Special Interview  
 

ラジオ・サイ マンスリーEジャーナル
Heart2Heart(ハートトゥーハート)(H2H)特集

神の化身と疑り深い人々

 
  Pink Line  
 

10.津波を食い止める

さきほどあげたNDテレビ番組で、スワミ・アグニヴェーシュはサイ・ババがもし神であるなら、ババは津波を止めるべきだったと言いました。スワミ・アグニヴェーシュはまた、なぜサイ・ババは腐敗に関して何もしないのかと尋ねました。これに二つのレベルでお答えしたいと思います。まず、津波について、そして二番目に(腐敗の素である)邪悪に関して、です。

津波に関しては、スワミは何度も何度も明言してきましたが、アヴァター〔神の化身〕はめったに自然現象に介入しません。地域的なものは別 ですが。クリシュナ神はこれを行いましたが、70年代初期のプッタパルティを襲った大洪水に関して、ちょっとは知られているのですがスワミもこれを行ったのです。この詳細記事は、以前H2Hに載せたことがありますので、ここで繰り返すつもりはありません。しかし、次のことを付け加えたいと思います。クリシュナ神はアビマニユーを救えたかもしれませんが、そうしなかった。ウパ・パーンダヴァ一族はすべてアシュヴァッタマに殺されてしまいました。けれど、クリシュナはそれを止めるために何もしなかったのです。そうできたかもしれないのに、です。物事の大きな計画の下に、ときおり、ある出来事が起こるのです。

短い時間の尺度では、私たちはその意味を知ることはできませんが、ときおり、大きなスケールで、何らかの神の計画が明らかになることがあります。神の子と呼ばれたイエスの場合を例にとってみましょう。神はイエスを救えなかったのでしょうか? もちろん救えたはずです。それならば一体なぜ神はそうしなかったのでしょうか? なぜなら、(はりつけ)の上で自らを犠牲にすることによって、イエスはその後の、世界がイエスの教えをもっとも必要としたとき、何百万もの人々のための(しるべ)となったのです。繰り返し、そこには隠された相乗効果 がありますが、私たちにはそれがわかりません。しかもそうできないので、私たちはあらゆる種類の結論に飛びつきます。ところで記録として、一流の専門科学誌、Geophysical Letters〔地球物理学通信〕に発表されて明らかになった、現在プリンストンの科学者シュリ・ランカンによる研究をお話ししてもいいですか。スリランカのある沿岸地域では、さんご礁 が石膏(せっこう)を採るために、とか観光客に売るために、と破壊されてしまっていました。津波は、その猛威を止められるようなものが何もなく、内陸部深くまで及ぶこととなり、1700人の乗客を乗せた列車をまるごと飲み込み、引きずりまわし乗客全員の命を奪ったのでした。我々のH2H、津波特集号に、この不運な列車の写 真が掲載されています。私が言いたいのは、自然が猛威を振るう一方、人間が被害をさらに大きなものにしている、といいうことです。地震やハリケーンといった災害が起こるとき、私たちは何度も繰り返しこういったことを目にします。カリフォルニアの大きな地震で数十人の死者が出る一方、それよりも小さな地震がアジアで起きたとき、数千人が犠牲になります。フロリダを襲ったハリケーンで12人の死者が出ましたが、フィリピンを襲った台風では数百人の死者が出ました。人々がその仲間を守ろうとしないのであれば、自然がすべて悪いとは言えないのです。

ババが腐敗と闘うために何もしないという不満に関してですが、次のようにお答えしたいと思います。今日の社会において、腐敗は(重大な邪悪ではありますが)一つの邪悪にすぎません。根本的な原因はダルマ(正義)からの逸脱です。神の化身はダルマに立脚することの必要性を人に思い起こさせるためにやって来られます。これはラーマ神がご自身なりのやり方で行ったことですし、クリシュナ神もそうでした。ババもまた、ババご自身の方法で同じことをします。ババは愛というメッセージを静かに広めることでそうしていらっしゃいます。それほど多くの人にはどうやってかは知られていませんが、アーンドラ・プラデーシュ州、ワッランガル地方のテロリストの多くはババの魅力に魅せられてからというもの、生き方を変え、平和な生活を送るようになりました。事実はほとんど知られていませんが、私は知っています。そこでセヴァをしている人々と話をしたことがあるからです。それに、ここの人たちが何百人も束になってやって来て、彼らの変容を喜んでいるのを見たことがあります。ああ、変容は編集して見せるような話題ではないのです。いつもブラックベリー・ヘッドライン・ニュースにチャンネルを合わせているような人たちがどうやってそのことを少しでもわかるというのでしょう?

私はスワミ・アグニヴェーシュの社会的な活動を尊敬していますが、スワミジがヴェーダーンタを少しでも読まれているのかどうか疑問に思わざるを得ません。おそらく彼はそんな必要はないと思ってらっしゃるのでしょう。しかし、人がアダルマ(不正義)に対して戦いを挑むという義務があるのであれば、何の義務も持たない神(クリシュナははっきりとそう言っています。スワミジがギーターをお読みになればわかるのでしょうが)は、ただ忠告を与えるのみです。神がクルクシェートラの戦いでなされたのは、そういうことです。このユガ(時代)において、神の化身は愛という武器を使って、アダルマと闘うようにと言います。それこそが、シュリ・サティア・サイ・オーガニゼーションのボランティアたちが北はダージリンから南はケーララに至るまで一年を通 して、静かに黙々と行っていることです。

私たちはこれらの心温まる物語の数々を伝えることに全力を尽くします。少なくともあなたがたの何人かは苦もなく読んでくださることを願って。残念ながら、無私の愛に基づく物語を、多くの帰依者はあまり熱心に語ろうとはしません。人々はゴシップの方をより好んで受け入れるようですが、もし多くの帰依者自身の好みがそういうものであったとして、帰依者たちが良い話をするのが、噂や根拠のない情報から出たものだとしたら、メディアを責めることができるでしょうか? 詳細にわたってお話した、これらの心温まる話を調べるためにどうぞH2Hの文書館(アーカイブス)を訪れてみてください。それらはすべて無私の奉仕という氷山の一角を成しているにすぎないのです。

スワミ・アグニヴェーシュさん。私たちは活動家の戦略に従いますが、静かに黙々と働きます。また彼らは黙々と働く人に仕えます。私はあなたがしていらっしゃることに反対しているわけではありません。人は、時には注意を喚起するために、不正に対して大きな声を上げるべきです。しかしだからと言って皆が皆そのような方法を取るべきというわけではありません。クリケットでは、速球の投手もいればスピンが得意な投手もいます。両者ともチームを構成している以上、野手や打者にとっては良い効果 をもたらします。ですから、スワミジさん、1)どうかお願いですから、私たちとやり方が違うからといって、私たちを侮辱したり、馬鹿にしたりするのは止めてください。 2)サイ・ババが通 りへ繰り出すことを期待しないでください。ババは道しるべとして働いているのです。ちょうどクリシュナ神がそうだったように。

ここでスワミが、グジャラート地震と津波の時にどんな救済活動をしたかを話すつもりはありません。しかしながら、国そのものが重大な危機に瀕していたとき、ババが保護に乗り出したという、あまり知られていない小さな出来事について少しばかりお話ししておきましょう。あなたがたのどれくらいの方が、1962年、中国が突然、インドへ予期せぬ 進撃をしたことを覚えておられるかはわかりません。私は当時のことをとても良く覚えています。私はその時ボンベイにいましたが、インドと中国は兄弟のようなものだという意味のヒンドゥー語のチニ・バイ・バイという歌を皆で歌って長い友情の酒宴を催していました。西洋における偏見のおかげで、中国が広く閉ざされている一方、インドは国際的な見通 しの良さを享受していた時代でした。中国の周恩来首相が当時の原子力エネルギー施設、後のBARCを訪れたのを今でも覚えています。インドネシアのバンドンで会議が開かれ、中国のリーダーたちがインド航空でやって来たときのことです。飛行機は仕掛けてあった爆弾によって爆破されたのですが、幸運にも大勢の人が助かりました。

我々は、中国とはとても友好的な関係にあると思っていましたが、実のところ、中国は、英国によって引かれたインド、中国間の国境線に対して少しも快く思っていませんでした。たくさんの論争が起こり、ついに1962年10月、中国は現実にインドへ進軍したのでした。ネルー首相はひどいショックを受けました。その一方、侵攻軍は、特に東部での進軍が目覚ましく、アッサムにあるテズプール郊外へと移動しました。これは信じがたいことでした。中国人たちは実際にインドの平地に迫っていました。山から遠く離れていたわけではなかったのです。インドは必死でアメリカに抗議しました。当時アメリカはソビエトとのキューバ・ミサイル危機をやり過ごしたばかりでした。アメリカはすぐさま援軍を送りました。私は鮮明にアメリカの飛行機が、サンタ・クルーズ空港に20分おきに降り立つのを見たことを覚えています。山間部での戦闘に備えて銃を運んでいたのです。(私たちはこういった飛行機が飛んでいるのをいつも見ることができました。)

さてこれが一体サイ・ババとどんな関係があるのでしょうか? ちょっと待ってください。中国の軍隊が(まったく何の備えもなかった)インド軍をあっという間に片付けた、ちょうどその時、ある人々がスワミの所へ行き、こう言ったのです。「スワミ、わが国が重大な危機に瀕しています。あなたは何かなさるべきです」。スワミはこう答えただけでした。「何も恐れることはありません。何も起こらないのだから。ここは、プンニャ ブーミ(聖なる地)です。中国軍は立ち去るのみです」。ほとんどだれもババの言うことを信じませんでした。しかし、実際何が起こったかわかりますか? 1962年11月21日に、何ら抵抗されることなくインドへ侵攻していた中国軍が、一方的な停戦宣言という名目にふさわしい行動を取ったのでした。降誕祭のちょうど二日前のことです! それ以来、両国は友好回復に向けてより一層歩み寄るようになりました。

もちろん、疑り深い人々は、中国侵攻軍による一方的な停戦の宣言とか、その後の撤退とか、そのどちらにもサイ・ババは、何にも関係していないと信じているでしょう。けれど、神の化身は人々を納得させるためにここにいるわけではありません。ババは救いを求める人を助けるために、ここにおられるのです。そのあり方は、今までもずっとそうであったたように、これからもそうあり続けるでしょう。私自身の体験から次のことを付け加えることができます。ときおり、神の化身は我々が、理屈に合わないとか望ましくないと思うことをなされます。おそらく人の言葉で言うと、それらの行いがそうなのでしょう。しかし、物事をもっと大きな視点で見ると、そうではないのです。しかも、神の化身との関係は、信仰心と無条件の愛ということにつきるのです。クリシュナ神は第12章(ギーター)でこのことを明確に述べていますし、細かいところまで同じです。コンマの位 置まで何ら変わりありません。ときどき神は、我々にその信仰が確固たるものか脆弱(ぜいじゃく)なものなのかをわからせるために、疑いの念を抱かせます。神の化身は助けにやって来て、教え、導くのです。しかし、神は同時に、(クリケット用語を使っても良いとしたら)難しいグーグリーボールを投げて試します。クリシュナ神はこれを簡潔に説明しています。クリシュナ神は言います。(第7章)

――「おお、アルジュナよ。私は過去に生きていたものたち、現在生きているものたちそして未来において生まれてくるものたち、すべてを知っている。しかしだれ一人として私を知るものはいない!

私の創造力という力に覆われて、私はすべてのものから姿を隠している。混乱した世界は、生まれることも変化することもない私というものを認識しない!

三つのグナ(創造物に埋め込まれた特徴)の現象に惑わされて、世界は創造の束の間の様相を超越した、不滅の存在である、私というものを認識できないでいる。

真に、この私の神聖な幻影(マーヤー)は乗り越えがたいものである。しかし、唯一私を避難所とする者だけが、このベールを突き抜けることができるのだ!」――

第9章でクリシュナ神はさらにこう付け加えています。

――「宇宙全体を支配する神としての、私の超越した本質を知らずに、愚か者たちは、ちっぽけな人間の姿を取って現れた私を軽んじる。

悪魔のような、非道で人を誤らせるような気持ちを抱いている、思慮のない者たちの願い、行いそして知識は、実に虚しい。

しかるに、偉大な者たち、おお、パールタよ。自らの(内なる)神性に導かれ、私をあらゆる存在の不滅の源であると知っている者たちは、つねに私を思い、心からの崇拝を捧げる」――。

これがすべてを物語らんことを願います。アヴァター〔神の化身〕はマーヤーというクモの巣の糸を織り込み、「疑り深いトーマス」を選別 します。忠実な人々は、疑り深い人々にとっては愚かしく、馬鹿げて見えるかもしれませんが、神に関する限り、彼らこそが救われる者たちなのです。

合理性という名の下に、頭で生きている者は神の化身の試験に失敗するでしょう。なぜならこのテストは純粋な論理の境界を超えた事柄を扱っているからです。クリシュナ神が断言したように、神は内在するものとして隠れており、そこに表象としての宇宙が存在しているのです。しかるに、神は宇宙が存在しなくなっても、存在がなくなることはありません。神は永遠であり、神の永遠なる姿は、時間と空間を超えた、神性という目に見えない形の表れだからです。哲学者たちは、それは冷徹な論理を超えた(ハート)の領域にある、と明言しています。

この領域は時空間を超えたところにあるかも知れませんが、それでも、もし人がそれを頭ではなく(ハート)で求めるならば、地上でも近づくことはできます。アインシュタインは、頭で科学を追求しましたが、自らが言うように、「宇宙の宗教性」というすばらしい感覚を体験することとなると、(ハート)を持って追い求めたのでした。同じ感覚は瞑想を通 してヴェーダの師たちによって求められ、また他の人々においては、たとえばマザー・テレサのように無私の愛を与えるという単純な方法によって、求められたのでした。体験という世界は、見せかけや幻覚といった言葉で片付けられてしまうかもしれません。しかし、合理主義者でさえわくわくするような、興奮した感情を体験します。チャイタニヤ・マハープラブーがほとんどいつも体験していた無上の至福は、体験という測りの最高の極みにありました。合理主義者にはあり得ないかもしれませんが、ティヤーガラージャは、心を込めて歌うことを通 して、ラーマとの深い交流の中で体験したのです。おそらく他の文化においても多くの人々にとってそうであったろうと思われます。私は、当時22歳くらいだった若者、ハイゼンベルグ〔ドイツのノーベル物理学者〕によって書かれた言葉をはっきりと覚えています。量 子力学の発見へと導く画期的な進歩を成し遂げたあとまもなく、ハイゼンベルグは妹に宛てて手紙を書きました。私が覚えている限り、ハイゼンベルグはこう書いていました。「神が宇宙という交響曲を書いているところを、私は、そのすばらしい神の肩越しに見ているかのように感じたのです!」。

 

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出典:http://media.radiosai.org/Journals/SpecialArticle/GOD_AVATAR_AND_THE_DOUBTING_THOMAS.pdf
翻訳:サティア サイ 出版協会

 

 
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