クリスマスの御講話 1998年12月25日
愛の化身であるみなさん!
誰もが人生はとても貴重であり、崇高であり、神聖なものであるという事実に気づいています。アナンタプールのサティア サイ高等教育大学の卒業生たちは、社会の福祉を常に心に留め、自らを『メッセンジャー オブ サティア サイ(サティア サイのメッセージを伝える者)』と呼んで、多くの奉仕活動に携わっています。まず第一に、『メッセンジャー』という語の真の意味を理解しなければなりません。人はみな、神のメッセンジャーです。すべての人は神の意志によってこの世に生まれました。不断の探求によってのみ、神が自らのメッセンジャーたちを世界に送った、その隠された理由を明らかにすることができるのです。
人として生を受けたなら、内在する神性に気づかなければなりません。神のメッセンジャーである一人一人にとっての最も重要な義務は、真理、愛、平安の原則を実践し、伝え、至福を体験して、それを他と分かち合うことです。世俗的で、はかない、束の間のものを伝える人は神のメッセンジャーとは呼べません。
イエスが生まれた時、三人のアラブの王がイエスに会いにやってきました。彼らは生まれたばかりの赤ん坊を見て大喜びしました。帰路につく際、一人目の王がマリアに言いました。「マザー、あなたは神を愛する子を産みました」 二人目の王は言いました。「マザー、あなたは神に愛される子を産みました」 三人目の王は「母なるマリア、あなたの子は神と何の違いもありません。二人はひとつであり、同じです」と言いました。一旦この三人の言葉の内的な意味を理解したなら、私たちは真理を知るでしょう。神を愛する人は神のメッセンジャーであり、神に愛される人は神の子であり、調和の原理を理解する人は神とひとつになるのです。
多くの人が、帰依という言葉の意味と重要性を理解することなしに自らを帰依者と呼びます。帰依とは儀式や祭事を執り行うことを意味するのではありません。真の帰依は神の命に従い、神のメッセージを広めることにあります。数えきれないほどの障害にもかかわらず、ハリスチャンドラ王は真理の道から決して外れはしませんでした。苦しいときも楽しいときも、神を崇めなければなりません。不幸にも、カリユガの影響から人々はすべてがうまくいっているときには神を崇め、絶望したときには神を非難します。イエスの帰依者はみなイエスとともに十字架にかけられると決まったとき、イエスの最も近しい帰依者であったペテロやマタイ、聖パウロでさえ、自分たちがイエスを崇拝する者であると明かすことを拒みました。いったいこれが真の帰依者なのでしょうか? 人は、神と神のメッセージのためにはいかなることをも犠牲にする覚悟をするべきです。いかなる状況にあっても、神の命に背いてはなりません。それが決意です。決意は自己犠牲となり、自己犠牲によって不滅へと導かれるのです。
初め、パウロはイエスを憎んでいました。ある日、イエスはパウロの夢に現れて、優しく話しかけました。「パウロ、私があなたに何をしたというのでしょう? なぜあなたは私を非難するのですか? あなたの苦しみはすべてあなた自身の行いの結果であり、私のせいであなたが苦しんでいるのではないのです」 そうしてパウロは変容させられ、聖人となりました。このようにして、イエスは多くの罪人を聖人へと変えたのです。イエスの理想に従うことによってイエスを崇めなさい。イエスは三つの段階を示しました。一つめは「私は神のメッセンジャーである」というものです。イエスは神のメッセージを伝えることを望んだのです。二つめは「私は神の子である」というものです。子供には父親の財産を要求する権利があります。神の財産とは何でしょうか? 真理、愛、忍耐、平安そして正義が神の財産です。したがって、人はこれらの特質を得るよう努めなければなりません。人はこれらの徳目を実践し、体験し、伝えていかなければなりません。そうしてはじめて、人は神の子と呼ばれるに値するのです。三つめは「私と父なる神はひとつです」というものです。この段階は、一体性の原理を悟ったときに到達するものです。イエスがこの段階に至ったとき、一切の苦しみはもはやありませんでした。イエスは常に至福に満ち、いかなる覚悟もなされていました。十字架にかけられる時でさえ微笑んでいました。自分は身体ではないと気づいていたからです。身体は確実に滅びゆくものですが、その内在者には生も死もないのです。実を言えば、内在者とは神自身なのです。イエスは、身体が単なる衣服にすぎないものであり、自分はその内在者であるということを理解していたのです。
イエスが小さな少年だったとき、両親は縁日に行くためイエスをエルサレムに連れていきました。しばらくして、母マリアは息子イエスが側にいないことに気づき、イエスが人混みに迷ったのだと思って懸命に捜しました。ついにマリアは、イエスが寺院で司祭の説教にうっとりと聞き入っているのを見つけました。その光景を見てマリアは、イエスが誕生したときに訪れたアラブの王の「イエスは神を愛するであろう」という予言を思い出しました。マリアはイエスを抱きしめ、喜びの涙を流しました。イエスは言いました。「お母さん、あなたは神の仲間の中で私を見つけることができるのです。でも、あなたは別の場所で私を捜していました。私は、神の近くにいることが最もすばらしい財産だと思います」これには深いメッセージがあります。人は神があらゆるものに浸透していることに気づかず、神を探しています。神は愛の化身であり、愛を通してのみ到達できるのです。自分は神とともにあり、神のためにあり、神からやってきたのだと知るなら、あらゆるところに神を見出すでしょう。神はあなたの内にあり、あなたと共にあり、あなたの上に、あなたの下に、そしてあなたのまわりにいるのだという感覚を強めなさい。
帰依の道には多くの障害があります。困難に遭ったとき、神を非難し、責め、とがめる人がいます。それぞれが自分自身の行為の結果を担わなければなりません。神は何ら影響されることはありません。神は純粋で、汚れることなく、神聖です。人が何を言おうとも、言わせておきなさい。冷静に穏やかにいなさい。不必要な論争に立ち入ってはなりません。それは対立を生むだけです。笑顔で、優しく甘く話しなさい。そうすれば批評家は沈黙するでしょう。微笑みは非難に対する最良の答えなのです。パウロがイエスを責め続けていたとき、イエスは優しくパウロに近づき、心地よく微笑みかけました。イエスの甘美なる微笑みのその甘さは、パウロの毒された心を変えました。逆境のさなかにいようとも、常に快活でいなさい。常に笑顔を見せ、決してひまし油を飲んだような顔でいてはなりません。「幸福とは神とひとつになることです」
私たちは毎年ここでクリスマスを祝っています。本当のクリスマスは、あらゆる宗教をもった人々が集まるプラシャンティ ニラヤムでのみ祝われるのです。(拍手)一般に、ヒンズー教徒はヒンズーのお祭りを祝います。イスラム教徒はイスラムのお祭りを、キリスト教徒はキリストのお祭りを、というように祝います。ヒンズー教、イスラム教、キリスト教、ゾロアスター教等、あらゆる宗教をもった人々が集い来てクリスマスを祝うのは、プラシャンティ ニラヤムにおいてのみです。プラシャンティ ニラヤムはすべての宗教の調和を象徴しています。他の場所では、クリスマスの名のもとに人々はお酒を飲み、非菜食の食事をし、浮かれています。しかし、プラシャンティ ニラヤムのクリスマスは、神聖な雰囲気の中で祝われます。プラシャンティ ニラヤムでのクリスマスは、『休日(ホリデー)』ではなく『聖なる日(ホーリー デー)』です。ここで学んだすべてを、それぞれの国に帰った後も実践しなさい。自分は神のメッセンジャーであるという思いを強め、広く神のメッセージを伝えなさい。それがあなた方の最も重要な義務です。それ以上にすばらしい奉仕はありません。全世界の幸福のために励みなさい。世界は大きな家のようなものです。すべての国が異なる部屋に例えられます。自分の国だけが幸せであるべきだという狭い考えをもってはなりません。広い心でいなさい。すべての国の幸福のために祈りなさい。このことに基づいて古の人々は祈りました。「みんな幸せになりますように」 愛を育みなさい。それが真の霊性修行です。昨日、子供たちはすばらしいドラマを演じました。そのドラマには、愛の力が表現されていました。愛は邪悪な人をも変えることができるのです。邪悪な人が変容させられるのは時間の問題であるにすぎません。忍耐強くありなさい。もっともっと愛を育みなさい。誰も、スワミの神性と神聖さを理解できる人はいません。二十年前、初めてプラシャンティ ニラヤムでクリスマスが祝われたとき、私は歌を歌いました。
愛は私の姿
真理は私の息吹
至福は私の食物
私の人生が私のメッセージ
拡大こそ私の人生
愛に時期はなく
愛に理由はなく
生も死もない
もし、誰かにサイババについて話すよう頼まれたなら、この歌を歌いなさい。すべてのメッセージを伝えられるでしょう。愛が彼の姿であり、彼の人生が彼のメッセージであると話してあげなさい。人類は兄弟であり、神が父であるという感覚を育みなさい。
プラシャンティニラヤムにおける御講話より抜粋
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