短気をどうやって手なずけたか

短気をどうやって手なずけたか

ベン・カーソン博士

 考えられないことが起きたのは、僕は中学3年の時でした。 僕は自制できず、友達をナイフで刺そうとしました。 ボブと僕は、ラジオのチャンネルをどちらにするかという取るに足らないことでけんかになったのです。「待てよ、カーソン。お前はいつも…」と言われた瞬間、僕は盲目的な怒り-病的な怒り-に支配されました。 僕はポケットのキャンプナイフをつかんで、それをパチッと開けて、友達の少年に突き刺しました。 若い筋力を余さず使い、ナイフを腹に向けて突き刺しました。 ナイフは彼の大きくて重いベルトのバックルにぶつかり、刃(やいば)がカランと音を立てて地面に落ちました。 僕は壊れた刃を見つめて弱気になりました。 僕は彼を殺そうとしていたのです。 友達を殺そうとしていました。 バックルが彼を保護しなかったら、ボブは僕の足に横たわっていて、死んでいるか、重傷を負っていたでしょう。 彼はただ僕を見つめ、何も言いませんでした。 「ご…ごめんなさい」とつぶやき、柄(え)を落ろしました。 僕は彼の目を見ることができませんでした。

 言葉もなく、僕は振り向いて、家に帰りました。 ありがたいことに、家は誰もいませんでした。 僕は一人でいることができるトイレに行き、ドアに鍵をかけました。 それから浴槽の端に沈み、長い脚は床のリノリウムまで伸び、洗面台にぶつかりました。 ボブを殺そうとした。 友達を殺そうとした。 どれほどきつく目を閉じて閉じたとしても、手から、ナイフ、ベルトの留め金、折れたナイフ、そしてボブの顔といった、映像から逃れることができませんでした !

 「こんなのはクレイジーだ」と僕はようやくつぶやきました。 「僕は頭がおかしいに違いない。正気の人間は友達を殺そうとはしない。」 浴槽の縁(ふち)で手を冷やし、熱い顔に手を置きました。 「僕は学校でとても上手くやっている。それなのに僕はこんなことをするんだ。」 僕は8歳の時から医者になることを夢見ていました。 しかし、こんなにひどい短気で、どうやって夢を叶えることができるでしょうか? 怒ったとき、僕は暴走し、どうやって止めればいいのかわかりません。 短気をコントロールしなければ、何も成し遂げられはしません。僕はただ内に燃えさかる怒りに身を任せることしかできませんでした。

 2時間が経ちました。 リノリウムの緑と茶色の波線のヘビのようなデザインが僕の目の前をちらつきました。 僕は胃が気持ち悪くなり、自分自身に嫌悪感を覚え、恥ずかしくなりました。 「僕がこの短気を追い払うまで」と声を出して言い、「僕は怒りを手にするつもりはありません。ボブがその大きなバックルを身に着けていなかったら、彼はおそらく死んでいただろう、そして僕は刑務所に行くことになったか、学校を変わらなければならかった。」悲惨さ襲われました。 汗ばんだシャツが背中にくっつきました。 脇の下に汗が垂れました。 自分を嫌悪して、どうすることもできず、さらに自分を嫌悪しました。 心のどこからか、強い思いが浮かんできました。 祈るのです。 母は僕に祈るように教えていました。 ボストンの宗教学校の先生たちは、僕たちが神に依り頼むなら、神は僕たちを助けてくださるとよく言っていました。 何週間も、何ヶ月もの間、僕は自分のかんしゃくを制御しようとして、自分でそれを処理できると考えていました。今や、その小さな熱いバスルームのなかで僕は真実を知ったのです。 僕は自分の怒りを一人で手なずけることはできませんでした。

 二度と誰とも会うことができないような気がしました。 どうやって母親の目を見ることができるのでしょうか?母は知っているでしょうか? ボブに再び会うにはどうしたらいいでしょうか? 彼はどうして嫌いな僕を助けることができるでしょうか? 彼はどうして僕をまた信頼することができるでしょうか? 「主よ」僕はささやきました、「この短気を僕から取り除いてください。そうでないと、僕は短気から自由になることができません。最後には友達を刺すよりもっと悪いことをすることになるでしょう。」 

 僕は心理学に深く熱中し、短気は人格特性であると知っていました。この分野の標準的な考え方は、人格特性を変えるのは不可能ではないにしても困難であると言われています。 今日、専門家は私たちにできる最善のことは限界を受け入れ、適応することだと信じられています…。涙が僕の指の間に流れました。 「主よ、あらゆる専門家が言ったとしても、あなたは僕を変えることができます。あなたはこの破壊的な性格特性から僕を永遠に解放することができます。」 僕はトイレットペーパーで鼻を拭いて床に落としました。 「私たちがあなたの元で、信仰において依り頼むならば、あなたはそれをかなえてくださると約束しました。僕はあなたが僕のなかの短気を変えることができると信じます。」 僕は立ち上がって、狭い窓を見ながら、また神の助けを求めました。 僕は自分がしたあらゆるひどいことに対して、自分を永遠に憎むことはできませんでした。

 トイレに腰を下ろし、短気という身を切るように鋭い精神的な映像で、僕の心はいっぱいになりました。 僕は怒りを見て、その怒りに対して拳を握り締めました。 変わらないと何の役にも立ちません。 「かわいそうなお母さん」と僕は思いました。 「お母さんは僕を信じています。 母でさえ、僕がどれほど悪いか知りません。」 悲惨さが暗闇の中で僕を飲み込みました。 「僕の短気を変えてくださらないなら、神様、僕には他に行く場所がありません。」ある時点で、僕は聖書を持ってくるためにバスルームから抜け出ました。聖書を開いて、箴言(しんげん)を読み始めました。 すぐに、怒っている人々がどのように自分自身でトラブルに巻き込まれるかという詩を見ました。 箴言16章32節で一番印象に残ったのは、「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」です。

 読み続けていると、僕の唇は無言で動きました。 詩は僕のためだけに書かれているような気がしました。 箴言の言葉は僕を批難しましたが、希望もまた与えてくれました。 しばらくすると、平和が僕の心を満たし始めました。 手が震えなくなりました。 涙が止まりました。 浴室で一人でその時間の間に、何かが僕に起こりました。 神は僕の苦痛の深い叫びを聞いてくださいました。軽快感が湧き上がり、心の変化が起こっているのがわかりました。 違うと感じました。 違う。とうとう僕は立ち上がって、聖書をバスタブの端に置き、洗面台に行きました。 顔と手を洗い、服をきちんとしました。 それから、僕は浴室から出て、変化した若者となりました。 「僕の気性は二度と僕をコントロールすることはないだろう」と僕は自分に言い聞かせました。 「二度とない。僕は自由だ。」

そしてその日以来、自分自身と格闘し、神に助けを求めて叫んだ長い時間以来、僕は短気という問題を抱えたことはありません。 僕は毎日、午後の同じ時に聖書を読むことにしました。 僕はそれを毎日の習慣として続けており、特に箴言を楽しんでいます。 今でも可能な限り、毎朝聖書を手に取り、最初の部分を読みます。

僕が怒りについて考えるために立ち止まったとき、起こった奇跡は信じられないものでした。 心理学志向の友人の中には、僕はまだ怒る可能性があると主張する者がいます。彼らは正しいのかもしれませんが、僕はその経験から20年以上生き永らえており、爆発が発生したことはなく、かんしゃくを制御する必要があるという深刻な問題さえありませんでした。

僕は驚くほど大きなストレスと嘲笑に耐えることができます。 神の恵みによって、不快でいらいらする気持ちを振り払うための努力はまだ必要ありません。 神は僕に僕のひどい短気を一度に征服するのを助けてくれました。浴室で過ごした時に、人々が僕を怒らせれば、その人々が僕を支配することができることにも、僕は気づきました。 なぜ自分の人生に対して、他の誰かにそうした力を与える必要があるのでしょうか?

―ベンカーソン博士による本「Gifted Hands」から

ベンジャミン・カーソン博士は、全く望みのなかった脳神経外科の分野に希望をもたらした発見者として世界中に知られています。「恵まれた手」では、デトロイトの都心部での、博士の子供時代から33歳でジョンズホプキンス医療機関で小児神経外科部長となるまでの、啓発的な遍歴について語っています。

 カーソン博士は、70名のメンバーからなるチームが、ジョンズホプキンス病院で7か月のシャム双生児を分離するための、17時間にわたる壮大な手術に尽力しました。 彼の神への強い信仰と、人類の本質的な善良さへの信念、完璧なまでの情熱、そして彼の輝かしいキャリアの中で、医療の奇跡を生み出した彼の患者への愛は、外科医を超えたものでした。

https://media.radiosai.org/journals/Vol_07/01SEP09/09-get_inspired1.htm