光明瞑想について

光明瞑想の誘導

Jyothi_meditation.mp3 (mp3:1.5M)

瞑想関連の御講話

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サティヤ サイ ババの御言葉からの引用

瞑想の技術については、さまざまな教師が、それぞれ異なった形の指導をしています。しかし、私はここで、最も普遍的で最も効果 的な方法を教えることにします。これはまさに、霊性修行の第一歩です。最初は、毎日数分間を瞑想に充てて、至福を感じるようになったら、少しずつ時間を延ばしていきなさい。

瞑想は夜明け前の時間に行いなさい。この時間が望ましいのは、睡眠で身体が回復し、あなたがまだ日中の仕事に影響されていないからです。覆いのない、安定した、まっすぐな炎が灯っているランプかロウソクをあなたの前に置きなさい。蓮華坐(れんげざ)、またはそれ以外の、無理のない姿勢で、ロウソクの前に座りなさい。しばらくの間じっと炎を見つめた後、目を閉じて、その炎が眉間の内側にあると感じるように努めましょう。あなたのハートに蓮の花のつぼみがあると考えて、眉間の奥にある炎を、ハートの蓮のつぼみまで、通 り道を照らしながらゆっくりと降ろしていきます。炎がハートに入ったら、蓮の花びらが1枚ずつ開いていく様子を思い描きなさい。ひとつひとつの思い、感覚、感情が光を浴びて、そこから暗いものが取り除かれていきます。暗黒が隠れる場所はありません。炎の光はますます広がり、明るさを増していきます。それをあなたの手足にまで広げなさい。これでもう、あなたの手足は、暗い想念に導かれた行為や、不審な行為、邪悪な行為に携わることはできません。あなたの手足は、光と愛の道具になりました。光が上昇して舌に届くと、舌からうそが消えてしまいます。光を目と耳にまで届かせて、あなたを邪悪な光景や子どもっぽい会話へと駆り立てる、目と耳に巣食ったすべての暗い欲望を取り除きなさい。あなたの頭部を光でいっぱいに満たしなさい。そうすれば、すべての邪悪な思いは逃げ出してしまいます。

光があなたの中にあって、輝きがますます強くなっていると想像しなさい。その光があなたの周囲のすべてを照らし、あなたのところから光の輪がどこまでも広がっていくようにしなさい。その光に、あなたの愛する人々、あなたの知人や親戚 、友人や仲間たち、あなたの敵や競争相手、見知らぬ人々、生きとし生けるもの、全世界が包まれていきます。

その光が、毎日すべての感覚を、非常に深い所まで順序よく照らしていくので、間もなくあなたは、もうこれ以上、暗い思いを刺激するよこしまな光景を好まず、暗く意地悪なうわさ話を望まず、卑しく有害で危険で有毒な食物や飲料を求めず、汚く品位を落とす物事を扱わず、悪評高い有害な場所に近づかず、また、いかなる時もいかなる人に対しても、悪事を企てるようなことがなくなります。どこを見ても光が見えるという感動をいつも味わっていなさい。もし、今あなたが、いずれかの姿をとった神を崇めているのなら、すべてに広がったその光の中にその御姿を見るように努めなさい。なぜなら、光は神であり、神は光であるからです。

私が勧めたやり方で、この瞑想を毎日規則的に実践しなさい。その他の時間には、神の御名(神がもつ数多くの荘厳な特質のいずれかに満ちた御名であれば、どの名前でもよいのです)を繰り返し、神の偉大な力と慈悲、惜しみなく与える神の特質を、絶えず意識しているように心がけなさい。

Sathya Sai Speaks Vol.10 old edition p254-255 (US edition p348-350)
http://www.sathyasai.org/devotion/meditation.html

個人的に行う瞑想とは別に、バジャンを行った場所に10分か15分間座り、オームカーラを唱えたのちに、心を定め、自分たちがそれまでの間崇めた神を瞑想することは、皆さんにとってよいことです。あるいは、目の前のランプの炎を瞑想し、その光が、あなたの内なる意識を照らし、全宇宙へとあふれ出るようにすることもできます。

瞑想はあらゆる活動を神聖にし、心(マインド)を制御します。あなたがバジャンで崇めた神を、そのあふれる光輝の中に思い描くことができます。そうしたバジャン後のグループ瞑想は、自宅での個人的な瞑想の素地を作ってくれるでしょう。その味わいは深みを増し、持続時間は長くなり、あなたを満たす平安はさらに深いものとなってくるでしょう。私は、このオーガニゼーションの会員一人ひとりに欠くことのできないサーダナ(霊性修行)の一項目として、瞑想を行うことを強く要求します。

1969年5月18日午後の御講話より
http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19680518pm.html

あなた方は夕方のバジャン会の後に、10分間、瞑想に座っています。そこまではよいでしょう。しかし、一つ尋ねますが、10分後に立ち上がって動き出したとき、周囲の人々が皆、神性を授かっている者として、さらに明るい光をまとって存在しているのが見えますか? そうでなければ、瞑想は時間の無駄です。あなたはもっと愛するようになりましたか? さらに口数が少なくなりましたか?さらに真剣に他の人に奉仕するようになりましたか?

これらは瞑想が成功している印です。あなたの進歩は、あなたの人格と振る舞いによって証明されなければいけません。瞑想は、人や物事に対するあなたの態度へと変わらなければいけません。そうでないなら、その瞑想は、まがいものです。

1969年1月13日の御講話より
Sathya Sai Speaks Vol.9 C1


サイ ババ ラーマクリシュナは脊柱上にある、特に感受性の強い部位のシンボルとしてチャクラを用いました。このいわゆるクンダリニー瞑想に関しては多くの誤解があります。チャクラとは車輪のことです。脊柱には輪はありません。血液が回りながら循環するので、車輪がシンボルとして用いられたのです。脊柱の椎間板も円形です。脊柱上の様々な場所を「車輪」と定め、その位置に特定の名前をつけることによって、その場所に心を集中させ、意識を一つの場所から別の場所へと動かすことができるのです。

ヒスロップ しかしスワミ、脊柱の基底部でクンダリニーの蛇が目覚め、それが脊柱を登るに従って一つひとつのチャクラを活性化させていくという考え方はどうなのでしょうか?

サイ ババ そのエネルギーはプラーナです。プラーナーヤーマを実践することによって、そのエネルギーは脊柱を昇っていくと想像されています。すべての条件が厳密に整っていなければ、プラーナーヤーマを実践することは危険です。プラーナーヤーマを行う必要性はありませんし、スワミはそれを行わないことを勧めます。第9番目から第12番目の椎骨までの領域は、特に敏感です。そこを損傷すると、全身が麻痺してしまう可能性があります。スワミの教える瞑想が王道なのであり、易しい道なのです。どうしてそれ以外の瞑想法に手を出す必要があるでしょう?

『サティヤ サイ ババとの対話』p252-253

私(ジョイ・トーマス)が読んだことの中で顕著に覚えているのは、ある種のプラーナーヤーマ(呼吸法)や、過剰に長く瞑想に耽ることのような「賢くない訓練」は、時期尚早のクンダリニーの覚醒をもたらし、時には精神障害をも引き起こしかねないということだった。(中略) 私は、親愛なるヒスロップ博士がクンダリニーについてスワミと話していたことを思い出した。博士の著書『サティヤ サイババとの対話』の中には、クンダリニーは存在しないとババが言ったと書いてあるが、その情報に疑問を呈したある帰依者に、博士は1990年7月6日付の手紙で以下のように答えた。

「クンダリニーについては、(私の本の中で)チャクラは存在しないと(書いてあるのを)読まれたことと存じますが、ババは、それは私の誤解だとおっしゃって、『サティヤサイ ババとの対話』の第二版では私にその段落(日本語版の242ページ9行目〜243ページ2行目まで)を削除させました。

ババがおっしゃるには、クンダリニーについては、何らかのワークをしたり心配したりする必要はまったくなく、献身的なサーダナの過程で、自然に、安全に発達していくとのことです。

ババはまた、複雑なプラーナーヤーマの練習と同じく、クンダリニーパワーの覚醒を狙ったワークは極めて危険だと警告なさっています。これらの技法はいずれの場合も、自分が教えたクンダリニーやプラーナーヤーマの修行法によって自ら自己実現を果たしたグルは今日一人も生きていないため、ゆえに、彼ら(現代のグルたち)には(こうした修行から生じる)予期せぬ問題に対処することができないと、ババはおっしゃっています」

『人生は愛、楽しみなさい』p48

あなたは自分自身の姿を忘れて、神の中に自分の意識を失ってしまわなければなりません。自分自身の姿に集中しながら瞑想をしても、いったい何の役に立つでしょう? 何をしているのかを人から尋ねられると、あなたは自分が瞑想をしていると答えます。もし瞑想の中で本当に肉体意識が失われてしまったのであれば、あなたはどうして自分が瞑想をしているとわかるでしょうか? それはつまり、あなたが本当の瞑想をしていないという意味です。

瞑想とは、その中であなたが自分自身を忘れてしまうもののことです。あなたは良心の純粋さを培い、真我の原理の永遠性を確立します。このことを達成しない限り、瞑想は無駄であり、ごまかしに過ぎないのです。(中略)

すでにハートの中に確立されている神の感覚に集中しなさい。時によって心を変えるようなことをしてはなりません。それを目標としてしっかりと確立しなさい。仏陀も同じ原理に従いました。最初の頃、仏陀は神を求めて、外のあらゆる場所に行きました。仏陀はいくつかの場所を放浪しました。しかし、仏陀の努力は成功しませんでした。仏陀のいとこであったアーナンダ〔阿難、アナン〕は、その惨めな状態を見て、どうして仏陀があちこちをさまよい歩いているのかと尋ねました。すると突然、仏陀は自分が今まで常に、一時的で絶えず移り変わる心の衝動を追い回していたことに気づきました。そこで仏陀は、心を追わないことに決めました。仏陀は直ちに心の底から神を黙想し始め、間もなく涅槃(ニルヴァーナ、束縛からの解放)を得ました。この例から、人は決して幻影を紡ぎ出す心に依存してはならないということが明らかです。心(マインド)を忘れて、ハートの中にしっかりと神を確立し、最終的にその神に融合しなさい。それが真のニルヴァーナ〔涅槃、解脱〕です。

愛の化身である皆さん! 人間の身体の性質とはどのようなものでしょう? 体は五元素によって造られています。体は非真実で、永続性がなく、自然の中で消滅してしまいます。肉体への執着をもったまま瞑想をしても、それがどうして実を結ぶことができましょう? どうしてそれがあなたを目標に導くことができるでしょう? ですから、あなたは肉体という幻影を忘れなければなりません。真我に執着して、神に融合しなさい。それが真の瞑想です。

『サイ セヴァ』p108-110

座って行う瞑想は、午前中に30分、夕方に30分で十分です。

『サティヤ サイ ババとの対話』p257


*ジュムサイ博士による、瞑想を30分で行う際の時間配分の例:
@集中のためのソーハム瞑想〔5分〕、A黙想の段階である光明瞑想(光を回す作業)〔10分〕、B光と一体になってからの真の瞑想〔15分〕、C光をハートに収めて終了