Special Interview  
 

ラジオ・サイ マンスリーEジャーナル
Heart2Heart(ハートトゥーハート)(H2H)特集

神の化身と疑り深い人々

 
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9.神の恩寵と中止されたカルマ

これらは驚くべき出来事です。あまり知られていませんが、信じていない人々にはたちどころに、せいぜいでっち上げや錯覚として片付けられてしまうものです。それは予測されるべきことです。アヴァター〔神の化身〕であるという私自身の体験はこういうものです。スワミはよく試験官の役を演じられます。スワミはテストをして私たちがテストに合格するか失敗するかを見られます。スワミはこう言います。大工が絵を吊るそうと壁に釘を打つとき、まずその釘がちゃんと固定しているか見るために、揺さぶってみます。もしそうでないときは、もっと叩きます。はっきりと確かなときにだけ、絵を掛けるのです。スワミは絵を守るためにそういったテストをするのです。同じように神の恩寵もそれがふさわしい時にだけ、与えられるのです。

ここが大事なポイントであり、それは簡単に理解されるものではありません。私もこの手の、数えられないくらいの疑問に直面 したことがあります。「神様は不合理だ。神様はなぜこんなこと、あんなことをするのだろう?」と言った具合に。いつも私たちは神を測るようなテストをもくろんでいます。神様もまた我々をテストしているとは気付かずに! 昔、私たちには恩寵マークと呼ばれるシステムがありました。そのシステムが今でもあるかどうかわかりませんが、そのやり方は次のようなものです。たとえば、合格点を100点中35点とします。その試験を受ける資格のある人は100点中34点取ったとしましょう。文書の上では、この候補者はその科目に失敗したということになります。しかし、これは一つ重要な事実を無視しています。それは主観的な評価がなされたならば、一点のミスの余地があるということです。科学では、我々はこれを実験上のミスと呼んでいます。あらゆる観測にはそのようなミスがつきものです。実験者がある結論を引き出したとき、同時に彼は正確な値を出さざるをえません。試験の場合、点数配分をする際、恵みの評価を与える力を有力な権威者に持たせて、一点のミスがあり得るという事実を考慮に入れるのです。このように、ある副学長は35点ではなく34点をとった少年にもう一点足してあげるということがあるのです。こうして少年の運命は失敗から合格へと変わったのでした。実に途方もない違いです。

神様もまたそのようなシステムに倣うことがあるということです。人々は、それが何であるか基本的なことも知らずに、中止されたカルマのことを語ります。カルマの法則を定めた神はそれが自動的に適用されるようにしています。神はめったに介入しません。しかしながらそこには二つの例外があります。例外1――当事者が過去の悪い行いをほとんど全部つぐなってしまい、ほんの少しのカルマが残っているだけになったとき、ちょうど銀行がときどき貸し付け金額を帳消しにしてくれるように、神はカルマを帳消しにしてくれることがあるのです。豊かな国々は最近、借りたお金を支払うことができない、多くの貧しいアフリカの国々に対してこれを行いました。先ほど私が述べたNDテレビ番組で、一人の婦人が怒ってこう主張していました。「私はサイ・ババがインタビューをしたときに、その部屋にいました。重い病気の人が二人いました。ババは二人を無視すると、代わりにアメリカの大使のために指輪を出したのです。まるでその外交官がひどく指輪を欲しがっていたかのように、です」。これは、それがまったく逆だということを気づくのではなく、神に判断を下そうとする我々の古典的なケースです。

例外1はこれまでにしましょう。では例外2とは何でしょう? それはずっと昔に明らかにされており、ギーターの中にはっきりと記録されています。誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)する人たちが見たいと言うのであれば。ギーターのちょうど真ん中あたりです。正確には第9章で、クリシュナ神が、もし人がつねに神を思うならば、神はその者の面 倒を見るのだと永遠の約束をしています。続けて、最後の章で神はまた別の強調的な確約もします。そこで神は言います。もしも人が無条件にそして完全に全託するのであれば、その時、神はその人に完全な保護を与えるであろうと。

実際の言葉でこれが意味しているのは、アヴァター〔神の化身〕は必ずしもどんな場合にもカルマを帳消しにしなければならないわけではないということです。ある人々が考えているように、それは神の義務ではありません。帳消しにもある配慮が働いて決められるのです。こういったことに関する無知があらゆる疑念を招くことになります。何年も前に、ある日の午後、私自身、二人の人がインタビュールームから車椅子で出てきたのを見たことがあります。スワミはその一人に、皆の前で立って歩くように言いました。そして事実その人はそうしたのです。しかし、もう一人の男性は車椅子に座ったままでした。私は驚き、哀れに思いました。次の朝このもう一人はインタビューに呼ばれました。私は「ああ、この人の番がやっと今朝来たんだ」と独り言を言いました。しかし何ということでしょう。彼は歩くことはなかったのです。彼は依然として車椅子のままでしたが、しかし彼の帰依心は少しも()えることはありませんでした。祈りを捧げる人々に対してスワミはこう言ったことがあります。「私は治してあげることはできます。しかしカルマは消し去ることができません。ただ、その苦しみが次の人生にまで延長されるだけなのです。あなたはそうしてその荷物を先に持ち越したいですか? それともそれを金輪際取り除いてしまいたいですか?」。つまり、このカルマの帳消しは単純なことではなく、そのことに何の深い知識も持たない人々が馬鹿げたことを言うのは何も驚くべきことではありません。

ここまでお話ししたのですから、さらにもう一つお話ししておくべきでしょう。ある重い(がん)患者の場合ですが、スワミは患者たちに痛みで苦しむことはないと意志されたことがあります。私の妻は癌で亡くなりましたが、妻は、癌患者が最後の段階でよく受ける、耐え難い痛みに苦しむことはありませんでした。妻の兄は、腫瘍学者でしたが、たまたま妻の最初の乳癌の発病を診察したのでした。最後の段階[最初の手術から7年後にやって来たのですが]のために、私にたくさんのモルヒネの錠剤を送ってきました。しかしそれらはまったく使われることはなかったのです。スワミは妻の面 倒をよく見てくださいました。妻が死んだとき、私は葬儀に関して何もすることはありませんでした。すべてスワミが面 倒を見てくれたのです。最後の最後まで詳細にわたって。スワミは葬儀でずっとバジャンを歌ってくれる、たくさんの婦人たちに出席するよう手配までしてくれました。死に先立って、スワミは個人的に妻を病院に訪れ、妻のためにヴィブーティを出してくれましたが、それをほんの少し妻の口に入れてくれました。スワミの側にいて、何らかの形で尽くしてくれた多くの人々に対して、スワミは何度もそうしてくれました。要するに、ふさわしいと思われるとき、スワミは少しお返しをしてくれるのです。

カルマについては、何年も前に学生たちに、ババご自身が語って聞かせた話を一つ語っておくべきでしょう。それは学生たちとの個人的な会合の場で、我々年長者も数名参加していました。私も、その時副学長だったのでそこにいました。スワミは以前、当時のキャンティーンの世話をする人がいたと言いました。この男はスワミを熱烈に愛していましたが、他の人たちにはかなり意地の悪い人でした。男は何度も親切にするようにと注意されていましたが、その男の性質、すなわちグナが男を支配していました。晩年男は重い病気になりましたが、だれも男を助けようとはしませんでした。男は排泄物の中に横たわるようにまでなりました。垢にまみれた男の身体から悪臭が立ち始めていました。するとスワミは男の所へ行き、きれいに洗ってあげると、男に付き添ったのでした。男は泣きました。「スワミ、私は、あれほどあなたに尽くしたのに、こんな風に私の人生は終わるのですか?」。ババは答えました。「あなたは私には愛を示してくれました。だからこうして私は来ました。でも、私は何度もあなたに他の人たちにひどい扱いをしないようにと注意してきました。なのに、あなたは一度も私の言ったことに注意を払おうとはしませんでした。あなたのカルマが地獄からしつこく跡をつけねらっているのに、私に何ができるというのでしょう?」。

読者の皆さん。ヴェーダーンタをあまり知らない人たち、そしてここそこから一言二言を拾ってくるだけのような人たちは、馬鹿げたことだと言ってもよいでしょう。私たちも彼らの人たちを無視することもできます。しかし、あなたがたが、この冒すべからずカルマの法則がどんな風に働くのか少しでも知り得たらと、こうやってお話している次第です。この礼儀知らずの男の話はもう一つ、たくさんの人があげる要点を思い出させてくれます。彼らは言います。「いいですか。ババはいつも愛について語りますが、だけどごらんなさい。ここではたくさんの人が無作法に話をしています。これは矛盾ではないのですか?」。こういった類の話は少しも新しいことではなく、実際昔は定期的に、直接スワミご自身に伝えられていました。スワミはよくユーモラスな言葉で笑ってやり過ごしていらっしゃいましたが、折に触れてなぜそういったことが起こるのかと、正確に説明してくださったものです。「このアシュラムは外の世界の一部分にすぎません。人々は外からやって来ます。ある人々はほんのしばらくいるだけで帰って行きます。またある人たちは役に立ちたいとここに滞在します。より良い方向へと変わるのは自分次第なのです。怒りっぽいといったことも含めて、望ましくない習慣に執着したままでいたいならば、自分のカルマに負担を増やしていっているだけのことです。人は決してそれから逃れることはできません。私は人々に向上しなさいと強く言いますが、人々の属性、グナは人々をしっかりとつかまえています。人は、自身のグナ(性質)を克服するために懸命に努力しなければなりません。これがギーターの教えです。でもだれがそんなこと気に留めるでしょうか?」。

アシュラムに対する不満は何も目新しいことではありません。だれかも同じ質問をラーマナ・マハーリシにしました。ラーマナはこう答えました。「あなたはここへ自分自身を高めるために来たのですか? それともアシュラムを良くするために来たのですか? このアシュラムは外の世界の縮図です。あなたがここで自分自身を高めるようになれば、そのときは世間に出て行っても、良いままでいられるでしょう。それはまたあなたの周囲の環境を良くすることにもなるのです!」。信じてください。これは本当に真実です。これを証明するたくさんの人々と、私はこれまで語り合ってきました。ジーヴァナンダム博士(Dr.Jeevanandam)はシカゴ大学で働いている有名な外科医です。ジーヴァナンダム博士は約300件の心臓移植手術を行ってきました。あなたがたの中にはラジオ・サイで私たちが放送したとジーヴァナンダム博士のインタビューを聞いたことがあるかも知れません。ジーヴァナンダム博士は以前こう言っていました。ジーヴァナンダム博士はずっと、ひどく辛抱のない人間だったのですが、スワミの所へやってきて、忍耐を学んだのです。同じように私自身も、たくさんの大事な面 で助けられてきたと言えます。私は確かに完全ではありません。けれど、まったくスワミのおかげで、以前と比べて今は、望ましくない性癖という荷物を減らすことができたと心から信じています。

スワミの学生たちほどこの変容が際立っているのは他にありません。いかに多くの学生たちが、どれほどすばらしく変容して、外界へと出て行き、良いお手本を示していることでしょう。私はサミール・バティア(Samir Bhatia、当時はHDFC銀行の、そして現在はインドのバークレイズ銀行を率いている人物)がこう言うのを聞いたことがあります。ジーヴァナンダム博士がスワミの学生たちを大勢HDFC銀行に受け入れたあと、会社の雰囲気に、そうした卒業生たちがある変化をもたらしていることに気がついたのです。週末、他の社員たちがパーティに集まるとき、私たちの卒業生は姿を消していました。あとでわかったのですが、彼らは近くの村々へ行き、ささやかな奉仕をしていたのでした。この考えに引き付けられて、他の人たちも徐々に加わるようになり、やがて銀行そのものがいくつかの村を、発展のために管理するようになったのです。この話はいろいろな所で繰り返し語られています。

 

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出典:http://media.radiosai.org/Journals/SpecialArticle/GOD_AVATAR_AND_THE_DOUBTING_THOMAS.pdf
翻訳:サティア サイ 出版協会

 

 
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