Special Interview  
 

ラジオ・サイ マンスリーEジャーナル
Heart2Heart(ハートトゥーハート)(H2H)特集

神の化身と疑り深い人々

 
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4.スワミの社会事業−恵みの水プロジェクト

次に、スワミの恵みの水プロジェクトについて見てみましょう。NDテレビ番組で、ある紳士があざけるようにこう言い放っていました。「ああそうそう、サイ・ババはパイプを通 して水の供給を少しやってるね」。これは単に無責任な発言であるだけでなく、人には事実無根の話を公にする権利がないのと同じくらいある種の犯罪です。事実はどうなっているのでしょうか。我々はこれまで事実をすべて(H2Hで)提供してきました。しかし、もう一度そのいくつかについて強調したいと思います。スワミが何の根拠もないまま、いかにひどい攻撃にさらされているか読者の皆さんにもわかっていただけることでしょう。

1994年から1996年の間、スワミはアナンタプール地方で最初の主な「恵みの水プロジェクトを行いました。およそ30億ルピーが費やされました。その結果 900以上の村で安全な飲み水が得られたのです。
 これには、巨大な7つの夏用貯蔵タンクの建設と、中には直径約20インチのパイプも含まれていますが、およそ2,500キロのパイプラインが敷設されました。また、その水が運ばれてくるには、北から南まで500フィートもの勾配を汲み上げるポンプ揚水が必要だということになります。これは「大」プロジェクトでした。完成後、一年の稼動を経て、プロジェクト全体は、1997年10月にその州の人々にゆだねられました。1パイサのお金も要求されることはありませんでした。それは、愛という贈り物だったのです。私もその現場に居合わせたのですが、およそ10年を経てもなお、その時のことを思い出すと、今でも毛が逆立つほどです。

アナンタプールは始まりにすぎません。それから、メーダクやマハーブーブナガール(でのプロジェクト)が始まり、その後にチェンナイ・プロジェクトが始まりました。チェンナイ・プロジェクトのとき、何が起こったと思いますか? まったく驚異的でした。しかし、私たちがあえて言わないせいもあるのでしょうが、世間にはあまり知られてはいません。そこで今そのことをすべて文書にして明らかにしたいと思います。

チェンナイでは、イギリス統治の時からつねに大きな水の問題を抱えていました。1954年までさかのぼりますが、唯一の望みは遠く離れたアーンドラ州のクリシュナ河から水を持ってくるしかないということがわかりました。行政が入って、ついに1983年、プロジェクトが着手されました。もちろん、華やかなファンファーレとともに、三人の有名な人物、インディラ・ガーンディー(Indira Gandhi)、N・T・ラーマ・ラオ(N・T・Rama・Rao)、そしてMGR(現場監督)によって執り行われました。およそ12年が過ぎ、カンダレール――当時はプーンディ運河と呼ばれていたテルグ・ガンガー計画の一部で、重要な運河ですが、それが完成しました。しかし、水はほとんどチェンナイに流れてくることはありませんでした。その理由は? それは、その運河はもっぱら土工事でしたし、150キロという距離を超えて運んでくるには単に不十分なものでした。沈泥、(土壌にしみ出る)浸潤そして運河壁の侵食という大きな損失があったのです。50億ルピーを超えるお金が費やされましたが、依然チェンナイは渇水でした。一方、北東モンスーンが何度もやみ、チェンナイはかつてないような大きな困難に陥っていました。

そしてこのとき、2002年の1月19日、スワミはチェンナイに水をもたらすことを宣言されたのです。ここからは、歴史になります。およそ14ヶ月以内で、最新の技術を駆使しながら、古い運河の廃墟(はいきょ)の跡に新しい運河が造られました。そしてスワミの79回目の誕生日には、初めて水がその新しい運河に放たれたのです。
 4日後、それはタミル・ナードゥ州の境界まで達しました。それ以来、クリシュナ河に水がある限り、チェンナイにも水があるようになったのです。7年間で、初めて、チェンナイの家々の蛇口から水が出るようになったのでした。もはや高いお金を出してタンクローリーの汚く、汚染された水を買う必要はなくなったのです。ところで、チェンナイの人口は700万人です。

その後、スワミは、14ヶ月という短い期間で安全かつ処理を施された飲み水を、ゴーダヴァリー河から東西ゴーダヴァリー地方のおよそ500の村々にもたらすという、驚くべきゴーダヴァリー恵みの水プロジェクトをやってのけたのです。東ゴーダヴァリー地方はとりわけ作業の困難な所でした。丘陵が多いだけでなく森林が密集していました。おそらくは、長い間放置されたことにもよるのでしょう。多くの部族がそこに住んでいました。ゴーダヴァリー川からはたくさんの水が海へ流れ込んでいましたが、部族の人々は少しもそれを飲むことはできませんでした。スワミが集水の井戸を作り、濾過装置(ろかそうち)、そして困難な地域に水道管の入念な回路網を設けて、部族や村人たちに水をもたらしたのです。いいですか。そのプロジェクトが完成したとき、竣工式など行われず、どんなお偉方もおらず、演説も何もありませんでした。人々はバジャンを歌い、蛇口を開き水を貯めたのです。

ところで、そういった簡素さは、プッタパルティ病院が開かれたときにも同じでした。私はそこに居合わせたのですが。何百人もの少年たちがヴェーダを唱え、総理大臣のナラシムハ・ラオ氏(Narasimha Rao)が飛行機でやって来て、病院の敷地に入りスワミに合掌(ナマスカール)して挨拶をしました。テープが切られ、ドアが開かれました。それから総理はスワミとともに病院へ入り、スワミは灯火式の火を灯したのでした。それから二人は階段を上って手術室に行きました。手術室では、一人の患者が心臓外科手術を待っているところでした。すでに麻酔が施されていました。ヴェヌゴーパール博士(Dr.Venugopal、現在のAIIMS、全インド医科大学の理事)が切開をするために待機していました。スワミが祝福をされ、その外科医のナイフが患者の肌に触れました。何のスピーチもなければ、ファンファーレも何もありません。その日、4件の手術が行われました。そして1945年には道路一本も通 じてはいなかったような村で、無料の心臓外科手術の物語が始まったのでした。

ところで、サングヴィ氏はプラネタリウムのことを皮肉っぽく語っていましたね。サングヴィ氏はここの大学について、またそのプラネタリウムが大学の資産だということを知っていらっしゃるのでしょうか? 大学がプラネタリウムを持つのは罪ですか? 文字通 り、何十万の人々が毎年プッタパルティへとやってきます。実際、世界中いたる所からやって来ます。彼らはプラネタリウムへ行き、私たちのスタッフが提供するショーを見ます。訪れる人の多くは貧しい村人たちです。貧しい人々はプラネタリウムショーを見るに値しないということですか? プラネタリウムは大都市にあるべきで、それを見る特権があるのは都会の人々だけということですか? この方はインドの村人に対して何という軽蔑心を抱いておられるのでしょう!

サングヴィ氏はラーマクリシュナ・ミッションについて触れておられます。このことにもお答えしなければと思います。まず、私はラーマクリシュナ・ミッションに対して最高の敬意を払っていますし、最高の評価を抱いています。20世紀の40年代に戻りますが、私の父はカラチで働いていました。当時父は、カラチにいたスワミ・ランガナータナンダ(Swami Ranganathananda)の講演に定期的に通っていました。それから父はマドラスへ転勤になりました。私はそこで、高校の最後の2年間を過ごしました。有名なT・ナガール・マドラスのラーマクリシュナ・ミッション高校です。付け加えておきますが、私は折りに触れてラーマクリシュナ・ミッション発行の本をたくさん買ったものです。今でもときおり、そのいくつかの刊行物を読んでいます。私はラーマクリシュナの教えを読んできましたし、それらによって感銘を受けてきたと思っています。同様に、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの書物や講話に感動を覚え続けてもいるのですが。また、ここで知り合った多くの方たちはラーマクリシュナ・ミッションを通 してスワミのもとへやって来たことを付け加えておきましょう。おそらくその方たちの中でも、もっとも有名な方として故カストゥーリ博士があげられることでしょう。

 

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出典:http://media.radiosai.org/Journals/SpecialArticle/GOD_AVATAR_AND_THE_DOUBTING_THOMAS.pdf
翻訳:サティア サイ 出版協会

 

 
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