから、すべてのところに隠れておられます。最初に私たちは無邪気に私たちの外に神を探します。そして霊的に成長するにつれて、自分の心の内に神を探します。そこで私たちは真の自己、神である自己、無私の自己を見つけます。神の知識はすべての人生の体験に内在しています。神に与えられた時間のどの瞬間にも、私たちの誰もが突然真の自分が何であるかを知り、真の自己になる可能性があります。神がよりよく御自身を分からせてくださろうとする様々な方法の中で、他とは比較にならないほどもっとも偉大なものは、神が人の姿をとるときで す。神がアヴァター( 化身)として生まれ、神人として私たちの中を歩くときです。バガヴァッド ギーターが教えているように、人類文明の道徳と霊性が低下して強大な暗闇が我々を覆うときにこれ( アヴァターの降臨)は起ります。そのとき、神は愛と光を照らしてこの世に来られます。神は私たちに高貴な人格と善という真の人間の目標を見出すことを許します。神は普遍的な人間的価値である真理、正義、平安、愛、非暴力を私たちに示します。バガヴァン シュ リ サティア サイ ババ様はこの目的のためにこの世に生まれて来られました。皆でそれを見、喜ぼうではありませんか。見て、幸せを感じましょう。
  神の子羊でありライオン( 百獣の王)であられる方が私たちと共にいます。私たちの愛するバガヴァン シュリ サティア サイババ様は慈悲深く、慈愛に満ちて、優しく、愛に溢れています。彼は神の子羊です。私たちの愛するバガヴァン シュリ サティア サイババ様は全知全能で遍在です。彼は神のライオンです。私たちの愛するバガヴァン シュリ サティア サイババ様は優しさと力、無邪気さと知恵、近づきやすさと傷つくことのない強靱さを合わせもっています。彼は神の子羊であり、同時に神のライオンなのです 。
  この何年もの間、人々は私にどうしてあれほど遠いイン ドにこれほど何度も行くのかとしばしば尋ねます。私はこの質問に答える前に、この26年以上にわたる、愛するスワミとの私自身の体験をよく振り返り、次のように私自身に問いかけます。いったいどこの人間が、私たちが考え、 感じ、行い、夢に見ることまでも知ることができるだろう か?  いったいどこの人間が、時間や宇宙、エネルギーの法 則に縛られず、神の創造物を私たちが理解することを可能にできるだろうか?  いったいどこの人間が、一目見るだけで、一度触れるだけで、そして、私たちには理解できない数多くの方法で、無知や苦しみに喘(あえ)いでいる人々を助け上げることができるだろうか?  いったいどこの人間が、人類の福祉にこれほど寛大に、自分をかえりみず、一生を捧げ、常に与え、許すのみで、決して受け取らず、忘れることのない人がいるだろう?  スワミが話されるとき、教典が創られます。いったいどこの人間が、堅く閉ざされたもっとも批判に満ちた心にも、純粋で無垢な愛を呼び覚ますことができるだろうか? 私にとって、これらはスワミが神であることを確認させるに充分です。皮肉なことに、スワミ御自身が、「神はすべての人々の中に住んでいるから、愚か者のみが世の中に出て行って自分の外側に神を探そうとするのだ」と言っておられます。おそらく、私がこんなに多くインドに旅したのは、私が頑固者だからでしょう。しかし、私は、愛するバガヴァン シュリ サティア サイババ様のそばにいると、すばらしい、今までに例を見ない愛と喜びを味わいます。スワミは人々の良心と共に存在しま す。スワミは私たちの霊的進歩をすべて映し出す鏡であ り、私たちの成長の尺度を計るものさしです。彼は人類の鏡でありものさしなのです。

時間は神の身体

  時間についてはどうでしょう。スワミは「一生の内でただの一瞬たりとも無駄 にしてはならない。時間は神の身体である」と言っておられます。スワミは神の時計に似てい ます。その動きが私たちの目に見えない短針は、彼が世界を変えておられることを象徴しています。その動きが見えるか見えないかの長針は、スワミが私たち個々に変化を与えておられることを象徴しています。そして、私たちが見ることのできる秒針は、私たちの生活において直接目で見、手で触れることのできる、スワミが行われる喜ばしい 出来事を象徴しています。
  私はスワミがあるまじき行動をしている帰依者を叱られた出来事を思い出します。その帰依者はスワミのお叱りを受けて自分の行為を悔やみ、「スワミ、私は悪い行いを今日から止めます」と言いました。スワミはそれを聞いて、大変厳しく言われました。「今日からではなく、この瞬間からです」明らかに、スワミは私たちが、時間は人生そのものであり、この先何が起きるかは誰にも分からないのだと理解することを望んでおられます。もっとも貴重で、何ものにも代えられない、そして、測定することもできないもの、すなわち私たちの人生の時間というものを、どうして私たちは無駄 にすることができるでしょう?  スワミだけが、未来 に何が起きるのかをご存知です。

 バガヴァン ババが私たちの中におられるのは神の御意志であり、神の仕事です。事実、ババ様は私たちが起こす『破 壊』を抑える道を示すために来られた神御自身なのです。神は私たちの愛するスワミの姿をとって、今ここに私たちと共におられるのです。

 ミレニアム( 千年期)の到来は人間の意志であり、人間の仕事です。人は時間を天体の動きに基づいて色々な単位 に区分けしました。そうすることによって、人がこの世で規則正しく行動し、反応できるようになるためです。人は時間の見分け方を作り出しました。秒、分、時間、日、週、月、世紀、ミレニアム、のように。この時間を分類したことに伴う 不幸な結果の一つに、人の生き方の中に物事を後回しにすることを覚えたことが挙げられます。動物、鳥、蟻、その他すべての生き物は、すべきことを今すぐします。私たちだけが後回しにするのです。私たちは種々の本質から離れた 取るに足りないことをする時間はありますが、学ぶことや バガヴァン シュリ サティア サイババ様が私たちに与えるためにこの地球上に来られた目的である神の導きを 実践するための時間はないのです。
  ミレニアムについて意義深いことは1999年の12 月31日を過ぎて2000年1月1日に移行すること でしょうか?  いいえ、ミレニアムが意義深いのは、あらゆる所にいる人々がこの時間の境界点に焦点を合わせたということです。私たちは皆時間のことを考えていました。 ミレニアムの意義は、うまくいけば、私たちが皆、日付けを祝うだけではなく、時間というものの性質と重要性を真剣に考えることが期待できることにありました。スワミのみがこの先に何が起きるかを御存じなのです。

神聖な愛の意識

  人間についてはどうでしょう? スワミは私たちに「私は 人間だ。動物ではない」と自分に向かって繰り返し言うようにと教えておられます。昔、ある偉大な哲学者が言いま した。「知っているだけでは充分ではない。実践しなくてはならない。しようという気持ちだけでは充分ではない。実際にやらなければならない」と。神の御意志は必ず実現されます。私たちの身体は神の任務を達成するための道具です。私たちの心は神の任務を達成するための道具を使う職人です。私たちの良心は、神の任務を達成するための道具を使う職人を導く、内なる神の光です。良心は私たちの身体を指揮する心に賢い助言を与えます。良心を通 じて私たちの心と身体は神の栄光を皆に示し、それを永続させる道具となります。神の栄光とは愛のことであり、愛は神に他なりません。そうして私たちはすべてを愛し、すべての人に仕えます。これが神の仕事です。私たちは霊的な人生を送るためにここにいるのでしょうか? それともこの世的 な無駄な人生を送るのでしょうか?  選択は私たち自身の 手の中にあります。

 私は人間です。動物ではありません。スワミは馬車の喩(たと)えを使って人間の霊的分析を説明しておられます。馬は感覚を代表しています。手綱は心を代表しています。馬車は身体であり、御者(ぎょしゃ)は知性です。そして、馬車に乗っている乗客はアートマ、真我、すなわち私たち一人一人の心に内在する霊的本質です。この分析の相互関係について自分自身に問いかけてみましょう。私たちはこの生涯において神聖な乗客として乗り通 すのでしょうか、それとも、重荷を背負う獣として人に乗られて一生を送るのでしょうか?  そ れを選ぶのは私たちです。

 私は人間です。動物ではありません。私たちの心は意識の住処( すみか)です。私たちは自分の家が清潔である方がより幸せです。私たちは家庭内の物事が支障なく運んでいる方がより幸せです。私たちは他の人々が我が家を訪れて、歓迎されたと感じ、幸せになってくれる方がより幸せです。英知と無私の愛は、混乱した心の中の混乱した家に歓迎される訪問客ではありません。私たちは内在する神性を束縛する原因になる、抑制の欠如を決して許してはなりません。私たちは自分自身の神性の認識を妨げるわがままな性質を決して許してはなりません。
  私たちは神の英知の崇高さと無私の愛の態度から神を体験するよう努力しています。心は水源地です。私たちはそこに貯えてある水を清らかに保たなければなりません。 良心はダムを取り除きます。ダムから流れ出た水は神の意識を心から溢れさせます。無私の愛という水の勢いはすべての人の敵である肉欲、怒り、強欲、自尊心、執着、妬みを溺れさせ、それを水面 下に沈めます。そして純粋な無私の愛である澄んだ水は人類という大地に水を引き、私たちの魂を花咲かせます。私たちは自分たちの良心と他の人々の良心に自信をもたねばなりません。そうすれば、社会は神である私たちの愛するババと彼の創造物である人類との間の、遊びと喜びと愛に満ちた相互作用の場になります。私たちは本当に人類という家族の兄弟姉妹です。私たちは私たちの良心と他の人の良心に自信をもって生きる準備ができているでしょうか? それを選択するのは私たちです。

 私たちの旅は、迷妄から真理へ、不明瞭と暗黒から光と明瞭さへ、無知という貧困から豊かな真我の知識という宝物にいたる旅です。私たちの神聖な終着点に到達するには私たち自身の心にあらかじめ描かれている地図を見なければなりません。それが自己探求です。内にある地図を見 て、無私の愛を知り、英知をもって外界の道を進んで行くためには、神の照らす光が必要です。神はすべての人に神の愛という光を与えてくれます。神の愛は私たちの中にも 周りにも存在します。それはあらゆるところに存在します。スワミは、自分は私たちの中に、そばに、周りのすべてにいるとしばしば言われます。スワミは私たちに無私の愛を体験させ、私たちの心に刻み込まれた真の自己に関する知識の設計図を見ることを可能にしてくださる光です。スワミは光です。その光は神聖な愛の意識です。神聖な愛の意識は神そのものです。

人間の一生の神聖なる目的

 私たち人間の一生の目的とは何でしょう?  初めに創造があります。そして次に文明があります。そしてその次に 自己実現があります。
  まず初めに天地創造です。神は人間の中に自らを包み込みます。皆さんの遺伝による先天的な性格や、生まれた環境は、前世の行いによって決定されます。皆さんは過去に犯した罪を償うために必要な霊的学習ができるような状況の中に生まれて来ます。このようにして私たちは確かに自分の播(ま)いた種を刈り入れるのです。
  そして文明があります。男の人も女の人も、人生の価値は平安と愛によって高められることを認識します。男の人も女の人も人生の目的を探し求めます。そこには自己探求があります。あなたの人格が文明の中におけるあなたの位 置を決定します。もしあなたが親切で同情心に富み、誠実で無私の心をもっている人であれば、あなたは自由で高貴な人間です。もしあなたが冷酷、冷淡で、利己的であれば、あなたは奴隷であり卑しい人間です。卑しい人間はエゴと肉体の奴隷です。他人を負かしたいという欲望と肉体的快楽が卑しい人間を腐敗させ、奴隷にします。
  そうして、自己実現があります。男の人も女の人も内在する神を経験し、神と一つになります。彼らは神である自己を絶えず、永遠に意識しながら生きます。これが自己実現であり、人間の一生の神聖な目的です。
  まず初めに、私たちは生まれて日の光を見ます。そして私たちは愛と英知の光を学び体験します。そして私たちは自分が良心そのものであることを知って神の光になります。私たちは光を見、光を体験し、光になります。つまり、人生の目的とは、すべての創造物に備わっている神の愛の意識を自覚し、それを絶えず感じるようになることです。この意識の性質は無私の愛です。
  私たちの目的を達成する計画に関してはどうでしょう。 霊性とは定期的な儀式の繰り返しではありません。それは生き方そのものです。天国は心の状態、無私の心の状態です。天国は『ソーハム( 私はそれ)』を経験し、それを生きる心の状態です。私たちは『それ』なのです。『それ』とは神の意識です。それは決して終わることのない至福で、私たちのすべての体験を満たします。それは自己認識( 解脱)の状態で す。それは天国なのです。

 スワミは、私たちが生きている間に天国に到達できると保証しておられます。私たちは自分自身の中に天国を探すだけでよいのです。ということはつまり、地獄もまた心の状態であるわけです。そしてもし自分が選ぶなら、私たちは地獄のような生き方をすることもできます。
  地獄は、とどまることのない欲望によって特徴づけられ ます。一つの欲望が満たされると、また別 なもう一つの欲望が頭を出してきます。力と快楽を求める欲望です。決して永続的な満足を得ることのできない種類の欲望です。それは苦痛と失望や、落胆と欲求不満を呼び起こします。私たちは外側の世界に現れる蜃気楼を手当たり次第に追いかけ、砂漠の中を死物狂いで愚かに駆け回るようになりま す。天国か地獄か、選択するのは私たちです。仮に私たち全員が天国を選んだとしましょう。これは大変幸せなことで す。私たちは天国を選び、地獄を拒否する決断をします。次に何をすればよいのでしょう?  霊的変容とは潜在する神性が目覚めることです。
  愛するバガヴァン シュリ サティア サイババ様は色々な方法で私たちを変容させます。神は不可思議であり、神秘的です。私たちの乏しい頭脳の力では神のなさり方すべてを理解することはできません。私たちはひらめきを得たとき、直感によってある限られた範囲のことを理解するかも知れません。そのとき必要な知識は、機械的に学んだ知識ではなく、体験から得た知識です。学んだ知識と体験から得た知識の違いは重大です。これはとても、とても重要です。私たちが本当に知っているとき、私たちは知識を演じることはしません。私たちは知識そのものです。それが真の知識です。それが英知です。
  スワミは神は意識であり、その意識の本質は無私の愛だと教えてこられました。そして私たちの心の中を深く掘り下げることを助言しておられます。それがこの意識を見つける方法です。私たちはどのようにしてそれをすればよいのでしょう。私たちは皆、お互いに異なる点の多い人間です。しかしその違いは表面 的なものです。私たちは父であり母である神を親にもつ兄弟姉妹です。外面 的な見た目や 環境の違いはあるにも関わらず、私たちの本質は一つです。私たち一人一人にとって、霊的な成長を促すもっとも 適切な道は千差万別です。そうではありますが、私たちが何をするか、どうするかは神の御教えに沿ったものでなくてはなりません。

九つの計画

 さて、今から私自身のスワミとの体験から引き出した、 私にとってよいと思われる簡単な方法を説明します。それは私の計画のことです。計画をもつことは大切なことです。神の教えを包含し、皆さんの必要性や生活に合った自分自身の計画を立ててください。計画を立て、あなたの目的に向けて実践するのです。

 私の計画は九つの項目から成っています。三つの項目は物の見方に関連しています。次の三つの項目は私の態度に関連しています。そして最後の三つは私の行動に関することです。見解、態度、行動です。事柄をどう考えるか、事柄をどう感じるか、事柄についてどう行動するかです。私たちすべての者にとって見解と態度と行動を査定することは非常に大事なことです。正しい方向に進むためには、自分が何を考えるか、どう感じるか、どういう行動をするかを調べなくてはなりません。私は皆さんに、霊性を出来合いのパッケージに収めることができるという印象をもっていただきたくはありません。世界中であまりにも多くの人々がそうしようとしてきましたし、あまりにも多くの人々が今でもそうしようとしています。私はそれを試みようとしているのではありません。霊性をパッケージ化することはできません。しかし各自がそれを考え、熟慮して体系的にそれを実践することができます。
  では私が使っている九つの項目についてお話しし、その上で、スワミとの体験の例をお話しすることによって、これらの項目を立証し、説明を加えたいと思います。九つの最初の項目は見解についてです。
一、過去を思い煩わずに、自分の過ちから学ぶこと。二、未来 を思い煩わずに、自分の目的の達成に向けて適切な計画を立てること。三、他人が自分のことや、自分の周りで起こる世俗的な出来事についてどう考えているかを思い煩わないこと。すべての人を自分の兄弟姉妹と考え、すべての出来事を神が与えた奉仕の機会と見ること。
  以上の三項目の要点は『思い煩わない』ことです。スワミ は「心配とは心が作り上げた恐怖です。思い煩ってはなりません」と言っておられます。

 態度に関する項目は、まず、四、常にすべてのものに愛をもって接することです。五、心の内が常に幸せでいること。 六、心の中が常に静かで平安に満ちていること。そして、行 動に関する項目では、七、すべての不適切な思いをそれが感情や行動の元になる印象として刻み込まれる前に捨て去り、すべての高貴な思いを高尚な行動へと育てること。 八、良心に従い、完全な信念をもって良心の命ずるままに、 一瞬も後回しにすることなく直ちに行動すること。そして、九、スワミまたはあなたの選んだ神の御名と御姿に焦点を当てること。神の御姿、神の愛、神の御言葉、神の行動、 神のすべてに焦点を合わせること。なぜなら、神はすべてだからです。神はあなたであり、あなたは神なのです。
  以上は、私が守ろうと努力している九つの項目です。私はこれらを常に心に留めるように心掛け、毎日それを自分に言い聞かせています。

過去を忘れる

 それでは、ここで手短にこれらの項目をくり返し、皆さんに理解していただけるようスワミとの体験を例にとっ て説明しようと思います。

 最初のポイントは過去を忘れることです。私たちは現在に生きなければなりません。過去から学ぶべきですが、それに心を奪われてはなりません。私たちは今、この瞬間に感謝すべきです。過去の過ちや悲しみで現在や未来を汚してはなりません。
  妻と私が初めてインドに行ったとき、すばらしい旅をしました。スワミは大変親切で愛に満ちて、何度かの機会に話をしてくださいました。一番大切なことは、スワミのお陰で、私たち二人の心の中に生涯消えることのない愛が生まれたことです。私はこの世に存在すると知らなかった愛を見つけました。私の心は喜びに満たされました。私は間違いなくこれこそが本物の確信であると知っていました。 これが確信の意味であり、それはこの身体が地球上に生きている間は決して消えることはありません。初めての旅の最後の日、スワミは私たちをインタビューに呼んで話してくださいました。私たちは喜びに溢れていました。インタビューの後、プラシャンティ ニラヤムを発つ前に、私はマンディールにバジャンを聞きに行きました。バジャン ホールに座り、私は何が起きたのかを思い返していました。一方では、私は今までに体験したことのない愛を見つけた喜びに満ち、スワミについて行く堅い決心をしていました。 そしてこの決心は絶対に変わることはないと全面的な自信をもっていました。
  しかしもう一方では、私は悲しみを感じていました。自分の過去にとらわれていたのです。私は大変無邪気に、スワミについて行くということは霊的な道を辿ることだと思っていました。霊的な道の究極にあるのは解脱です。解脱を得るということは聖人になることです。自分のように俗世にどっぷり浸かった男が、仮にも聖人になる可能性を考えるとは、何ととてつもなく馬鹿げたことだろうと、私は自分の中で思いました。ですから私はジレンマに陥っていたのです。私はスワミへの感極まる愛を感じていましたが、この愛の結末は解脱を達成してスワミと一つになることでした。そして私は、過去に犯した罪の重荷を感じ、この世俗的なことが最終的な結末に達することを阻むだろうと考えていました。
  このようにして私はマンディールに座ってバジャンを聞いていました。バジャンを聞きながら私はもう一つマントラを考えつきました。私はいつもマントラを作っています。私はこう考えていました。「パスト( 過去)、パスト、パスト、バッド( 悪い)、バッド、バッド、サッド( 悲しい)、サッド、 サッド」突然私は、肩の上に誰かの手を感じました。スワミがマンディールの後ろの入り口から入って、後ろから私のところに来られて、肩に手を置かれたのでした。私はスワミの目を見上げました。するとスワミは大変優しく慈愛に満ちて言われました。「過去は忘れなさい」そして歩いて行かれました。過去の過ちと悲しみと罪の意識という重い荷物は取り除かれました。これが神の力です。そして私は、私たちすべての人間が、もしまだ解脱をしていない人は、真の自己実現を達成することができるのだということを知っています。私たちは皆、この機会が与えられています。 なぜなら今、ここに神が私たちの間を歩いておられるからです 。

未来にとらわれない

  二番目のポイントは未来にとらわれないことです。今に生きるのです。何年か前にアシュラムにしばしばやって来る帰依者がいました。彼は癌にかかっていました。彼はアメリカで抗癌治療を受けていましたが、ある日、抗癌治療を受けることをやめ、すべての治療を拒否してスワミの所へやって来ました。彼は私にいきさつを話し、そのことを私からスワミに話して欲しいと頼みました。私は、スワミがこの人に何度も話しておられるのを見ていたので、スワミが許可をくださったときにこのことに触れ、ことの次第をスワミに話しました。スワミは私に「この男は12年間癌を患ってきた。彼は、この12年間、スワミに会いに来るときはいつも自分の癌と死のことを考えていた」と言われ ました。スワミは彼に12年の命を与えました。しかし彼はその時間をスワミが与えられた目的のためには使いませんでした。彼は12年の間ずっと自分の死のことばかり考えていたのです。それにも関わらず、スワミは彼と会われ、彼は生き続けました。しかし、これは一番重要な教えの一つだとは思いませんか?  あなたの所有するものの中で時間ほど価値のあるものはありません。この一分、この一 時間、この一日、この一週間、この一ヵ月、この一年、あなたはこれより価値のあるものをもっていません。この一番貴重な資産を低劣な楽しみを求めるために無駄 にしてはな りません。

私たちは神である

 三番目のポイントは、私たちは世俗的な出来事や他の人々が自分のことをどう考えているか、またはどう反応するかを必要以上に気にするべきではありません。スワミ は、私たちは三人の人間であると言われます。それは、自分が考える私。すなわち肉体と対応している私と、他人が考える私。すなわち心と対応している私と、魂に対応している真の私の三人です。私たちはこの肉体ではありません。 私たちはこの心ではありません。私たちは人の形の中に入っている神なのです。ですから、私たちの感情や行動は、 他人や外側の出来事を基盤とするべきではありません。私たちの動機、方向、行く先は私たちの主である良心が支配しなければなりません。

神への愛

 四番目、五番目、六番目の三つのポイントは態度に関することで、愛をもつこと、幸せでいること、静かでいることです。

 四番目のポイントは、愛に満ちた人間になることです。 霊的に愛することは無私の心で愛することです。それは欲望の伴わない愛、愛の対象を自分のものにする必要のない愛、見返りを必要としない愛、認められる必要のない愛で す。所有する必要も、承認も見返りも必要としないのです。 それが純粋な愛です。それが無私の愛、神の愛、本当の愛です。私たちは、様々な関係の中で、人間として愛することを学んできました。それは、神が私たちを愛するのと同じ愛で、ゆくゆくは私たちが神を愛することができるようになるためです。これは、ここに挙げたすべてのポイントの中でもっとも重要なポイントです。私たちが本当に愛するとき、それ以外のすべては付いてくるのです。

幸せでいる

 五番目のポイントは幸せでいることです。幸せは伝染します。微笑みを始めとする喜びを表す様々な行動は、どれをとっても相手の心を軽くするものであることは確かです。そのとき私たちは他人を幸せにします。そして、彼らは私たちをいっそう幸せにしてくれるのです。これはどんどん広がっていきます。幸せであると喜びに満たされます。 スワミはすばらしいユーモアのセンスをもっておられま す。ある日コダイカナル( 南インドの避暑地。ババ様が夏季に滞在されることが多い)で、私はスワミの御足の元に座っていました。スワミは学生たちに御講話をしておられました。しかし、スワミがテルグ語で話しておられたので、 私は一言も理解できませんでした。スワミは大変早口で学生たちに話しておられました。そのうち私は、学生たちがクスクス笑い始めたのに気が付きました。何人かの学生が笑っていましたが、スワミはさらに数分ほどお話しされました。そこで再び、今度は前より大きな笑いが起こり、学生 たちは私の方を見ていました。そしてスワミがもう二、三分話されたとき、突然学生たち全員がお腹を抱えて笑い始めました。そのとき、スワミも私の方を見て笑い始めたのです。明らかに、このジョークの対象は私でした。しかし、私は笑っておられるスワミの目を見ていました。彼の目は慈悲と喜びに満ちていました。スワミの笑っておられる目を見ているうちに、私は喜びと幸福感に満たされて、私も一緒に笑い始めました。すると突然、スワミは笑うのをやめられ、「あなたはどうして笑っているのですか? 」とおっしゃいました。そのとき私は言いました。「スワミ、私が笑っているのはあなたが笑っておられるからです。あなたが幸せなので私も幸せなのです」するとスワミは、大変真剣な顔になって、学生たちに言われました。「スワミが笑っているからゴールドスティンは笑っている。スワミが幸せだからゴールドスティンも幸せなのです。それが本当の帰依心です」この、私がジョークの種にされたという無邪気に見える出来事は、重要なことを教えています。スワミは小さなドラマを用意されたのでした。
  皆さんに気掛かりを残すといけないので言っておきますが、このジョークは私が太っていることについてでした。

心の平安、心の大掃除

 六番目のポイントは、常に内面を静かに保つことです。 内面が静かであるということは平安であるということで す。平安とは感情の乱れがないことです。内面 が静かであることは、内なる声を聞くためには欠かすことができませ ん。静寂に満ちた内なる寺院を敬い、保護しましょう。

 最後の七番目、八番目、九番目のポイントは私たちの行動に関することです。
  七番目のポイントは、心の中からすべての好ましくない思いを捨て去ることです。そのような思いが印象を刻んで、その結果 、好ましくない感情や行動が生まれるようなことを許してはなりません。スワミは、悪い思いというものは、私たちの心に侵入してきて、私たちを霊性の道から 逸れさせる悪魔であると見なさなければならないと言っておられます。それが心に侵入するのを許してはなりませ ん。悪い思いは感情と行動を生み出し、今度はその感情や行動が、様々な傾向や習慣を生み出します。良心は私たちの心に入ってくるすべての思いを篩(ふる)いにかけて、その思いが私たちの心に入るのにふさわしいかどうかを調べなければなりません。これは単純なことです。結果 として、立派な人格と霊的な進歩が得られます。私は先日東京の帰依者の前でお話ししましたが、そのとき、私が何年か前にすべての悪い思いを心から取り除こうと試みた話をしました。
  あるとき、私はマンディールに座っていました。スワミがそこにおられるにも関わらず、私の心の中をいろいろと無関係な考えが駆け回っていました。そして私は、神御自身の前だというのにこんな表面 的なことばかり考えてよいものかと心の中で考えていました。心の大掃除をしなくてはならないと思い、最初に決断力を行使することにしま した。不適切な思いや無価値な考えが起こるたびに、私はそれを心から消し去ろうと試みました。私は、「お前はよくない考えだ、出て行け」と念じました。私の決断力だけでは 十分ではありませんでした。様々な思いが相変わらず心に侵入して、スワミが臨席しておられる神聖な雰囲気から私の気持ちを逸脱させました。そこで私は身体の動作をつけて決断力を援護しようと考えました。不適切な考えや悪い考え、表面 的な考えが沸き上がる度に、私は頭を振ることにしました。
  初めのうちは時々しかこのような思いは起こりませんでした。ですから私が、ほんの少し頭を動かすだけで効果 がありました。前もって言っておくべきですが、ベランダには多くの医者が座っています。突然、私は不適切な思いの集中攻撃を受けました。私はベランダの上で数多くの医者に囲まれて座っていました。その中で私は頭を振っていたのです。そして私は、ここにいる医者の帰依者たちは ゴールドスティンが神経病理学的な反射作用を起こしていると考えるだろうと思い、やむなくこの方法を諦めることにしました。
  ここで大切なのは、私が開発した下らない子供じみた手法ではありません。大切なのは、私の心が不適切な思いで騒々しくなり、神への集中が妨げられたことに気付いて、 そして、それを何とかしようとしたことです。下らない方法だったとはいえ、私は何かを試みたのです。あなたがどういう目的でこの計画を立てているのかを理解し、もし最初の計画が成功しなければ、別 の方法を考えてください。 そして、それも上手くいかなければ、また他の方法を考え ましょう。計画を立て続け、行動を起こし続けましょう。あなたの目的を達成するまで。霊的な生き方ができるようになるまで。あなたの人生のあらゆる側面 において、スワミに関するあなたの知識とスワミの御教えとが完全に浸透し切るまでそれを続けるのです。

良心に従う

 八番目のポイントは、良心に従い、完全な自信をもって、 遅らせることなく直ちに実行することです。あるとき私は、インタビュールームで、もう一人の帰依者と共にスワミの御足の元に座っていました。そのとき居たのは二人だけでした。スワミはもう一人の人を指さして、私に言われました。「彼は大変よい帰依者です。彼は何か問題が起きたり、緊急事態が起きたとき、自分の内を見つめて良心に照らして、正しい答えを求めます。彼は、これは正しいか間違っているか、これは善いか悪いか、スワミならどうする か、と自問します。そして、答えが見つかれば直ちに行動に移します。ときには、答えがすぐには見つからないことがありますが、忍耐強く答えを探し求め、答えが出たら自信をもってすぐ行動に移すのです。彼は大変よい帰依者です」とスワミは言われました。私たちの良心は、自分自身に内在する神の表れだということを知っておく必要があります。良心から来る道徳的な命令は、尊重して守らなければなりません。

神に焦点を合わせる

 最後に九番目のポイントです。それはスワミ、またはあなたの選んだ神に焦点を合わせるということです。神の御名、御姿、メッセージ、行動に焦点を合わせましょう。私たちの霊的な目的を達成するには、絶え間なく霊的に焦点を合わせることが不可欠です。すべての宗教の基盤となっている偉大な霊的原理に焦点を合わせることができます。私たちの周囲に起きるよいことや、信仰深い行いに焦点を合わせることができます。すべては、神聖な愛に満ちた意識、すなわち神の表現です。霊的な活動とは、私たちに内在している神の実現に、私たちを近づけてくれる、目的をもった行動のことです。私たちが正しい方向に向かって進歩するためには、自分たちの見解と態度と行動を調べてみることが大切です。私たちの見解は、今に生きること、過去や未来 を気にしたり、他人が自分や世俗的な出来事についてどう考えているかに気をとられないことを含んでいなければなりません。私たちの態度は愛に満ち、幸せで、静かであるべきです。私たちの行動には、無価値な思いを捨て、良心に従い、神に焦点を合わせることが含まれていなければなりません。以上が、私が使っている九つのポイントです。

  私は、皆さん方全員が、霊的な目的を達成するための自分自身の霊的計画を作ることを心からお勧めします。皆さん自身が立てる計画は、皆さんの理解のレベルにおいて、自分が誰であるか、そして自分がどの段階にいるかという状況に適した、皆さん自身にふさわしいものとなるはずです。

 スワミは私たちにもう一つの霊的な道具をくださいま した。スワミは霊的活動であるサティア サイ オーガニゼーションに、御自分の名をつけることを許してくださったのです。それによって、スワミの子供である私たちが、お互いを愛することを学び、この世に無私の愛と無私の奉仕を招き入れることができるようになるためです。このオーガニ ゼーションを有益に活用するためには、霊的なオーガニゼーションというものの性質を理解することが大変重要になってきます。人間は意識なしでは生きていけません。 スワミは意識とは遍在の神性であると教えておられます。 それは神の愛です。この意識はすべての人々の心に宿り、 心と身体に命を与えています。私たちは良心を通じて意識を認識し、その価値を理解することができます。サイ オーガニゼーションであれ、あるいはどのような霊的組織であれ、その組織に所属するすべての人々の良心がなければ、 その組織に生命はありません。その組織に、神聖な意識、すなわち無私の愛が浸透していなければ、それは霊的な組織とはいえませんし、神の組織でも神から来た組織でもありません。これは、組織が無私の愛の精神をもって共に行動 している一人一人のメンバーの良心によって導かれるときに、初めて可能になることです。スワミは、この目的のためにこそ、このオーガニゼーションが御自身の名を使うことをお許しくださったのです。

 スワミはくり返し、「私はソース( 供給源)であり、フォース( 威圧する力)ではない」と言われます。彼は霊的な供給源です。サイ オーガニゼーションもまた、威圧する力ではな く、供給源でなければなりません。それは悟りと愛の供給源でなければなりません。私たちがするすべてのことに、 人々は無私の愛を感じ、そこから霊的な利益を得ることができなければなりません。人々が高められるようでなければなりません。私たちは、サティア サイ オーガニゼーションのメンバーや世話役として、自分自身を、スワミがこれまでに呼ばれた人々や、スワミがこれから呼ばれるすべて の人々の召し使いであると考えるべきです。私たちは、愛するバガヴァン シュリ サティア サイババ様が神であることに対する確固たる信念をもつべきです。そして、必ずやスワミが、すべての心に触れて、すべての人々が霊的な道を歩き始めるように啓発されるであろうと信じるべきです。私たちは霊的な道を歩むすべての人が必ずしもバガヴァン ババの御名や御姿を崇めるわけではないことを理解しなければなりません。これは神と個々の人々との問題です。すべての神の御名と御姿は一つです。スワミは、「宗教 は一つしかありません、それは愛の宗教です」と言っておられます。永遠の霊的な原理であるサナタナ ダルマは、すべての宗教とすべての人のためにあります。

  私たちは今、神戸にいます。神戸とは『神の扉』という意味だと昨日 Bro. 比良が教えてくださいました。そこで私は、 オーガニゼーションにいる私たちは、自分はドアマンであると考えるべきだと思いました。霊的なドアマンの任務は何でしょう。私たちは訪れてきた人々を愛をもってお迎えします。そこでドアを開けて、人々がスワミの神聖な御教えと様々なプログラムに触れることができるようにしま す。一番大切なことは、オーガニゼーションが正しく機能 しているときにのみ、私たちがスワミの愛への掛け橋となることができるということです。最後に、私たちは霊的ドアマンとして、家屋敷を守らなければなりません。私たちはバガヴァン シュリ サティア サイババ様の御名と、御名の神聖さを守ります。私たちはこれを、バガヴァン シュリ サティア サイババ様の御名をいただいているサイ オー ガニゼーションの中で起きるすべての事柄が、ババ様の神性にふさわしいものにすることによって成し遂げます。
  私たちは、スワミは遍在の目撃者であることを忘れず、 サイ オーガニゼーションの名の下に私たちや他の人々が行うすべてのことが、スワミからの承認を得ることができるという確信をもつようにすべきです。
  今年開催されるシュリ サティア サイオーガニゼーショ ンの第7回世界会議は、官僚的に行われるものではありません。それは霊的体験となるでしょう。それは、多くの知的な討議と愛をもって執り行われる相互作用の場となり、私たちは人類に対するスワミの神のメッセージと指導を、より深く理解することができるようになるでしょう。

 親愛なる兄弟、姉妹の皆さん、最後になりますが、私たち 一人一人は皆、明らかに違っています。違う名前、姿形、体験、国籍、人種、宗教をもっています。このような違いは、私たちの魂が、この世で神のドラマを演じ、相互に関係をもつためにまとっている衣です。しかし、自分のせりふを語り終わり、歌を歌い終わり、踊りを演じ終わった後、私たちは衣装を脱ぎ、メーキャップを落とします。ごらんなさい !  そこで、私たちは皆、同じ一つの普遍的な意識の一部である、すなわち全員が主なる神の一部なのだということを発見するのです。

  私たちの愛するバガヴァン シュリ サティア サイババ様は、神の意識が身体をもってこの世に生まれて来られた方です。ババ様は常に、私たちは皆神の意識である、すなわち私たちは皆、神の愛であることを思い出させてくださいます。今日私たちは、『神と人間の性質、私たちの目的と計画、時間、時間、時間』ということについて掘り下げて考えて参りました。今こそが、皆さん方にとって、また私にとって、 そして、あらゆる所にいるすべての人にとって、私たちの内にある神の実現に向かって前進すべきときなのです。
                            ジェイ サイ ラム



ゲストスピーカー:マイケル ゴールドスティン博士
 世界第一地区 統括世話人。カリフォルニア在住。医学博士。数多くの社会的な団体で重要な役割を担っている。プッタパルティの病院建設にあたり、医学の立場より多大な貢献をされました。

 スワミが1999 年11月22日、サイ クルワントホールでの御講話の中で博士の
紹介をされています。抜粋してご案内いたします。


 『博士を決して気安くみなしてはなりません。彼は並の人ではないのです。豊かな財産をもち、アカデミックな称号を多くもち、アメリカ医学協会の会長です。博士がもつ属性すべてをもちあわせている人はここではほとんどいません。
 博士の長男も次男も結婚式はスワミのインタビュールームで行われました。2人の息子はたいそう良い息子です。それは彼らがサイ オーガニゼーションと関わってきたからです。彼らの妻も大変良い妻です。博士はアメリカを含む数カ国でサイ オーガニゼーションの責任者です。立派で献身的な規律ある働き手です。サイ オーガニゼーションの忠実なメンバーとして義務、規律、帰依という3つの神聖な属性をもっています。彼を見習いなさい。これら3つの属性を守り、人生において理想的な模範となりなさい。』 ─ババ 

 

 


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