世話人からのひとこと(京都)

2020年9月30日

京都センター世話人より

私たちは、『幸せ』と聞くと、何か努力したり、霊性修行や祈りの結果、得られるものと思っているかもしれません。

また、『奇跡』と聞くと、聖者やババ様が起こす超常現象を思い浮かべるかもしれません。

でも、それだけでしょうか・・・
日常的になりすぎて・・・
当たり前になりすぎて・・・
私たちは何かが見えなくなっているのではないでしょうか?

今日を生きているということは、本当はすごく奇跡的で幸せなことかもしれません・・・
本来、私たちはどれだけ恵まれているのでしょうね?

病気は苦しく、耐え難いです・・・
人は病気にかかると、健康であることの幸せを痛感します。

何も痛みや苦しみ無しに生活ができるというのは、本当はどれだけ幸せなことなんでしょうね?

不治の病で死の床にいる人は、明日も生きたいと懇願します。

昨日死んだものが、それほど望んだ今日を私たちは生きています。

今日を生きること・・・
本当はどれだけ幸せなことなんでしょうね?

愛する人が死に瀕しているとき、人は願います・・・
どうか生きていてください。
また元気になってください。
神様、どうか救ってください・・・
愛する人が今日生きてくれていること・・・

本当はどれだけ幸せなことなんでしょうね?

私たちは、はじめから、幸せの中を生きています・・・
私たちは、それほど素晴らしい今日を生きています・・・

私たちは、日常が当たり前になってしまって、気づかないでいた気がします。

花を見て、美しいと感じられる・・・
物を食べておいしいと感じられる・・・
音楽を聴いていい気持ちになれる・・・
本や映画やドラマを見て、感動し、涙を流せる・・・

いったいどれほどの奇跡なんでしょうね?

目が見える。耳が聞こえる。口がしゃべれる・・・
物をつかめる。地面を歩ける。手足が動く・・・
食事を食べられる。お風呂に入れる・・・
泣くことができる。笑うことができる・・・
悲しむことができる。喜ぶことができる。怒ることができる・・・
いったいどれほどの奇跡なんでしょうね?

太陽がある。地面がある。空気がある。水がある。食べ物がある・・・
友人がいる。愛する人がいる。愛してくれる人がいる・・・
私の体が私を支えてくれている・・・
友人がやさしい声をかけてくれる・・・
私が今、生きている・・・
いったいどれほどの奇跡なんでしょうね?

きっと、あり余るほどの幸せと奇跡にかこまれて、
私たちは今ここに存在するのでしょう・・・
ただそれに気づいていなかっただけ。

幸せとは、何かを求めて手に入れることではなく、
自分が幸せであると気づくことなのかもしれませんね。